第58話 いざ、一泊二日へ
夏休みに突入してから、あっという間に十日が過ぎた。
七月二十八日。そう――今日はついに、恋歌たちと泊まりで遊びに行く予定の日だ。
……ゴールデンウィークのときは体調を崩し、みんなに迷惑をかけてしまった。だが今回は、ばっちり体調万全である。その事実に、俺はとりあえず安堵する。
集合場所は、最寄り駅の改札前。
俺は重い荷物を背負ったまま、じっとスマホの時計を見続けていた。
(……しまった。いくらなんでも、早く着きすぎたな……)
はあ、と俺は息をつく。
時刻は八時半ぴったり。しかし予定では、九時ちょうどの電車に乗ることになっていた。
当然、俺は一番乗りである。……さて、あと三十分をどう潰したものか。
しかも、今日の最高気温は三十八度にまで及ぶのだという。絶好のプール日和であることは喜ばしいが、一方で、駅構内で棒立ちするには暑すぎだった。
せめて誰かひとりでも来てくれれば良いんだけどな――と、そんなことを考えたのと、ほとんど同時に。
「――あ、秋人っ。おはよっ」
にこっとした笑みを浮かべた、亜麻色の髪の美少女と目が合った。
白のワンピースをふりふりと揺らしながら、彼女はこちらに駆け寄ってくる。
「早いね、秋人。ふふっ、偉いね?」
「いや、そういうつもりじゃなかったんだけど……ま、何でもいいか。おはよう、恋歌」
「うんっ。おはよ、秋人っ」
えへへ。屈託のない笑顔で、恋歌は俺の顔をじっと見つめてくる。
対する俺は、恋歌の顔から目を逸らす。……予想はしていたけれど、やっぱり今日もデレモード(仮称)だったか。
もはや今さら言うまでもないことだが、恋歌の顔立ちは信じられないくらいに可愛い。そんな彼女の満面の笑みを直視してしまえば、俺のようなモブ男子は文字通りイチコロである。
「ん? どうしたの、秋人?」
きょとん、と小首をかしげる恋歌。可愛いかよ。
そんな彼女のワンピース姿に一瞬だけ視線を向けてから、すぐに視線を切る。……やはりダメだ、似合いすぎている。綺麗な亜麻色の髪と相まって、本物の天使が目の前にいるかのように見えた。
「いや……なんでもないよ。暑いな、と思ってさ」
もちろん、そのことを素直に言えるはずもなく。俺はてきとうな言葉で、自分の感情を誤魔化した。
……が、しかし。
恋歌は一歩、そっと俺から距離を取って、
「ね、秋人」
「……お、おう。なんだ?」
「――似合ってる、かな?」
くるくる、と。
その場で恋歌は、一回転した。
似合ってる、って――まさか、俺に感想を求めているのか……?
今まで恋歌は、俺のそういう視線を感知するたびに『ヘンタイ』と罵ってきていたのに?
もしかして、アレか? ハニートラップ的な何かを俺に仕掛けてきているのか? ついに俺のことが嫌いすぎて、塀の中にぶち込もうと企てているのか?
どうする、俺。何をどう答えるべきか、思考をフル回転させる。
と――そのまま、数秒間が過ぎてしまったらしくて、
「あ……秋人、ごめんね。やっぱり、似合ってなかったかな……?」
潤んだ上目遣い。恋歌は無理やり笑おうとしたのか、複雑な表情を浮かべていた。
――何を考えてるんだよ、俺は。
恋歌は、俺に伝えてくれたじゃないか。
今までの俺への罵倒は、ただの強がりだったのだと。本当は俺のことを好意的に思ってくれているのだと、そう謝ってくれたじゃないか。
あれが幼なじみとしてなのか、異性としての言葉なのか。いまだに、俺にはわからない。
だけど。今は、少なくとも――、
「……ごめん。あまりにも似合いすぎてるから、うまく言葉が出なかったんだ」
俺にとって、恋歌は、大切な幼なじみだ。
そんな彼女を傷つけていい理由など、どこにもない。
だから俺は素直に、思ったことを口にすることにした。
「可愛いよ、恋歌。もしここが花畑だったら、天国に来たのかなって勘違いしてたと思う」
「……ふふっ、あははっ。なにそれ、ヘンな褒め言葉っ」
くすり、と。
無邪気に、恋歌は笑ってくれた。
「ね、秋人」
恋歌がちょいちょい、と手招いてきた。耳を近づけてくれ、のサインである。
どうするつもりなのだろうかと緊張しつつも、俺は恋歌の唇へと耳を近づけた。
その薄い唇は、いつもより少しだけ潤っているような気がして――、
「――秋人も、カッコいいよ?」
「…………っ!?」
耳もとで囁かれた、そのソプラノボイスに。
危うく俺は、昇天してしまいそうになった。……文字通りの意味で、である。
◇◇◇
特急列車を乗り継いで、約二時間後。
送迎バスから降りた俺たちの正面には、巨大なホテルが堂々と鎮座していた。
「うへぇ。やっぱデカいなぁ、このホテル。ひさびさに来たけど、圧巻としか言いようがないぜ」
英樹が感想を漏らすと、勇利が自慢げにメガネをクイっと持ち上げて、
「当然だ。なんたって、俺の親父の経営するホテルなんだ。バカデカくて当然に決まっている」
「おい勇利、もうちょっと良い感じの褒め言葉はなかったのかよ……? オレですら圧巻って言えたんだぞ?」
やれやれ、と肩をすくめる英樹。
……ふたりの言うとおり、本当に大きいホテルだ。外観だけでも、俺たちの学校の三倍くらいはあるように見えた。
いわゆるスパホテルであるこの施設には、室内の温室プールと、夏のみ利用可能な屋外プールが付属している。ウォータースライダーなんかもあり、さらに部屋やレストランからは海を眺めることができるのだ。まさに、夏を満喫するには打ってつけの場所と言えるだろう。
「ね、みんなっ! とりあえずさっ、記念に写真撮ろっ?」
きらっきらに目を輝かせた瀬名が、興奮した様子でスマホを構える。
すると彼女は、周囲をきょろきょろと見回した。自撮り形式ではなく、誰かに撮ってもらおうと考えているのだろうか。
――ちょうどそのときだった。ホテルの前に、またしても送迎バスが停車する。
さすがは大人気ホテルの繁忙期だ、きっとバスの本数もかなり多くしているのだろう。と、そんなことを考えていると。
「……ん? んんん?」
見間違いだろうか。俺はごしごしと何度か自身の目を擦っていた。
ガラス張りにされた、ホテルのエントランスの壁。
それの反射越しに、見覚えのある金色の髪が見えたような気がして……、
「――――あれっ、ウソっ!? 綾田っちじゃんっ!!」
そのあだ名で俺を呼んでくるのは、クラスで――いや、世界でひとりしかいない。
どうやら、見間違いじゃなかったらしい。
驚きを抱えたまま、俺は声の方向へと振り返る。と――、
「やっほ、綾田っち! まさか、こんなとこで会うなんて……えへへっ、これって運命?」
太陽みたいな笑顔を浮かべた金髪サイドテールの美少女が、ふりふりと俺たちに手を振っていた。




