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第65話 「お願い」

『すぐ行くね』とだけ前田さんにメッセージを返した私は、エレベーターを使って最上階へと向かった。

 前田さんによると、どうやら鈴北さんは、屋上にある有料の貸し切り露天風呂で私を待ってくれているらしい。

 と、そこで私を出迎えてくれたのは、


「――お待たせ、恋歌ちゃん。ごめんね、わざわざ来てもらって」


 ぱっつんの黒髪に、丸いレンズの眼鏡。

 鈴北さん――じゃなくて、前田さんがそこに立っていた。


「あ……うん、大丈夫。前田さんこそ、メッセージありがと」


「ふふっ。それじゃ、とりあえず入って?」


 そんな前田さんの笑顔は――なんだろう。ちょっと、怖いような気がした。

 彼女に着いていく形で、鈴北さんが待っているはずの浴室の中へと足を踏み入れる。

 だけど、そこには。


「あれ……ねえ、前田さん。鈴北さんは……?」


「美雪ちゃんなら、いないよ。ラウンジのほうに行ったみたい」


 ガチャリ。

 前田さんが、後ろ手で入り口の鍵を閉めた。


「……え?」


「恋歌ちゃん。とりあえず、お風呂入ろっか?」


「でも……鈴北さんが、私を呼んだんじゃ……」


「恋歌ちゃん。――服、脱ご?」


 微笑みは、その顔に貼りつけたまま。

 前田さんの黒い瞳が、私をじっと見つめてくる。……それに気圧されて、私は言われるがままに座椅子へと腰を下ろした。

 ――心臓が跳ねた。すごく、嫌な感じがした。


「ふふっ、そんなに怖がらないでよ恋歌ちゃん」


 淡々とそう喋りながら、前田さんは館内着である浴衣を脱ぎはじめた。

 狭い更衣室の床へと、彼女が着ていた服が落ちていく。

 

「ウソついちゃってごめんね、恋歌ちゃん。私、恋歌ちゃんのふたりっきりでお喋りしてみたかったの。だから、美雪ちゃんのことをダシにしちゃったんだっ」


「……ぁ、そ、そう、なんだ……」


 うまく、声が出ない。

 どうしてだろう――あのときの光景が、フラッシュバックする。

 中学一年生のころ、先輩の告白を断ったときの記憶。豹変した先輩の、あの真っ黒な目。

 いや……それだけじゃない。

 小学二年生のときの、クラスメイトの女の子たちのことを、私は思い出していた。


「だから、ほんとに大丈夫だってば。私、べつに怖いことするつもりじゃないからさっ」


「っ……ほ、ほんと……?」


「うんっ。私はただ、恋歌ちゃんにお願いがあるだけなのっ」


 にっこりとした、濁りのない笑みで。

 前田さんは、そっと眼鏡を外した。

 やがて彼女は、その黒い瞳で私の全身をじっと観察するように流し見て――、


「だからさ。――お風呂、入ろ?」


 どうして、と思った。

 どうして、前田さんは……そんな目で、私のことを見るの?

 彼女のその瞳が、なんだか、とても怖くて。

 私は……わかった、と返事をしていた。



 服を脱いで、温泉に浸かる。

 濁った星空の下で、私は前田さんの隣に座り込んだ。

 貸し切りだからだと思うけど、ここの温泉は決して広くない。それが……何だか、とっても狭苦しく感じた。


「ふふっ、ありがとね恋歌ちゃん。私のワガママに付き合ってくれてさっ」


 昼間までの彼女と何も変わらない、どちらかと言えば明るい声色だった。

 ……私が、警戒しすぎてるだけなのかな?

 でも……胸のざわつきは、止まってくれる気配がなかった。


「というかさっ。夕方も思ったけど、やっぱ恋歌ちゃんって可愛いなぁ。さすがは学園一って言われるだけはあるよねぇ。肌とか、めっちゃ綺麗だしっ。どうやったらそんなスベスベのツルツルになるの?」


「え……あっ、うん。これは、その……」


「その?」


「あ……お、お母さんが、化粧品会社で働いてて。それで、いろんなのをオススメしてくれる、から……っ」


 声が、震える。

 言葉がうまく思い浮かばない。だけど、私は必死に唇を動かし続けた。


「へぇー、そうなんだっ。だから髪もそんなにサラサラなの?」


「か、髪は……うん。ドライヤーとかも、お母さんが選んでくれて……」


「でもさっ、その顔は生まれつきなわけじゃん? しかも、すっぴんでそれでしょ? スタイルも綺麗だしっ、私が男子だったらゼッタイ恋歌ちゃんのこと好きになっちゃうなぁ~」


 ――やっぱり、だ。

 私の勘違いなんかじゃなかった。ざわつく胸が、ばくばくと動悸を起こす。

 前田さんの目には、何か、黒い感情が宿っていて。

 その声音には、何か、重たいものが混じっていて。


「ね、恋歌ちゃん。私から、お願いがあるのっ」


 だから、だったんだ。

 私が、あのときのことを思い出した理由。



「――――綾田くんのこと。美雪ちゃんに、譲ってあげてよっ」



 どろどろとした、悪意に満ちた眼差し。

 ――あの女の子たちと同じ目で、前田さんは私のことを見てきていた。

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