第37話 思い出の河川敷
約束通り、俺は藤咲と一緒に帰り道をたどっていた。
こうしてふたりで隣を並び歩くのは、いったい何日ぶりだろう。少なくと、一ヶ月以上は経っているはずだ。
だけど前と違うのは、お互いに無言のままなこと。
とくに何の会話をするわけでもなく、虫の鳴く夜道を静かに歩き続ける。
「ねえ、秋人」
数分歩いてから、唐突に藤咲が話しかけてくる。
俺は驚いて、彼女のほうを見る。藤咲の綺麗な顔立ちは、まっすぐ前を向いていた。
「今日はありがとね、秋人。私のわがままに付き合ってもらっちゃって」
「いや、べつに……俺としても、いい練習になったしな」
「そう? えへへ、よかった」
ふと藤咲は俺と目線を合わせて、やわらかく笑いかけてくる。
その表情があまりにも魅力的すぎて、俺は思わず視線を逃がした。
「最近の秋人って、すごいよね」
しかし藤咲は気にせず、言葉を続けてきた。
いつもよりも穏やかな声音に聞こえた。俺の気のせい、かもしれないが。
「身だしなみはちゃんとしてて、勉強も運動もがんばってる。お昼もちゃんとバランス考えてるみたいだし、目の下のクマも消えてるし。それに明日の球技大会のために、いっぱい練習してたんだよね。――秋人、偉いね?」
「お、おう。まあ、藤咲に迷惑かけたくなかったからな……」
「そっか。ありがとね、秋人」
さっきから何度も何度も、藤咲のソプラノボイスが俺の名前を呼んでくる。
そのたびに、胸にモヤモヤが溜まっていく。彼女が何を考えているのか、わからなくなっていく。
「ね、秋人。――今まで、ごめんね」
「……え?」
藤咲が、足を止めた。
彼女は――その瞳に、うっすらと涙を浮かべていて。
「私、今まで秋人に、酷いことばっかり言ってきちゃったから。秋人のこと、たくさん傷つけちゃったよね。だから……本当に、ごめんなさい」
「っ……いや、俺は――」
「ね。この河川敷、覚えてる?」
俺の言葉を、遮るかのように。
藤咲は、いきなり話題を変えてくる。
「いや、覚えてるも何も……そりゃ近所だし、記憶には残ってるよ。小さいころから、よくここで遊んでよな」
「ふふっ、だね。でも私にとってはね、この河川敷は、すごく特別な場所なんだ」
藤咲はくるりと身体の向きを変えて、河川敷のほうを眺めはじめた。
街灯に照らされた緑の丘と、穏やかに流れていく川。それを、彼女はじっと見つめている。
「秋人、覚えてる? 中一のとき、この河川敷で私がバスケ部の先輩に告白された日のこと」
「……当たり前だ。忘れるわけないだろ」
自然と、口もとが引きつる。
忘れようとしても忘れられない、俺の人生でいちばん鮮烈な記憶だった。
「私が告白を断ったら、その先輩、すごく怒っちゃって。私に、その、乱暴なことしようとしてきて……ふふっ、すごく怖かったなぁ」
あれは藤咲にとって、何よりも辛い経験だったはずだ。
そのはずなのに、彼女は今、とても嬉しそうに微笑んでいて。
「そんなときに、秋人が来てくれて。私を守ろうと、先輩に立ち向かってくれたんだよね。でも……秋人、すごく喧嘩弱いから。すぐボコボコにされちゃって」
「や、やめてくれ、掘り返すなって。くそ、マジで恥ずかしい……」
あのときの俺は、冷静じゃなかったのだ。
藤咲の「誰かっ」って声が聞こえて、すぐに駆けつけたところまでは良かった。
だけど俺は愚かにも、その先輩に殴りかかってしまったのだ。警察を呼ぶとか、大声を出して助けを求めるとか、もっと賢い手段があったはずなのに。
しかも、相手はふたつも年上の、体格のいい先輩だった。俺なんかが敵うはずもなく、あっけなく返り討ちにあって。
「――あのときの秋人は、なんだか、漫画のヒーローみたいだったな」
藤咲の髪が、風になびく。
彼女はそれを手で抑えながら、その金色の瞳を輝かせていた。
「……出てきて一秒でボコボコされるヒーローとか、俺はめちゃくちゃ嫌だけどな」
「ふふっ。たしかに、そうかもね」
にへら、と、砕けた笑顔。
やがて藤咲は、まっすぐに俺の顔を見て、
「だけど――私は、好きだよ」
え――?
今、なんて言ったんだ……?
「ずっと、秋人にそのことを伝えたかったの。話、聞いてくれてありがとねっ」
「っ、待ってくれ。藤咲、今のって――」
「秋人。……帰ろっか」
またしても藤咲に、言葉を遮られる。
そして――その後、彼女を家に送り届けるまで、俺たちは一言も話さなかった。
ひとりになってから、さっきの藤咲の言葉を思い返す。
「……好きって、言ってたよな」
あれは、何に対しての言葉だったのだろうか。
漫画のヒーローの話? それとも……そうじゃない、何かに向けて?
「なんなんだよ、くそっ……」
俺は自分の左胸のあたりを、ぐしゃり、と強く握りしめる。
鼓動は、まだ鳴り止んでいない。
俺の脳裏には、藤咲の幸せそうな笑顔が浮かびっぱなしだった。
 




