第35話 ふたりきりの時間
「ねえ、秋人。……お願い。私の練習、付き合って?」
藤咲にいきなり袖をつままれて、さらに上目遣いでそんなことを言われて。
しかも……藤咲はたぶん、風呂上がりだ。なんだか髪がしっとりしている感じがするし、運動用の薄着から覗く白い肌がほのかに火照っている。その色気を前に、俺は思わず固唾を呑み込んでいた。
「……秋人。やっぱり、私とじゃ嫌なの……?」
「えっ!? 嫌って、何が……」
「練習。秋人も、明日に向けて練習してたんでしょ? 私も同じだから……秋人と、一緒にしたい。ダメ?」
上目遣いはそのままに、ぐっと顔を近づけてくる藤咲。
……なぜか、めちゃくちゃ距離が近い。ものすごく甘い香りがする。どきどき、と俺の心臓がうるさい音を鳴らしはじめる。
そんな俺の気持ちを、知ってか知らずか。
甘えるような声音で、藤咲は言葉を続けてきた。
「ね、秋人? お願い……私と一緒に、やろ?」
「わ……っ、わかった! わかったから、離れてくれ……っ!」
降参の意味も込めて、俺はそう返す。
すると藤咲は、ぱあっと満面の笑顔を咲かせて、
「ほんと? ……えへへっ、嬉しい」
頬をほんのりと赤らめて、俺の顔を見つめてくる。
――なんだこれ、と思う。
俺は夢でも見ているのだろうか。そのくらい今の藤咲は、明らかに様子がおかしかった。
「それじゃ、準備するねっ。秋人、ちょっとだけ待っててね?」
そう言うと藤咲は、俺の目の前で髪をほどきはじめた。
セミロングに伸ばした亜麻色の髪を、ポニーテールに束ねようとしているのだろう。ヘアゴムを唇で咥えて、両腕を頭の後ろに回して髪を結おうとする仕草は……とてつもなく、無防備で。
藤咲は今、ノースリーブのスポーツウェアを着用している。そのせいで彼女の白い肌や腋などがチラチラと見えてしまうのだ。薄い素材のせいか彼女の身体のラインも際立っているし、なんというか、その、ありがとうございますとしか言いようがない光景である。
「うん、できたっ。じゃあ秋人、1on1でいい?」
「え? ……お、おう。いいけど……」
「えへへ、ありがとっ。私が先にオフェンスするねっ」
無邪気な笑み。……藤咲って、こんなふうに笑えるんだな。
彼女は小さいころから、どことなく大人びた雰囲気を帯びていた。バカみたいなことで騒ぐ俺たちに、呆れたような微笑みを向けてくる。いつも、そんな感じだったはずだ。
でも、そんな彼女は、今。
子供みたいだとしか言いようのないくらいの、屈託のない笑顔を浮かべている。
それがなんだか、とても新鮮で――もはや言葉にするまでもなく、魅力的だった。
◇◇◇
それから俺と藤咲は、しばらく1on1形式の練習を続けた。
ゴール下の攻防を想定した、抜くか抜かれるかの真剣勝負。
まあとはいえ、俺は男で藤咲は女の子。体格差もあるし、負けることはないだろうと思っていたのだが――、
「ふふっ。秋人、また油断したでしょ?」
……情けないことに、ほとんど互角だった。
こうなってしまった原因を、俺は完全に理解している。
(いやいや。こんな状況で、集中できるわけないだろ……っ!)
夜中の公園で、学園一の超説美少女とふたりきり。
しかも彼女のスポーツウェアは薄着で、その白い素肌を存分に晒していて。
さらに――ドリブルやシュートのたびに、綺麗な形をした藤咲の胸が揺れたりするわけで。
「はいっ。つぎ、秋人の番だよ?」
「お、おう。ありがと……」
藤咲からボールを受け取り、とりあえずドリブルの体勢に入る。
対する彼女も、ディフェンスの構えを作る――前屈みの姿勢になったせいで、形のいい胸の谷間が思いっきり見えてしまっていた。
そして……当然ながら、俺は男である。
藤咲恋歌という美少女の、その白い肌の隙間に生じた影に。
俺の視線は、無意識のうちに吸い寄せられて――、
「あ……ね、秋人。今、どこ見てたの?」
げ、と思った。
……もしかしたら、俺の視線に気づいてしまったのだろうか。藤咲はじとっとした目線で、俺の表情を伺ってくる。
ふと。過去に、俺が藤咲から受けた罵倒が脳裏に蘇る――『このヘンタイ』と、そんなふうに言われまくっていた日々が懐かしい。
(いや、今はそれどころじゃないだろっ。どうにか誤魔化さないと……っ!)
罵倒なんて、まだ可愛いものだ。
もし俺が藤咲の胸をじっと見てしまったことがバレれば、その程度の制裁じゃ済まされないかもしれない。警察に痴漢として通報でもされてしまえば、俺の人生はここで終わりだ。
「ど、どこも見てないって! それよりほらっ、練習の続きを――」
「私の胸、見てたの?」
あ……終わった。
まさか、こんなにもあっさりと、人生の終わりを迎えることになるとは。初恋と一緒で、何事も唐突に終わってしまうものなんだな。
だけど、藤咲は……、
「ねえ……秋人。秋人って、女の子の胸、好きなの……?」
彼女は通報どころか、罵倒のひとつすらしてこなかった。
それどころか――そわそわしながら、恥ずかしそうな上目遣いを俺に向けてきて。
「い、いやっ、俺は……っ」
ダメだ、頭が回らない。
今日の藤咲は、本当にどうしてしまったんだ?
彼女は――俺のことが、大嫌いなんじゃなかったのか?
そんなことを考えているうちに、脳みその中がぐるぐると混乱しはじめて。
「俺は、そのっ……! 胸とかよりっ、脚のほうが好きだぞ! ほら、ふともも、とか……っ」
……最悪だ。何を言ってるんだよ、俺は。
頼む。誰でもいいから、今すぐ俺を暗殺してくれ。
俺はいったい、なんてことを口にしてしまったんだ。これじゃあ誤魔化すどころか、状況をただ悪化させただけじゃないか。
「……そっか。そう、なんだ……」
でも。
藤咲の反応は、やはりというか、俺の想像とは違って。
彼女は横髪をくるくると指先でいじりながら、もじもじと薄い唇を動かして、
「じゃあ、明日から……スカート、もうちょっと短くしようかな……?」
ぼそり、と。
顔を赤くさせて、藤咲はたしかに、そんなことを呟いた。
……なんだよ、それ。
……本当に、いったい何が起きているんだ?
これじゃあ、まるで――藤咲が、俺のことを好きみたいじゃないか。




