第44話 そっと、寄りかかる
「――――……秋人っ! よかった、やっと会えた……っ!」
目の前の少女――藤咲恋歌は、にへら、と嬉しそうに笑った。
一方の俺は、ぱちくり、と、まばたきをするのみ。
「ふ、藤咲? なんでここに……」
「探したの。もしかしたら秋人、ここにいるのかもって」
そう言うと藤咲は、俺のほうへと歩み寄ってくる。
彼女はなぜか、俺と同じで、いまだにユニフォーム姿のままだった。……どういうことだよ、と思う。
だけど、考えてもわからない。
藤咲が――俺のことを、探してた?
「……そうか。閉会式の前だから、俺を探してこいって先生にでも……」
「ううん、違う。私と秋人は先に帰ったって伝えてもらうように、もう瀬名にメッセージしちゃったし」
「は? いや、なんで……っ」
「秋人と、ふたりきりになりたかったから。――えへへっ。私、悪い子になっちゃった」
やがて彼女は、俺の正面まで近づいてきて。
その可憐な顔が、じっと俺のことを見上げてきて……、
「汗。拭いてあげるから、座って?」
「……え?」
「ね、いいでしょ? ……風邪、引いちゃうよ?」
藤咲は幸せそうに笑った。
昨日の夜も、どこか彼女は様子がおかしかった。だけど今は……昨日よりもさらに、距離感が近いような気がして。
そんな藤咲に言われるがままに、ぺたん、と俺は腰を下ろしてしまう。
「ふふっ、いい子。それじゃあ、髪から拭いてくね?」
「お、おう……?」
藤咲は俺の首にかかっていたタオルを手に取って、そのまま俺の髪をよしよしと拭いはじめた。
……なんだか撫でられてるような感覚だ。気恥ずかしくて蒸発してしまいそうになる。
「ね、秋人」
「えっ!? な、なんだよ……」
「私ね。秋人に、言いたいことがあるんだ」
撫でるような手つきは、そのままに。
ふだんよりもずっと明るい声音で、藤咲は言ってくる。
「今日の秋人は、ね――すごく、カッコよかったよ?」
――え、と思った。
想像もしていない言葉だった。思わず、表情が固まる。
「ううん、今日だけじゃない。秋人はいつだって、すごくカッコよかった。いつも誰かのために一生懸命になれて、ほかの誰よりも頑張れて。陰でいっぱい努力したりして。そんな秋人のことを、私はすごく尊敬してるんだ」
藤咲の、穏やかな声が。
俺の全身に、ゆっくりと染み渡っていく。
「あのときだって、同じことを思ったの。秋人、私のために、年上の先輩に立ち向かってくれたでしょ? ああいう危ないのは、もう絶対に辞めてほしいけど……でも私、すごくカッコいいなって思っちゃった」
俺の髪を拭う、タオルの感触が。
よし、よし、という藤咲の手の動きが心地良くて。
……あぁ、ダメだと思った。これ以上は、もう、俺は。
「私は、ね――秋人の、そんなところが好き。大好きなの」
ぎゅっ、と。
少女の華奢な身体が、俺を抱擁してきた。
あったかい彼女の体温に、そっと優しく包まれる。
「っ……!? 藤咲っ、なにを……っ」
「秋人、泣きたいんだよね? 幼なじみだもん、そのくらいわかるよ」
むぎゅう。さっきよりも、ほのかに強い抱擁。
とく、とく……という、少女の穏やかな鼓動が伝わってくる。
「ほら、いいんだよ? 秋人のカッコいいところは、もういっぱい見せてもらった。だから――」
優しくて、甘い声音に。
彼女の温もりに、俺は抗えなくて。
「――今度はさ、秋人のカッコ悪いところ、いっぱい私に見せてよ。ね?」
「……っ! なんで、そんなこと……ッ!」
視界が、霞んでいく。
喉と目尻が、焼けるように熱い。
胸が苦しい。痛い。今すぐにでも張り裂けてしまいそうだった。
「だって……恋歌は、俺のことが――」
「あ。名前、呼んでくれた」
耳もとで、穏やかな少女の声が囁かれる。
ぽん、ぽん……と、背中に触られる。まるで赤子をあやすかのような、繊細な手つき。
「ふふっ。嬉しい。秋人、秋人っ」
「……なあ、恋歌……っ」
「うん。いいよ、何でも言って?」
「なんで……なんで、こんな優しくするんだよ……っ」
――俺はダメだな、と改めて思う。
恋歌に抱きしめられて、小さな子供みたいに涙を流して。
この感情を、もう、我慢できそうになくて。
「俺は……恋歌の、言うとおりの人間だ。面倒くさがりで、だらしなくて、不真面目で、勉強も運動もいまいちで……っ」
喉が、動く。
激情に流された言葉が、こぼれていく。
「だから……っ、恋歌に嫌われて、当然だって思った。なのに……なんで、恋歌は、こんな俺なんかに……っ」
「……ごめんね。私のせいで、いっぱい辛い目に遭わせちゃったよね」
「っ、違う! 俺は、ただ……っ、こんな、自分が嫌で――」
「ね、秋人。私の本当の気持ち、聞いてくれる?」
とくん、とくん、と。
俺と恋歌。ふたりぶんの心音が、混ざり合っていく。
やがて。恋歌は、そっと俺の耳もとに唇を寄せて――、
「私、ほんとはね――秋人の、そういうダメなところも好きなんだよ?」
なんだよ……なんだよ、それ。
どうして今になって、そんなこと言うんだよ。
「……秋人。今まで、本当にごめんね。私、ずっと強がってたの。秋人に、私の本当の気持ちを知られるのが怖くて……もし知られたら、今まで通りの関係でいられないかもって思っちゃって。そうやって、この気持ちと向き合うことから逃げ続けてたんだと思う」
それは。
どういう……意味、なんだろうか。
「でも、そのせいで私、秋人をたくさん傷つけて……ごめんね、秋人。ほんと、私って酷い幼なじみだよね……」
「っ、そんなこと、俺はっ……」
「だから――そのお詫び、ってわけじゃないけど。今度こそ、ちゃんと伝えさせて?」
恋歌の声が。
心地良いソプラノボイスが、俺の意識を奪い続ける。
「私はずっと前から、秋人のことが大好きだった。カッコいいとこも、そうじゃないとこも、ぜんぶ。秋人のぜんぶが、私は大好きなの」
「…………、恋歌……っ」
恋歌の抱擁は、あったかくて、やわらかくて。甘い香りがして。
とん、とん。俺の背中を叩く手つきは、すごく優しくて。
なんだか……安らかな心地に、なってくる。
「だからね、秋人。たまには、私に甘えてほしいな。いっぱい泣いて、秋人の情けなくてカッコ悪いところ、いっぱい私に見せて?」
「……っ、だからっ、なんで……」
「秋人は今日まで、あんなに頑張ってきたんだもん。だから幼なじみの私が、偉いねって褒めてあげなきゃ。ね、そうでしょ?」
「…………ははっ。なんだよ、それ……っ」
――やがて、夕焼けが沈んでいく。
空の色が、ゆっくりと闇色に染まっていく。
思い出すのは、あの日の夜の、静まり返った河川敷。
秋人なんて、大嫌い――あのときの恋歌の声音を、今だって、俺は鮮明に思い出せる。
そして俺はこの場所で、恋歌から自立すると決意した。ぺしん、と強く自分の頬を叩いたのだ。
あの痛みを、忘れてしまったわけじゃない。そう簡単に、忘れられるはずもない。
だけど――今、この瞬間の恋歌の温もりも。
きっと、いつまでも忘れないと思う。
だから、俺は。
「――――あのさ、恋歌」
「うん。どうしたの?」
「もうちょっとだけ……強く、抱きしめてほしい」
「うん。わかった――」
まあ、今日くらいは。
ダサくてカッコ悪い自分のままでも、いいかなと思った。
恋歌に、そっと寄りかかって。彼女の手に導かれるようにして、その胸へと顔を埋めて。
それから俺は、彼女の胸の中で涙を流し続けた。
あの日みたいに、どこの誰よりも情けなく。
……でも、あの日とは違って。
そんな情けない自分のことが、ほんのちょっとだけ、誇らしく思えたような気がした。




