第70話 こぼれる涙
「恋歌……ねえ、恋歌。何があったの……?」
瀬名がしゃがんで、私の顔を不安げに覗き込んでくる。
でも、私は――そんな親友のことを、直視できなくて。
逃げるように、俯いてしまう。涙が、ぽたぽたと目の前にこぼれ落ちる。
「……恋歌。鈴北さんに、何かされたの?」
――違う。
声が出なかった。だから、首を左右に振って否定した。
「秋人くんと……何か、あった?」
それも――違う、けど。
そうじゃない。もっと、それよりも、早く瀬名に言わなきゃいけないことが私にはあった。
「っ……、せ、な……っ」
「うん、あたしはここにいるよ。どうしたの、恋歌?」
「ごめん、ね……っ、私、知らなく、て……っ」
瀬名のことを、見る。
彼女は――私なんかのことを、すごく心配してくれている顔つきで。
「瀬名、も……、秋人のことがっ、好き、なんでしょ……?」
「――――……、え?」
その優しい表情が、あからさまに引きつった。
瀬名は昔から、嘘をつくのが苦手だった。……嘘つきな、私とは違って。
「……恋歌。それ、誰に聞いたの……?」
前田さんの名前を、私は、口に出せなかった。
もしここで瀬名に前田さんのことを話せば、きっと瀬名は、私のためにすごく怒ってくれる。でも――それが、嫌だった。瀬名には、ずっと笑顔でいてほしいから。
だから、早く……早く、この涙も止めないと。
なんでもないって言わないと。昔みたいに、大丈夫だって嘯かないと。
――みんなの前で強がってみせることだけが、私の唯一の特技なはずなのに。
なのに、ぜんぜんダメだった。
どう頑張っても、頬を水滴が垂れてしまう。止めないとって思うたびに、逆に感情が溢れてしまう。
「ごめっ……ん、なさい……っ、わたし、ほんとに、知らなくて……っ、ごめん、ごめんな、さっ……!」
「恋歌。大丈夫、大丈夫だから」
ぎゅっ、と感触があった。
瀬名が……私のことを、抱きしめてくれていた。
――違うのに。私には、こんなふうに瀬名に優しくしてもらう権利なんてないのに。
だって。私のせいで、瀬名はいっぱい苦しんできたはずだから。
瀬名は私のために、秋人のことが好きだっていう気持ちを我慢してくれているのだと前田さんは言っていた。
私なんかがいなければ、きっと瀬名は、秋人とふたりで幸せになれていた。その幸せを、私が奪っているも同然だった。親友だなんて言っておいて、私はずっと、瀬名の気持ちに気づけなかった。それどころか、秋人のことで恋愛相談なんかしたりして……どこまで最低な人間なんだろうか、私は。
「よし、よし。大丈夫だよ、恋歌。大丈夫だから、まずは落ち着こ?」
「っ……、でも……っ!」
「前に恋歌に言ったこと、覚えてる? あたしは、何があっても恋歌の味方だって。だから、安心して? あたしは絶対に、恋歌のことを嫌いになったりしないから」
すり、すり……と、瀬名に背中を撫でられる。
びしょびしょに濡れた館内着。こんなことしたら、瀬名だって濡れちゃうのに――だけど私の親友は、そんなの気にしてないよと言いたげな声音で、
「ね、恋歌! ――カラオケ、行かない?」
そんな、突拍子もない提案を。
いつもの人懐っこい笑みを浮かべて、瀬名は私に言ってきた。
◇◇◇
「あーっ、あーっ! えっと、それでは! 僭越ながら、あたしが一曲目を歌わせていただきますっ!」
部屋で身体と服を乾かしてから、涙で腫れてしまった顔を洗って。
三階にあるフロントへと電話をして、カラオケルームの予約を取って。
それから……半ば無理やり瀬名に連行されるような形で、小さな個室のカラオケに私たちは移動していた。
「では、聞いてください――七海瀬名で、恋するビターチョコレート!」
そんなこんなで、瀬名が有名なアイドルソングを歌いはじめた。
一昔前に流行った、チョイスとしては古めの曲。だけど私たちの世代なら誰でも一度くらいは聞いたことのある、カラオケにはぴったりのラブソングだった。
満面の笑顔で、私の真っ正面に立ち、マイク片手に熱唱する瀬名。
モニターに映し出された、音程を表すバーは……ジェットコースターを連想させるくらい、上下に揺れまくっている。
「――ふぅーっ! 以上っ、七海瀬名でしたっ! いぇーいっ!」
瀬名が歌い終えた数秒後、モニターには、42という数字が表示される。
そう……包み隠さずに言えば、瀬名は、音痴だった。
熱意だけはGoodです――そんな皮肉めいた採点マシンからのコメントに、私はくすりと笑ってしまう。
「あ、もうっ! 恋歌、いま笑ったでしょっ?」
「あっ……ご、ごめんなさい……、私、違くて……っ」
「ふふっ。いいんだよっ、恋歌。あたし、恋歌に元気を出してほしくてカラオケ誘ったんだしっ」
瀬名は私の隣に腰かけて、にへっ、と笑いかけてくる。
私は……さすがに、歌う元気はなかった。だけど、どう返事をしていいのかもわからなくて。だから私は、思わず黙り込んでしまった。見覚えのないアーティストの広告が、時間とともに流れていく。
そうしていると、瀬名がじっと私の顔を覗き込んできて、
「ね、恋歌」
ぎゅっ、と。私の手の上に、瀬名のやわらかい手のひらが重なる。
「――恋歌の言うとおりだよ。あたしもね、秋人くんのことが好きなの。異性として、ね」
瀬名は、にこっと笑った。
いつもと同じ笑顔だった。優しくて、強くて、明るくて。……私の自慢の親友の、愛らしい笑顔。
「でもね――あたしは、秋人くんのことだけじゃなくて、恋歌のことも大好きなんだよ?」
 




