第3話 わからない
私――藤咲恋歌は、通学路を早歩きで進みながら。
ひとりの幼なじみのことが頭から離れてくれなくて、朝からモヤモヤしていた。
「もう……いきなりなんなのよ、秋人のばか……っ!」
彼――綾田秋人とは、幼稚園からの付き合いだ。
家が近所の私たちは、今までほとんど毎日、学校まで一緒に行くことにしていた。
なのに……突然、秋人は「今日までにしよう」なんて言ってきて。
「昨日も私を置いて帰っちゃうし……あぁもう、あのバカ秋人っ!」
秋人のことを考えるたびに、ぎゅっと心臓のあたりが熱くなる。
同時……私は、とある会話を思い返していた。
昨日の放課後。同じ部活の友達に、こんな質問をされた。
『ねえねえ、藤咲さんっ。ぶっちゃけさ、綾田くんとはどんな関係なの?』
またその話か……と、うんざりしたのを覚えている。
たしかに私と秋人は、よく一緒に行動することが多い。席も隣同士だし。
だけどそれは、あくまで幼なじみだから。特別な関係なんて何もないのに……なぜか私と彼が付き合ってるのだと勘違いした子が、よく面白半分でこういうことを聞いてくるのだ。
とはいえ無視するわけにもいかず、私はとりあえず、ぱっと頭に思い浮かんだ言葉を口にした。
私は決して、彼のことを好きなんかじゃない。むしろ、秋人みたいなダメ人間のことなんか大嫌いだ、と。
でも、そのあと……、
『じゃあ藤咲さん、もし綾田くんに告白されたらどうするの?』
『え? そ、それは――』
その瞬間に芽生えた感覚を、私ははっきりと憶えている。憶えてしまっている。
ちくり、と、胸の奥が痛むような。
なのに……ぽかぽかと暖かい何かが湧き上がってくるような、そんな感じがして。
『……どう、するんだろ。私、私は……』
『藤咲さん、さっき言ってたよね。綾田くんに好きになる要素なんかない、って。なら、悩む必要なんかないんじゃないの?』
『っ、でも! 秋人は、その……ほんとは、けっこう優しいし……あと、ここぞっていうときは誰よりも頑張るし、それがすごくカッコよくて……っ!』
自分がとんでもないことを口走っていることに、あのときの私は、すぐには気づけなかった。
だけど気づいた途端に、私の身体はぶわっと熱くなった。たぶん、顔もすごく赤くなっていたと思う。
『ふふっ、藤咲さん可愛い。ツンデレってやつ?』
『え……ち、違うからっ! 私はほんとにっ、秋人のことなんか……っ!』
『はいはい、わかったわかった。それじゃあまたね、藤咲さん』
『う、うぅ……』
空き教室に取り残された、私の頭の中は……なぜか、秋人のことでいっぱいで。
……どうして、なのかな。
どうして、私はあのとき――あんなに、胸の奥がぎゅっとなったの?
私と秋人は、ただの幼なじみ。
だったら、この胸のモヤモヤは何?
……どれだけ考えても、まったくわからない。だから昨日の私はそこで考えるのをやめて、とっとと秋人を迎えに行くことにした。
彼は帰宅部だけど、いつも私の部活が終わるのを待ってくれている。……ほんっと、バカなんだから。
だけど――結局、秋人の姿はどこにもなくて。
これは明日、お説教をしないとと思った。何かあるならメッセージくらい寄越しなさいよ、って。
なのに、なのに……、
「なんでいきなり、あんなこと言うのよ……っ」
さっきの秋人の言葉が、態度が、どうしても頭から離れない。
別々に登下校しよう、というのもそうだけど。
これからはもう、恋歌に迷惑はかけないつもりだ――あれは、どういう意味なの?
(……なに考えてるのよ、私。これからはもう秋人の面倒を見なくて済むんだから、もっと喜ばないと……)
秋人はだらしない。寝癖があるのは当たり前だし、ネクタイも雑に結んでくる。ご飯は栄養バランスなんてちょっとも考えないし、授業中だって寝てばかりだ。
だから幼なじみの私が、そんな彼の面倒を見てあげないとダメなんだと思っていた。これは仕方のないことだと、そういうふうに割り切っていた。
でも……どうやら私は、唐突に、その役割から解放されたらしい。
喜ばしいことだ。だってもう、いちいち秋人のことを気にしなくて良くなるのだから。
秋人のダメ人間さに、もう二度と、頭を抱えずに済むのだから――、
「だったら、私……なんで、こんなにモヤモヤしてるの……?」
わからない。どれだけ考えても、結局、私には何もわからなかった。
……こうしてひとりで登校するのは、いったい何年ぶりだっけ。中学生のころ、秋人が風邪で休んだとき以来かな。
私の肌を撫でた春風は、いつもより少しだけ冷たいような気がした。