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第68話 藤咲恋歌(1)

 小学二年生のころ、同級生の男の子に告白されたことがあった。

 学年でいちばんカッコいいって噂になっている男の子だった。ある日の放課後の教室で、彼はみんながいる前で、「藤咲さん。ずっと前から好きでした」って私に想いを伝えてくれた。

 嬉しいなとは思った。だけどそのときの私は、恋愛が何かなんてわからなかった。誰かを好きになったことなんてなかったし、あのころは学習塾とスポーツクラブに追われる毎日で、恋人を作れるような余裕がなかった。だから私は、ごめんなさいってお断りをした。

 ――次の日の朝、私の机の引き出しの中に、死んだゴキブリがたくさん詰められていた。



 それを見たとき、声が出なかった。覚えているのは、周りの女の子たちのクスクスという笑い声。……後から知った話だけど、私に告白してくれた男の子のことが好きだったらしい子のひとりが、家にあった爬虫類の餌用ゴキブリを持ってきていたのだという。

 私は虫が嫌いだった。涙が出そうになった。でも、誰にも助けを求められなかった。秋人も瀬名も英樹も勇利も、みんな別のクラスになっちゃったから。幼なじみ以外の友達なんて私にはいなかったから。担任の先生に相談しちゃうと明日からもっと酷いことをされるんじゃないかって思ったから。……昨日、私に告白してくれた男の子も、私のことは助けてくれなかった。

 だから頑張って、ちりとりを使ってそのゴキブリを捨てた。すごく嫌だったけど、自分でやるしかなかった。

 なんで、こんな酷いことするんだろう。涙を堪えながら、そう思った。

 ゴミ箱の中を見た先生が不審がって、学級会が開かれた。五人くらいの女の子たちが、私にごめんなさいって言ってきた。だから私は、いいよって笑顔を浮かべた。

 その次の日の朝は、昨日の倍くらいの量のゴキブリが詰められていた。



 クラスの女の子たちからの嫌がらせを頻繁に受けるようになってから、テストで満点を取れなくなった。通わせてもらっていた体操クラブでは、得意だった逆上がりができなくなった。

 塾の先生に怒られた。クラブのトレーナーさんにため息をつかれた。お父さんとお母さんには、どうしたのって聞かれた。だけど私は、ごめんなさいって言うしかなかった。心配させたくないって思ったから、何でもないってフリをすることにした。家族の前では、笑顔でいることだけを意識するようになった。

 気づけば私は、両親との会話を避けるようになっていた。ずっと一緒にいると、どこかでボロを出してしまいそうだったから。



 幼なじみたちは、すごく私のことを心配してくれた。瀬名と英樹は、私のぶんまで怒ってくれた。秋人と勇利は、気にするなって優しく声をかけてくれた。そんな彼らに、私は大丈夫だよって返していた。これ以上は心配をかけたくないなって思って、「最近は何もされてない」って嘘をつくことにした。みんなは、それを信じてくれた。よかったねって笑顔になってくれた。

 でも……同時に、私は疎外感を覚えるようになっていた。

 秋人たちは、みんな同じクラスで。私だけが、違うクラスで。だからみんな、私の知らない話で盛り上がることが多かった。一方の私は、小さな嫌がらせを受け続けていて。そのことをみんなに知られないように、平気なフリをし続けていた。

 私ひとりだけが、みんなの輪の中にいないような感覚があって。

 家にも、学校にも。どこにも、私の居場所なんてなかった。



 その日の放課後は、宿題のプリントをどこかに隠された。

 またゴミ箱かなって思ったけど、今日は不運にも、ゴミの回収日だった。だから私は慌てて、校舎裏にあるゴミ捨て場に向かった。宿題をやってないって知られたら、またみんなに心配をかけてしまうと思ったから。

 秋人たちには、塾があるから先に帰るねって嘘をついた。自然と出てきた嘘だった。すっかり嘘つきになってしまった自分のことが嫌で、泣きそうになった。唇をぎゅっと噛んで堪えた。涙を堪えることは、いつしか私の特技になっていた。



 何分探しても、プリントは見つからなかった。

 早くしないと先生が来ちゃうと思った。でも、どれだけ探してもダメだった。私は唇を噛み続けて、何十個っていう数のゴミ袋を漁り続けた。

 ――どうしてこんなことになっちゃったのかな、と思った。

 私はただ、ひとりの男の子から告白されただけなのに。それを断ったからって、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのかなって思った。

 その気持ちに、蓋をした。がちゃりと心の中で鍵をかけた。

 そうやって嘘をつかないと、きっと、みんなに心配されちゃうから。迷惑をかけちゃうから。

 居場所なんて、なくなっていい。周りのみんなが幸せなら、私はそれで満足だ。

 何度も何度も、自分にそう言い聞かせた。

 ぎゅっと噛んだ唇が、すごく、痛かった。


『――――なんでだよ、恋歌』


 聞き慣れた声だった。

 幼なじみの、男の子の声。

 ……秋人の、声だった。


『なんで……っ、俺らに、言ってくれなかったんだよ……っ』


 彼は、泣いていた。

 目を真っ赤にして、ぼろぼろと涙を流しながら、私の顔を見つめてきた。

 ――見られた、と思った。どうしよう、と、すごく焦った。

 そのときの私は、どんな言い訳をしたんだっけ。クラスの友達に、間違えてプリントを捨てられちゃったとか……そんな、バレバレの嘘をついたのだったと思う。

 もちろん、すぐに嘘だと見抜かれた。秋人を怒らせちゃったかもって、すごく怖くなった。


 でも、彼は。

 何も言わずに――私と一緒に、プリントを探しはじめてくれた。


『そうだ、恋歌。俺とふたりきりのときは、正直なことを言ってもいいってルールにしよーぜ』


 六月末の、蒸し暑い夕焼けの中。

 たくさんのゴミ袋をふたりで漁りながら、そんなことを秋人は言ってきた。


『こんな俺でも、恋歌の話を聞くくらいはできるからさっ。な、いいだろ?』


 くしゃくしゃになったプリントを、私へと差し出しながら。

 秋人は、そう言って明るく笑った。とても、眩しい笑顔だった。

 それで、私は……何も、考えられなくなって。

 気づけば、秋人に抱きついていた。

 そして――彼の、言うとおりにすることにした。

 今まで思っていたことを、ぜんぶ、秋人に聞いてもらった。どうして私だけがこんな想いをしなきゃいけないの。どうしてクラスの子たちはあんな酷いことができるの。どうして誰も助けてくれないの。どうして先生は何もしてくれないの。どうして塾の先生はあんな意地悪言うの。どうしてクラブの先生は私にだけ厳しいの。どうしてパパとママは何も気づいてくれないの。どうして私だけみんなと違うクラスなの。どうしてあの男の子は私に告白したの。どうして私のことが好きなのに助けてくれないの。どうして誰も私の話を聞いてくれないの。どうして、どうして、どうして――、


『……ごめん。ごめんな、恋歌』


 どうして……どうして、秋人が謝るの?

 秋人は私の背中をぽんぽんと優しく叩きながら、私の話を聞き続けてくれた。

 その次の日も、次の次の日も。

 いつの間にか私は、放課後になると必ず、秋人とふたりで過ごすようになっていた。

 そして、いろんな愚痴を聞いてもらうようになった。あの男の子は私のスカートをめくってくるから嫌いだとか、あの先生は授業中に私のことばっかり指名してくるから苦手だとか。溜まりに溜まっていた鬱憤を、愚痴という形に変えて、毎日のように秋人の前で吐き出していた。



 ――楽しいな、って思った。

 酷い話だけど、誰かのことを悪く言うと、なんだか心がスカッとしたから。

 どれだけ嫌がらせを受けても、私には秋人がいるから大丈夫だ。

 いつからか、私はそんなふうに思えていた。



 ある日。私への嫌がらせは、ぴったりと止まった。

 ……今だからわかることだけど、きっと、その女の子たちは私に飽きたのだ。秋人のおかげで、私は心の底から笑えるようになっていた。そんな私の反応が、とてもつまらなかったんだと思う。

 テストの点数がもとに戻った。スポーツクラブでは誰よりも良い成績を残せるようになった。お父さんとお母さんも、偉いねってすごく褒めてくれた。夏休みに入ってすぐ、勇利のお父さんが経営しているホテルに遊びに行った。すごく楽しかった。そのときは、疎外感なんてちょっとも覚えなかった。

 二学期になってすぐに、新しい友達もできた。その子たちと、近所のショッピングセンターでお買い物をした。とても、とても嬉しかった。



 秋人のおかげで、すごく幸せな毎日が続いた。だけど、何もストレスがなかったわけじゃない。

 三年生になってから、クラス替えがあった。何十人っていう数の男の子に告白されるようになった。同級生だけじゃなくて、先輩にも告白された。そのせいで、やっぱり嫌がらせに遭ったりもした。昨日まで私のことを好きだと言っていた男の子が、次の日には私の陰口を言っていた。六年生の女の子に、お父さんに買ってもらったランドセルをトイレに捨てられた。そのときだけはどうしても我慢できなくて、思わずトイレの個室にこもって泣いてしまった。

 四年生になってから、塾の勉強が難しくなった。両親の期待に応えるために、いつもより努力しなくちゃいけなくなった。宿題の量が一気に増えて、秋人たちと遊ぶ時間を削るしかなくなった。お母さんが再就職をしてから、たまにお父さんと喧嘩をするようになった。その仲裁をするのが、私の新しい仕事になった。

 五年生になってから、身体の成長に伴う悩みが増えた。クラスの男の子たちが、露骨に私の胸へと視線を向けてくるようになった。体操クラブの先生からのボディータッチが増えた。すごく嫌だったけど、両親にはこれ以上の負担をかけたくなかったから。あと一年だけ頑張れば辞められるからと自分で自分を説得して、どうにか我慢することにした。

 だって……私は、高学年のお姉さんだから。愚痴を吐くのは悪いことだってわかっていたから、昔みたいに秋人に甘えたりはしなかった。彼の前でも、なんでもないフリをするのが当たり前になっていった。



 それでも――幸せだなって、私は思えていた。

 だって、私には秋人はいるから。彼に勉強を教えてあげたり、身だしなみを整えてあげたりする時間は、何よりも幸せだった。こんな私を頼ってくれることが、本当に嬉しかった。いつからか私は、彼のぶんの櫛を携帯するようになっていた。お母さんが休日に、私に料理を教えてくれるときがあった。そのときの私はいつも、秋人の喜ぶ顔を妄想していた。

 彼と話すと、頭の中のモヤモヤがすっと消えてくれる。彼のお世話をしてあげると、胸がぽかぽかと温かくなる。彼の笑顔を見ると、私も一緒に笑顔になれる。

 だから、私は幸せだったんだ。

 秋人と過ごす時間は、私にとって何よりも大事なものになっていった。


 

 ……ずっとこのままがいいな、って思った。

 秋人がいて、瀬名がいて、英樹がいて、勇利がいて。厳しいけれど優しい両親がいて、私に期待してくれる学校の先生がいて。こんな毎日が、ずっとずっと続けばいいなと願っていた。



 けれど。

 私の心は――中学生になったときに、大きく変化してしまった。

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