第36話 幸せそうな笑顔
(――いやいやっ、勘違いするなって俺! そんなわけないだろ……)
だって俺は、大嫌いだと藤咲に告げられてるのだから。
今は、なんというか……そう、きっと舞い上がっているのだ。まったくそんなふうには見えないが、藤咲は意外と明日の球技大会を楽しみにしているのかもしれない。だからテンションが高くなって、つい思ってもないようなことを言ってしまったのだろう。
だとしたら、俺はラッキーだな。ふだんの藤咲なら、彼女の胸を直視してしまった時点で罵倒1時間コースだったはずである。
「秋人、どうしたの? 顔、赤いよ?」
「えっ!? わっ、悪い……」
くそ……困ったな、めちゃくちゃ調子が狂う。
藤咲とは十年以上の付き合いだが、悪口ひとつ言われないのは幼稚園のとき以来だと思う。小学校に入るころにはすでに、彼女は俺にだけ辛辣になっていたし。
それが今日は、そういうのが一切ない。
むしろなんというか、俺にすごく優しくしてくれているような感じがして……ヤバいな、これ。このままじゃ俺は、あっさり藤咲に惚れ直すぞ。
「……体調、悪かったりはしない? ちょっと休憩する?」
「いやっ、しないしない。ほんとに大丈夫だから……」
「ほんとに? 熱とか、ないよね?」
そう言うと藤咲は、俺のほうへと近寄ってくる。
またしても距離が近くなる。至近距離で見る彼女の整った顔立ち、そしてスポーツウェア越しにわかる身体のラインを直視してしまい、俺は慌てて目を逸らした。
しかし――ぺたん、と。
藤咲の白くて細い手が、俺の額に触れてきた。
「っ!? ふ、藤咲……?」
「……うん、大丈夫みたいね。えへへ、よかった」
ほっとしたように笑顔を見せて、俺から離れる藤咲。
いや、本当に……いくらなんでも、可愛すぎるだろ。
というか藤咲の手は、すごく小さかった。しかもすべすべで、やわらかくて。女の子の手の感触って、あんな感じなんだな。
「じゃあ秋人、続き、できる?」
「え? お、おう……」
俺は頬をぺしぺしと叩いて、バスケに集中する。
そうだ、落ち着くんだ俺――藤咲はただ、明日に向けて練習がしたいだけ。俺のことが大嫌いだという気持ちを、今だって我慢しているに違いない。
それにしては距離感が近すぎるような気もするが、そんなもの、どうせ俺の思い込みに決まっている。
「よし。じゃあ、行くぞ藤咲」
「うんっ」
俺は今度こそドリブルの体勢を構え、オフェンスを開始させる。
左側に藤咲のデフェンスを引き寄せてから、即座に方向転換をして右側から切り込もうとして、
「――――やべっ、」
結局……集中など、できるはずがなくて。
俺は思いっきりドリブルをミスして、カバーしようと強引に身体を動かすが、足が絡まって前に倒れてしまう。
そして俺の正面には、当然、ディフェンスをしていた藤咲がいて……、
「――――きゃあっ!?」
どてんっ。藤咲の華奢な身体に、うっかり激突してしまう。
そのまま俺たちは、バスケコートを背にして倒れ込んだ。
俺が……藤咲を、押し倒すような姿勢で。
「っ!! 悪い藤咲っ、怪我は――」
と、そう声をかけようとしたのと同時に。
俺は、手の中の感触に気づく。
むにゅ……という、その至福の触り心地に。
「んっ……ねえ、秋人。そこ、手……っ」
藤咲の嬌声と、ほのかに赤らんだ可憐な顔立ち。
お互いの吐息を感じるくらいの距離で、俺たちは見つめ合って。
俺は何が起きているのかすら理解できないまま、数秒が経ち――ふと、唐突に気づく。
「あっ――ご、ごめん……っ!!」
慌てて俺は、飛び上がるようにして彼女の身体から離れる。
だが、いまだに手の中には、藤咲の胸の感触が残ってしまっていた。人生で初めて触れた異性の胸は、想像よりもずっとやわらかくて……あんなにも触り心地がいいものなのか、と思う。
って――今はそんなこと考えてる場合じゃないだろ、俺。
今回ばかりは、言い逃れなどできない。する気にもなれなかった。
俺は今、そのくらい最低な行為を藤咲に働いてしまったのだ。
「そのっ……本当にごめん、藤咲。でも俺、わざとじゃなくて……」
「うん、わかってるよ。秋人は、そんなことするひとじゃないもん」
なのに。
藤咲はゆっくりと立ち上がりながら、そっと優しく微笑んだ。
月明かりに照らされた亜麻色の髪が、まるで天使の羽のように見えてくる。
「でも……えへへ。私、生まれて初めて、男の子に触られちゃった」
「う……わかったよ。俺、警察に自首してくる……」
「ふふっ、何それっ。私、べつに怒ってないよ?」
にひ、と。
なぜか藤咲は、どこか無邪気に笑って。
「だって、私――秋人にだったら、嫌じゃないもん」
藤咲の綺麗な瞳に、見つめられて。
――俺の心臓のあたりが、何かに撃ち抜かれたような感覚があった。
どくどく、と。弾けるような鼓動が、身体の隅から隅へと広がりはじめる。
「ッ……あのさ、藤咲……」
「うん? どうしたの、秋人?」
「今日は……もう、帰ろうぜ。あんまり遅いと、明日に支障が出るしさ……」
――これ以上は限界だった。
今日のこの藤咲と話していると、つい勘違いしてしまいそうになる。
もう、すべては終わったはずなのに。
「……そうだね。わかった、帰ろっか」
少しだけ悲しそうに、藤咲は頷いてから、
「ね、秋人。……途中まで、秋人と一緒に帰りたい。ダメ……?」
甘えるような、可愛らしい上目遣い。
学園一の美少女からのそれを受けて、俺のようなモブ生徒が断れるはずもなく。
「まあ、どうせ近所だしな。わかった、送っていくよ」
「いいの? ……えへへっ。ありがとね、秋人」
藤咲は、幸せそうな笑顔を俺に見せてきた。
……なんでそんな顔するんだよ、藤咲。
……俺のことが、大嫌いなんじゃなかったのかよ。
桜の木が鳴らす葉擦れの音が、いつもよりも騒がしいような気がした。




