第69話 藤咲恋歌(2)
ある日。クラスメイトの女の子に、こんなことを聞かれた――綾田くんとはどんな関係なの、って。
そのとき、私は答えに詰まってしまった。
私にとって……秋人は、何なのだろう?
ただの幼なじみ? それとも私は、秋人に対して特別な感情を抱いているの……?
そうやって自分で自分に問いかけているうちに、なんだか、漠然とした不安を感じたのを覚えている。
その日から私は、秋人のことを自然と目で追うようになっていた。
そして――いつの間にか自分の中に芽生えていた、その“本音”に気づいてしまった。
秋人が、私以外の女の子と喋っているところを見ると……ずきずきと、胸がすごく痛む。そんな毎日を繰り返していくうちに、私の心はすり減っていった。
でも、この気持ちが歪だということは理解できていた。秋人の幸せを願ってあげられない私のほうが間違っているのだと、最初からわかっていた。
――ふと、急に怖くなった。
この気持ちが秋人に伝わったら、何かが、変わってしまうような気がして。
これまで築いてきた幼なじみとしての関係が、致命的に壊れてしまうような予感がして。
幸せだった私の日常が、終わってしまうんじゃないかって……そんなふうに、考えてしまった。
だったら、この気持ちを誰にも悟られないようにしなくちゃと思った。
そう考えた私は、自分の“本音”に鍵をかけた。
……小学二年生のころの私も、同じことをした。クラスの女の子たちからの嫌がらせを周囲に隠すために、こうやって自分の気持ちを心の奥底へと閉じ込めた。
幸いにも、嘘をつくのには慣れていたから。
そして私は、秋人の前で“建前”ばかりを口にするようになった。
私でも瀬名でもない女の子とは話さないでほしいとか。何かあったら英樹じゃなくて私を頼ってほしいとか。勉強のことは勇利よりも私に聞いてほしいとか。
そういう間違った気持ちを、周囲のみんなに隠すために。
私はその日から、秋人のことなんて好きじゃないってふうに強がりはじめたのだ。
『あのさ、恋歌。……最近、なんか嫌なことでもあったか?』
突然だった。バスケ部の練習が終わったあと、いつもみたいにふたりで帰り道を辿っていたら、いきなり秋人がそんなことを言ってきた。
どうしよう――と、頭の中が真っ白になった。
誤魔化さなきゃって焦って、どうにか言葉を探した。秋人にこの気持ちがバレたら、きっと気持ち悪いと思われちゃう。そうしたら、彼と距離ができてしまうかもしれない。せっかく手に入れた私の幸せな毎日が、崩れて無くなってしまうかもしれない――そんなの、私には耐えられない。秋人のいない毎日なんて、考えられなかった。だから……、
――なんでもないから。
――大丈夫だから……気にしないで。
そんなふうに、冷たく言い放ってしまったのだ。
同時に抱いた焦燥感を、私は今でもはっきりと思い出せる。
このままじゃダメなんだ、って痛感した。いくら強がっても、いつかは秋人にこの気持ちがバレちゃうんじゃないかって。秋人への歪んだこの感情を隠し通せず、幸せな毎日を失ってしまうんじゃないかって怖くなった。
そして――その“本音”と反比例するかのように、私は秋人へとキツく当たるようになっていった。
秋人へと抱いてしまった歪な“本音”を、彼のことなんか好きじゃないという“建前”で塗りつぶして。
言い過ぎちゃったかなって反省したこともあった。嫌われたらどうしようって怖くなって、ひとりで夜中に枕を濡らしたこともあった。
でも。次の日の朝になると、秋人はいつも、「おはよう」って言いながら私に笑顔を見せてくれて。
私の大好きな、無愛想だけど優しい笑顔だった。
やっぱり、秋人はすごく優しいな。そんなふうに、毎日のように思っていた。
だから……これでいいんだって、そう考えてしまったのだと思う。
――高校に入学するころには、秋人に辛辣な言葉を吐くことが、私にとっての当たり前になっていた。
そんな自分の“建前”に、いつしか違和感すら抱かなくなっていた。
栄養バランスを考えない秋人のために、ふたりぶんのお弁当を作って。寝癖とかネクタイとかを直さずに家を出る秋人の身だしなみを、私が「しょうがないな」ってふうに整えて。“ママ”とか“夫婦”とかってからかってくる瀬名や英樹を、やめてよって言葉で制して。勉強をさぼりがちだった秋人の課題を、放課後の夜に手伝ってあげたりして。
バカ秋人とか、ダメ人間とか――そういう言葉を吐くことに、いつの間にか、何の抵抗もなくなっていた。
鍵をかけて閉じ込めた“本音”を、私は見失っていたんだと思う。
それなのに……私は、幸せだなって頬を緩めてしまっていた。
にっこりとした笑顔でパフェを食べてる瀬名がいて。よくわからないことで言い合いをする英樹と勇利がいて。寝不足なんだと目もとを擦る秋人がいて。そんな彼のことを、「バカ秋人」だなんて言って呆れる私がいて。
それが、私にとっての、新しい当たり前だったから。
あぁ、幸せだなって。毎日が、とても楽しかった。
でも――秋人は、どうだったの?
私にとっては幸せな日常だった。だけど、秋人はどんな想いを抱えていたの?
私は、どうして勝手に――彼もきっと幸せなはずだ、なんて思い込んでいたの?
……最低だ。私は、紛れもなく最低の人間だ。
前田さんの言っていたことは、何ひとつ間違ってなんかいない。
私のことを支えてくれた秋人の優しさに付け込んで、辛辣な態度を取り続けて。
怖いから――そんな曖昧で身勝手な理由だけで、秋人の心を幾度となく傷つけて。
そうやって、自分の望む幸せな毎日だけを追い求めて。
なのに――秋人のことが、好き?
その秋人は、私のせいでずっと嫌な思いをしてきたのに? 私は今まで、彼のことを傷つけ続けてきたのに? 私の机にゴキブリを詰めてきた女の子たちと何も変わらない、最低な行為を彼にしてきたのに?
だというのに、自分だけ幸せになろうとして。
いったい……何様のつもりなんだろうか、私は。
自分の醜さに、涙が流れ落ちる。痛む喉から、勝手に言葉がこぼれる。
「…………ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
でも――戻らないと、って思った。
濡れた身体を拭く余力はなかった。びしょびしょのまま、館内着の浴衣に袖を通す。
服が、重い。
それでも私は、歩き続ける。
――私が謝らなきゃいけないのは、秋人だけじゃないから。
部屋には鍵がかかっていなかった。重いドアを押し開いて、玄関に入る。
「――おかえりっ、恋歌っ! ね、そういえばこのホテル――」
駆け寄ってくる親友の足音。
でも、もう……どうしようもないくらいに、限界だった。立っている気力なんて、とっくのとうに枯れていた。足を折って、床にへたり込んでしまう。
それでも、どうにか力を振り絞る。潤みきった視界を動かして、大好きな親友の顔を見上げる。
「え――? 恋歌、どうしたの……?」
ごめんねって言おうとした。言わなきゃいけなかった。
だけど……声よりも先に、涙があふれ出てしまった。
ごめんね。瀬名、ごめんね――心の中で、何度も何度も彼女に謝る。




