第66話 傷
「……っ、どういう、こと……?」
唇が、震える。
それでも、どうにか声は出せた。私の心臓の鼓動は、ばくばくと痛いくらいに加速する。
「あ。勘違いしないでね。べつに私は、美雪ちゃんに頼まれたわけじゃない。あくまでこれは、私個人からのお願いだから」
「…………っ、前田さん、の……?」
「うん、そうなの――美雪ちゃんはね。私の、恩人なの」
夜風が吹く。
前田さんの黒い髪が、怪しげになびく。
「ほら。私って地味な見た目してるじゃん? そのせいで、ターゲットにしやすかったんだろうね。……中学のころの私は、いじめられっ子だったの。これは、そのときにできちゃった傷なんだ」
ふと、彼女は。
その左腕を、私に見せてくる――何十本もの、痛々しくて悲惨な古傷だった。
「…………っ、」
「ま、この傷は自分でやっちゃったんだけどねぇ。でも、そのくらい追い詰められてたんだと思う。そんなときに――私のことを助けてくれたのが、美雪ちゃんなんだ」
何も、言葉を挟めない。
……うまく、声が出なかったから。だから私は、黙っていることしかできなかった。
「美雪ちゃんのおかげで、辛いだけだった学校が、すごく楽しいものになった。いじめがなくなっただけじゃなくて、たくさんの友達ができたりしてさ。それに、彼氏だってできたんだよ? 私なんかにはもったいないくらいのイケメンで、スポーツがすごく得意な、自慢の彼氏」
そう言って前田さんは、照れくさそうに微笑んだ。
でも。彼女のその黒い瞳は、ちょっとも笑っていなくて。
「――町田くん、って名前なの。恋歌ちゃんも、よく知ってるよね?」
「…………ぁ、」
何か、声にすらなっていない音が、喉から細く漏れた。
町田くん――隣のA組の、バスケが得意な男子生徒。
私は、一年生のころ……彼に、告白されている。
「彼、私と同じ高校に行きたいって言ってくれて。それで美雪ちゃんと三人で、同じ高校を受験したの。そしたら、みんなで合格できて――あのときは、すごく嬉しかったなぁ」
でも、と。
前田さんの語気が、ほんの少しだけ、強まった。
「だけど、入学してすぐ、町田くんにフラれちゃったんだ。私以外に、好きなひとができたんだってさ。一目惚れしたんだ、って熱く語られちゃって。……ほんっと、デリカシーのないヤツだよねっ」
ちゃぷん。
さっきよりも深く、前田さんが温泉に肩を沈める。
「あ――違うからね、恋歌ちゃん。私はべつに、恋歌ちゃんのことを恨んでるわけじゃないから」
「…………ぇ、?」
「だって、恋歌ちゃんだもんっ。こんなに可愛い美少女がいたらさ、男なら誰だって好きになっちゃうでしょ。私だって初めて恋歌ちゃんのこと見かけたとき、こんなのズルすぎでしょって思ったくらいだし」
その表情には、やっぱり笑みを浮かべたまま。
言葉を、続けてくる。
「私が許せないのは、いじめだよ。私はね、いじめっ子のことが大嫌いなの」
話が、見えてこなかった。
だけど。
前田さんの黒い瞳は、私を視界に捉えたまま動かない。
「だから――もちろん、恋歌ちゃんのことも、大っ嫌いだよ?」
まっすぐに。
前田さんの言葉が――私の心臓に、突き刺さる。
「…………っ、ぇ? なん、で……?」
「ん? いやいや、そのままの意味じゃん。私は、《《恋歌ちゃんみたいないじめっ子》》のことが、心の底から嫌いなの」
「っ、ちがっ……私っ、そんなこと……してない、よ……?」
「そうそう、そういうところが大っ嫌いなの。いじめっ子ってさ、いっつも自覚ないフリするんだよねぇ」
いじめっ子? 自覚?
……ねえ、何のことなの?
前田さんは……私に、何が言いたいの?
「私、ぜんぶ知ってるよ? 綾田くんと恋歌ちゃんの夫婦漫才って、うちの学年の名物みたいになってたもん。恋歌ママ、みたいに呼ばれてたっけ?」
「……っ、なに、を……?」
声を、絞り出す。
乾いた唇を、私は必死に動かし続けた。
「知ってる、って……なんの、こと……?」
「恋歌ちゃんさ。今まで毎日みたいに、綾田くんに酷いことばっかり言ってたでしょ。バカ秋人とか、ダメ人間とか。ちょっと女の子のこと見たらヘンタイ扱いしたり、ネクタイが曲がってるだけでだらしないって罵ったり。ああいうの、さ――綾田くんが、傷つかないとでも思ってたの?」
……それ、は。
……違う。私は、秋人を傷つけたかったわけじゃなくて――、
「相手の気持ちも考えず、好き勝手に言いたい放題してさ。綾田くんのことを苦しめて、見下して、馬鹿にして――ねえ、教えてよ。これのどこが、いじめじゃないって言うの?」
「……っ、わた、しは……っ」
「極めつけは、陰口だよ。恋歌ちゃん、彼のことを大嫌いだって裏で言ってたんでしょ? しかも、それを本人に聞かれてさ。――可哀想にね、綾田くん。仲良しだと思っていた幼なじみに、そんなふうに裏切られて。きっと綾田くんは、恋歌ちゃんの想像してる何十倍も傷ついたと思うよ?」
……違う、違うの。
私……私は、そんな、つもりじゃなくて……っ、
「なのに、今さら何のつもり? 今まで綾田くんを傷つけ続けてきた、いじめっ子の恋歌ちゃんがさ。いったい、どの口で綾田くんのことを好きだって言うわけ?」
「っ……ちが、う……わた、し……っ」
「違うって、何が違うの? 幼なじみなら何だってして良かったわけ? 綾田くんの気持ちを考えず、何度も何度も酷いこと言ってさ。そうやって彼のことをいじめてたくせに、なんで恥ずかしげもなく好きだなんて言えちゃうの? どういう神経してたら、そんな身勝手でワガママな人間になれるの? 陰口を言うのが最低な行為だって、どうして自覚できないの? いじめっ子のクズのくせして、どうして自分だけ幸せになんてなろうと思えちゃうの? ねえ――ねえ、教えてよ!!」
思いっきり。彼女が、強く手を振り払った。
熱いお湯が、私の顔に勢いよく叩きつけられる。
「っ…………、ぁ……」
私、は。
もう……どうすることも、できなくて。
「ごめん……な、さい……っ」
痛い。
痛くて、苦しい。
頭も、喉も、心臓も。ぜんぶが、すごく痛かった。
「……だからっ……謝る、からっ……もう……もう、やめて……っ」
「あはっ。この程度で、そんなになっちゃってさ。ま、そんだけ顔が可愛いんだし、よっぽど周りに甘やかされてきたんだろうね――」
だけど、前田さんは。
彼女の声音は、止まなかった。
「――たとえば、瀬名ちゃんとか」
瀬名。
私の、大好きな親友の名前。
どうして、前田さんは……瀬名の名前を出したの?
「ねえ、恋歌ちゃん。瀬名ちゃんの好きなひとが誰かって、知らないの?」
「…………せ、な……?」
「そ、瀬名ちゃんの。ま、誰にも話してないみたいだし、知らなくて当然だけどね。でも――誰が誰を好きなのかとかってさ。見てれば、わかっちゃうものなんだよ?」
やがて。
前田さんは、楽しげに口もと歪ませて……、
「――――瀬名ちゃんね。たぶん、綾田くんのことが好きだよ?」




