第83話 “ざまあ見やがれ”
恋歌の前へと、割り込みながら。
あぁ――不思議な感覚だな、と思った。
俺は今、まず間違いなく、人生で最も頭に血が上っている。全身が苛立って仕方がない。胃の底から、ふつふつと怒りが湧いてくるのを実感する。
だって――大事な幼なじみが、泣いていたから。
だというのに……どうしてか俺は、ものすごく冷静だった。自分でも驚くほどに、頭が冴えている。
目の前のこいつらが誰なのかなど知らん。興味もない。
大切なのは、ただひとつの事実のみ。
この、いかにもクズですと言いたげな顔と声と髪型をした男どもが、恋歌に涙を流させた犯人なのだろう――そのことだけが、わかっていれば良い。
「あ? お前……おい、おいおいおいおい……っ!」
金髪の背の高い男が、何やら楽しげに笑みをこぼしている。
こいつは……あぁ、アレか。中学のころの、バスケ部の先輩だ。
名前は、たしか佐久間とかだったか。まあ、どうだっていいことだが。
「なんだよっ、秋人クンじゃんっ! 恋歌ちゃんがいたからさ、もしかしてって思ったけど――なあ、俺だよ俺! 覚えてるか?」
「花火の音で聞こえねぇよ。もっと腹から声出しやがれ、クズ」
俺がそう言うと、佐久間先輩の笑顔が露骨に固まった。
その背後の、銀髪の――いかにも真っ当な人生など歩めてなさそうな面立ちの男が、ニタっと醜悪に頬を歪ませた。
「ハハッ、言われちまったなぁ佐久間。ってか――良いね、キミ。キミみたいに度胸あるやつ、俺は好きだぜ」
などと言いながら、そいつは俺のほうへと一歩、近寄ってきた。
――計算通りの動きだ。この手のクズは扱いやすいな、なんて思う。
「で、なに? 秋人クンっていうのかな? キミ、恋歌ちゃんの何なの? 彼氏とか?」
「黙れよクズ二号。耳が腐る」
「……あ?」
「黙れって言ったんだよ。それとも、あんたの耳はとっくに腐ってんのか? ま、毎日そのドブみたいな声で喋ってりゃそうもなるか」
挑発しつつ――背後の恋歌へと、目配せをした。
……大丈夫。この手の連中に、一線を踏み越えられるような度胸などない。
こいつらは悪人っぽく振る舞っているつもりなのだろうが、実年齢は、おそらく俺より少し上程度。この銀髪のリーダー格っぽい男も、せいぜい二十歳前後だろう。
それに、ここから数メートル先の大通りでは花火大会が開催されているのだ。本当に質の悪い犯罪者であれば、この規模の人通りの周辺で事件などまず起こさないだろう。
つまり――この佐久間先輩たちは、祭りに乗じて女漁りに来ただけの、ただのクズだ。
俺がここで大声を出せば、すぐに異変を察知した大人がやってくる。
こいつらの矮小な脳みそでも、さすがにその程度は理解できているのだろう――だからこそ彼らは、今もこうして俺に睨みを利かせるだけで、手を出してこないのだ。
もし、万が一のことがあっても……この位置なら、俺が壁になれる。恋歌を逃がすくらいの時間は稼げるはずだ。
「おい。――あんま調子乗んじゃねぇぞ、ガキ。殺すぞ」
そう割り込んできたのは、佐久間先輩のほうだった。
至近距離。ガンを飛ばす、というのはコレのことを言うのだろう。
「あんときのこと、忘れてねェよな? また痛めつけてやろうか? あァ?」
「息がクセぇよ。脳みそと耳だけじゃ飽き足らず、胃袋まで腐らせてんの?」
「……決めた。マジで殺すからな、お前」
ボキボキ、と拳の音を慣らす佐久間先輩。漫画でしか見たことのない仕草に、思わず笑ってしまいそうになる。
そんな不良ごっこをする先輩の後ろで、残りのクズふたりが焦ったような表情で唇を噛んでいた。やがて銀髪のほうのクズが佐久間先輩の肩へと手を置いて、
「おい、佐久間。そのへんで――」
「黙ってろ!! このガキを痛めつけねェと俺の気が済まねェんだよッ!!」
怯んで、佐久間先輩から離れる銀髪。……情けない男だな、と心の底から思う。
まあ、何でもいい。こいつらが内々で揉めてくれるなら、俺にとっても悪い話じゃないし。
「なあ、恋歌ちゃん。よォく見とけよ? 今から恋歌ちゃんの愛しの彼氏を、また俺がボコボコにしちまうからさァ」
佐久間先輩の声を受けて、俺の背後の恋歌は。
ぎゅっ、と……俺の服の袖を、力なくつまんできた。
「…………め、て……」
花火の音は続いている。この位置からは木の陰になってしまって見えないが、きっと夜空には美しい景色が広がっていることだろう。
だけど――そんなものよりも、ずっと。
恋歌のその言葉だけが、俺の心を揺さぶってくる。
「わたしはっ、いいから……っ、だから、秋人に、だけは……っ」
いつだって綺麗な、恋歌のその声は。
俺にではなく、目の前のクズへと向けたものだった。
その事実に――たまらなく、憤る。
「お願い、です、から……っ、秋人にだけは、酷いこと、しないで……っ!」
「ククッ……ははっ、ハハハっ! 健気だねぇ、恋歌ちゃんは!!」
ケタケタと笑う佐久間先輩。
醜悪な笑みだった。見ているだけで、苛立ちが加速していく。
「でもよ、残念――このガキを痛めつけんのは、もう決定事項なんだよ」
……まあ、こうなるか。
残念ながら、俺にできるのはここまでだ。あとはもう、この佐久間先輩に任せるしかない。
さて、どうしたものかな。
繰り出されるであろう暴力に身構えつつ、そんなことを俺が考えていると――、
「っ、秋人……っ、なんでっ、なんでよ……っ」
喉から絞り出したような、恋歌のかすれた声。
そんな彼女へと――背中で、大丈夫だと伝える。
伝わってくれたかは、わからない。けど……今は、信じるしかない。
「なんで……っ、なんで、来ちゃったの……っ?」
あぁ――なんだ、そんなことか。
瞬間。みぞおちの中央に、鈍痛が走った。
呼吸ができなくなるほどの痛み。続けて、左頬を殴られた。身体があっけなく宙に浮く。地面に這いつくばる。当然、立ち上がれるほどの余力など俺にはない。
(……クソっ、マジで殴りやがった。クソ痛ぇし……っ)
丸めた背中を、蹴られる。蹴られ続ける。
何度も、何度も、何度も――あのときと、まったく同じ状況だなと思う。
俺はあの日も、こうやって恋歌の前で佐久間先輩にボコされた。完膚なきまでに、情けない自分を恋歌の前に晒し続けた。
「やめて……っ、ねえ、やめて! お願いっ、やめてっ、やめてよ……っ!」
縋るように。悲痛な声音で、恋歌が叫んでいた。
……恋歌には悪いことをしてしまったな。もしかしたら、もう少し上手くやれたかもしれないのに。
でも、まあ。しょうがないよな、と思う。
「秋人……っ、やだっ、やだよ……っ、ねえ、やめて! お願いだからっ、秋人から離れてよ……っ!!」
花火の散る音と、恋歌の涙混じりの声。
それを、同時に聞きながら――俺は、ふと思いを馳せていた。
(なんで来たのか、か。そんなの、決まってるんだけどな――)
だから……だからこそ、俺は。
あぁ、良かった――と、そう思う。
心の底から、この状況に安堵する。
「――――……ッ、佐久間先輩、だっけ……?」
「……、あァ?」
「あんたと違ってさ。俺は、成長してんだよ」
視界の縁に、光が見えた。
やべ、という短い声。俺への攻撃が止まる。同時、迅速な足音が聞こえる。
ひとつは、俺のほうへ。もうひとつは、佐久間先輩たちのほうへ。
――あのときの俺とは違うんだ。バカみたいに、無策のまま恋歌のために突っ込んだりなどしない。
事前に通報しておいた警察官が、ようやく到着してくれていたみたいだ。
「くそっ……離せ、離しやがれ! やめろっ……っ、触んな、触んなよッ!!」
この声から察するに、佐久間先輩が、みっともなく抵抗しているらしい。
二十時十七分、現行犯で逮捕します――警察官の、冷静沈着な声。
逮捕、か。良い響きだなと思う。恋歌に手を出そうとするから、こうなるんだよ。
――ざまあ見やがれ、ばーか。




