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「稲嶺、伊吹のこと好きすぎじゃね?」

作者: ゼン

 小学校の横を通り過ぎると、小さな郵便局がすぐに見えてくる。

 窓ガラスの『郵便局で年賀状印刷』と大きく書かれたポスターが目を引く。その下に書かれた説明文言をすべて読むことはできない。小さすぎるわけじゃなくて、バスが動くから。

 いつもなら読もうと目を凝らしてみるけれど、今日はそんな気にもなれない。


 バスが進むにつれて、街並みは少しずつ変わっていく。


 歩道を歩く人々は厚手のコートを身にまとい、帽子や手袋で寒さをしのいでる。

 時折、暖かいコーヒーを持ってほっと一息ついてる人の姿もあったりして、皆、なんとなく、(まゆ)よりも幸せそう。


 ……まあ、たぶん、被害妄想なんだろうけど。


 店のウィンドウには冬物のディスプレイが並んで、クリスマスの飾り付けが彩りを添えてるのは、毎年思うことだけど、飽きずに思う。「気が早い」って。


 だって、ハロウィンが終わると、街はあっという間に冬支度を整える。

 オレンジと黒から、赤と緑へ。

 忙しなくって、くだらなくって、なんだか滑稽。


 ……いつもキラキラしていたバスの中から見える景色を、こんなふうに思ってしまうのが悲しい。


 つい二時間前までは、クリスマスの赤と緑に「あー、かわいいなあ」なんて気分よく眺めていたのに。

 バスの行きと帰りで、ここまで気分が真逆になるなんて。


 情緒、完全にぶっ壊れてる。

 ただ、それも仕方ないかも、と繭は思う。


 ──ほんの十分前、繭は失恋したばかりだった。


 しかも、八個上の幼馴染、(たすく)くんの務める、繭の行きつけの美容院で。それも、まったく予想していなかった形で。


 失恋して髪を切るなんて、今どき古いって言うけれど……というか、そもそも繭は、失恋するつもりで美容院に行ったわけじゃない。結果的に失恋散髪になっちゃっただけ。


 ──侑くんの笑顔と、「俺、結婚するんだ」という声が、まだ頭の中でこだましてる。


 繭はおつりとスタンプカードを持ったまま、「へえ、そうなんだ」って言うのが精一杯。

 口の中で頬肉を噛んで、泣かないように、ただただ頑張ってた。


 侑くんの目の前で泣くのは絶対に嫌だったから、なんとか笑って振り返りしなに「おめでとう」って言えたけど、胸が痛くて痛くてたまらなかった。


 まあ、泣きたいのも胸が痛いのも、続行中なのだけど……って、あー、だめ、泣きそう。


 今、ここに隕石落ちないかなあ……嘘、ごめんなさい。神様。嘘です。隕石は落とさないで。


 繭は、鼻をすんとすすった。


 こんなところで涙なんか流したら絶対に終わりだ。だってバスの中だし、後ろの長椅子のところに『繭にだけ塩対応の(いな)(みね)くん』がいるんだもの。


 というか、だいたい、なんであの人、いつも繭にだけ冷たいわけ?


 女子にも男子にも人当たりが良くて、中学の頃は推薦投票で生徒会長をやってたくらいの人格者なのに、繭にだけ「ふーん」「で?」「だから何」みたいな塩対応。


 はーー、と長い息を吐き出して、頭を座席にどさっと預けた。


 バスの揺れに身を任せながら、繭はぐしゃぐしゃに乱れた頭の中を整理する。

 いや、整理なんてできないから、もうやめよう。


 ……ついでに、頑張るのもやめちゃおうかなあ。


 侑くんに「可愛い」って言われたくて頑張ってた、ポテチ禁止令とか。牛乳の量をちょっとだけ減らすのも、ガムシロと甘いお菓子を控えるのも、寝る前の腹筋百回も、小顔体操も。


 無意味だった。全部が、全部、無駄だった。


 侑くんは美人で年上の店長さんを選んだ。

 だから、繭が何をしたってもう意味がない。


「帰ったらポテチ食べちゃお」


 呟きはバスの振動にかき消される。

 繭の声も、小さな決意も、誰にも聞かれることはない。


 ……本当は分かってた。


 侑くんは、繭をそういう対象として見ていない、って。

『お兄ちゃんの妹』としてしか見ていない、って。

 侑くんは男兄弟の末っ子で、ずっと妹が欲しかったと言っていて、ちょうどいいところに幼馴染の妹の繭がいて、たまたま可愛がってくれていただけだ、って。


 もしかしなくてって、侑くんはお兄ちゃんよりも繭を可愛がってくれていた。

 ううん、今だって可愛がってくれている。


 美容院の代金は、侑くん持ちで二千円も割引してくれるし、繭の誕生日には憧れのブランドの香水を贈ってくれた。まだあの香りが似合うとは到底言えないけれど……だからこそ、ずっとずっと頑張ってきた。


 ……あーあ、あーあ。


 繭は心の中で繰り返しながら、窓の外を見る。実際、声に出ていたかもしれない。


 日が暮れてきた街並みが、バスの揺れとともにぶれて見える。


「……ほんと、ばっかみたい」


 いや、『みたい』じゃなくて、ただの馬鹿。それも、大馬鹿。


 そもそも、考えれば分かることなのだ。

 二十四歳のまともな成人男性が、高校一年生の自分を相手にすることなんてあり得ない。


 けど、これもやっぱり仕方ない。だって、恋は盲目だから。


「はーーーー」


 もう何度目かってくらいしつこい溜め息を吐いて、その拍子に座席の端をぐっと掴む。何かを掴んでいないと、胸の中にあるモヤモヤしたものがあふれそうで。


 ──そのときだった。


「……溜め息吐きすぎ」


 低い声がした。


 ぎょっとして振り返ると、稲嶺くんが繭をじっと見ていた。バスの揺れに合わせて少しだけ斜めになっている姿勢なのに、目線はまっすぐこっちに向けられている。


「?」


 繭は思わず声を詰まらせる。


 それでも稲嶺くんはそれ以上何も言わない。

 ただ、視線をふいっと窓の外に戻して、それきりだ。


 ……何なの。


 繭の胸の中に、いつもと同じ塩対応な態度に対するイラっとした気持ちと、それとは違う何かが混ざる。

 少しだけ落ち着きのない顔をしている稲嶺くんの横顔に、首を傾げる。


 なんで、この人、ここまで来たの?


伊吹(いぶき)さ……」

「……うん?」


 さて。実は稲嶺くんと繭は、頭文字『い』繋がりで出席番号が同じだ。


 今年の四月、学年順で座るオリエンテーションで、彼と初めて出会った。

 名前順に座った席で隣同士になり、「よろしく」と自然体の笑顔を向けてきた彼は、人気アイドルのユッキーに似た印象的な顔立ちをしていた。


 それだけではない。彼が教室を見渡したり、ふと笑顔を見せたりするたび、教室の空気が変わるのを繭は感じた。

「誰、あの人」「かっこいい~!」と、周囲がざわめき出す。

 彼はあっという間にクラスの中心人物になっていった。


 少なくとも、そのときはまだ、彼がこんなふうに『繭にだけ塩対応』になるとは思わなかったのに──


「……奥、つめて」

「隣に座るの?」

「ん」


 え? 「ん」じゃなくて。なんで、隣?


 だって、空いてる席なら他にもいくらでもあるじゃん。

 そう言いかけて、稲嶺くんが繭の隣の席を指差しているのが目に入った。


「他にも空いてるよね?」

「どこでもいいわけじゃない」


 繭は首を傾げつつ、少しだけ座席をずらした。すると、稲嶺くんは無言のまま繭の隣に腰を下ろす。


 ……いつもあんなに距離を取ってくるくせに、今日はどうしてこんなに近くに座るの?


「……体調悪い?」

「なんで?」

「さっきから鼻すすりすぎ。風邪?」


 不意に稲嶺くんがそう言ってきた。


 何それ、急に気遣い?


 繭は思わず稲嶺くんの顔をじっと見る。

 だけど、彼はこっちを見ていない。


 目線はどこか遠い景色を追っているけれど、その表情にはほんのわずかだけ『気にしている』空気が混じっている……気がする。たぶん、おそらく、メイビー。


「んーん、泣きそうだっただけ」


 繭の言葉に、稲嶺くんの肩がぴくりと反応するのが目に入る。


 だけど、反応はそれっきりだった。

 稲嶺くんは口を閉じたまま、会話を続けるつもりはなさそうだ。


 妙な気まずさに耐えられなくなった繭は、バッグをがさごそと探りながら、なんとなく言葉を継ぐ。


「ねえ、鼻かんでいい?」

「……かめば?」


 まるで興味がなさそうな声。相変わらずの塩対応。


 でも、それならそれで遠慮なく、と繭はポケットティッシュを取り出して、思い切り鼻をかんだ。

 びいいいいん、と響く音に少し恥ずかしくなりながらも、スッキリした感覚が気持ちいい。


 音を響かせて一息ついたあと、なんとなく隣を見ると、稲嶺くんが複雑そうな顔をしているのが見えた。


「え、何?」

「別に」


 繭が尋ねても、稲嶺くんは短くそう答えるだけで、目線をすぐに窓の外へ戻した。

 けれど、その耳がほんのり赤いように見えて、繭はなんだかよくわからない気持ちになる。


「……泣きそう、ってなんで」


 今度はもっと小さな声だった。


「このバスは桜花台駅行き直行バスでございます。次は紅葉市、青柳町、風見坂の順に停車いたします」


 バスのアナウンスがちょうどその声をかき消してしまう。繭は少し体を寄せて、思わず聞き返した。


「ごめん、何て?」

「だ、から……っ、なんで泣きそうだったのかって」


 声、小っさ。


 普段、教室やグラウンドで元気な声を出している稲嶺くんからは想像できないくらい小さな声。


「失恋しちゃったの」


 簡潔に言った。

 自分でも驚くくらいあっさり言えた。


 声に出してしまうと、胸の中でぐるぐるしていた重たい気持ちが少しだけ軽くなった気がした。


 だから、ついでに──のちに、この『だから、ついでに』って何? となる繭だが、今は失恋散髪のショックで情緒がぶっ壊れているので、違和感があっても、見逃してもらえると、大いに助かる。


 てなわけで、だから、ついでに。


 繭は自分にしょっぱい稲嶺くんに、思いの丈をぶちまけた──どれだけ、繭が侑くんを好きだったかを語ったのである。

 ……まあ、バスは乗っている時間が限られているのだが、早口でノンストップで話せば問題はないだろう。


 小学一年生の頃から好きだったこと。

 お父さん以外で初めて、バレンタインチョコレートをあげた人が侑くんだったこと。

 ……そのときに、結婚の約束をしたこと。


 まだまだ、語り尽くせないくらいあるけれど、風見坂で下車しよう。


 家にポテチがないので、コンビニによらねばならない。バス停の近くにコンビニがあるのは風見坂だけなのだ。


 ピンポンッ! とボタンを鳴らすと、繭は黙っていた稲嶺くんに「ポテチパーティするから、次で降りる」と報告する。


「……は?」


 稲嶺くんが、思わず間抜けな声を出した。繭はそれがおかしくて、ぷっと笑いそうになる。


「風見坂のコンビニでポテチ買って帰るの。たまには、いいでしょ?」


 たまには、って言いながら、実際のところここ数年間はたまにどころか一度も食べてない。

 だって、ポテチなんて食べたらほっぺたがふくらんじゃうし、ニキビもできちゃうし、侑くんに「可愛い」って言われる可能性が減っちゃうし。


 けれど、もう関係ない。

 侑くんが繭をそういう目で見てくれる日が来ないと、今日知ってしまったから。


 稲嶺くんは、まだ口を半開きにしたまま、よくわからない顔をしている。何か言おうとしてやめるみたいに、うつむいたり、また顔を上げたり。


 別に深い意味はないのに、繭はその様子をじっと見つめてしまった。


「んと……じゃあ、ね?」


 言い残して立ち上がり、バスを降りようとしたそのとき──


「俺も降りる」


 背中越しに聞こえてきたその言葉に、繭は思わず振り返る。


「え? なんで?」

「…………腹、減ったから」


 そっけなく答えながらも、稲嶺くんはしっかり繭の後をついてきている。


 バスを降りて、風見坂の冷たい空気が肌に触れると、少し気が引き締まる。


 だけど、稲嶺くんと並んで歩くのはやっぱり気まずい。


「ねえ、本当はどうしてバスを降りたの?」

「……だから、腹減ったんだって」

「ふうん?」


 そう言いながらも、繭はどこか納得できない。


 コンビニなんてどこにでもあるのに、なんでわざわざここで降りる必要があるのか。


 だけど、まあいいか。

 繭だって、普段降りないのにここで降りたし。それに、お兄ちゃんも侑くんも高校生のときにはご飯二合とか食べてたし。この年頃の男の子は、よく食べる。


 風見坂のコンビニに到着すると、繭は迷わずお菓子コーナーに向かい、棚いっぱいに並んだポテチの中から一番大きい袋を手に取った。


「バター醤油味、みっけ」


 相棒にはコーラ……じゃなくて、ソーダの気分かな? 冬季限定のチョコも買っちゃおうっと。


「……ポテチ好きなの?」

「好きっていうか、久々でテンション上がってる感じかな。食べたら元気になる、みたいな。ね、稲嶺くんはそういうのない? ほら、あったかいの食べると元気出るじゃない?──あ、肉まんも美味しそう!」


 繭が言うと、稲嶺くんは何も言わずにレジに向かっていった。

 そして、戻ってきた彼の手には、ほかほかな肉まんが二つ。


「ほら」

「え?」

「食うと元気になる」


 手渡された肉まんを繭はじっと見つめた。


 湯気と一緒にふわりと立ち上る匂いが、胸の奥までしみ込むようだった。

 断る理由なんて、どこにも見つからない。


「あ、ありがと……」


 肉まんをかじると、じんわりとした温かさが体中に広がる。


 けれど、それはほんの一瞬のことで、またすぐに侑くんのことを思い出してしまう。彼の笑顔が、頭の中に浮かんでは消える。


 でも、稲嶺くんのくれた肉まんの温かさは、なんとなく、繭を支えてくれている気がする。


 いつの間にか、ふうっと小さく息をついていた。稲嶺くんも黙って肉まんを食べている。


 夜の冷たい風の中、ふたりでただ無言で肉まんをかじっているのが、なんだかおかしい。


「ねえ」


 繭が口を開くと、稲嶺くんがちらっとこちらを見る。


「稲嶺くんって、嫌いな人にも優しいの?」


 繭がそう言うと、稲嶺くんはむせそうになりながら肉まんを飲み込んだ。


「……嫌いって、俺が? 誰を?」


 その問いに対する稲嶺くんの声は、いつもより少しだけ上擦って聞こえた。

 繭がじっと彼の顔を見つめると、稲嶺くんは目をそらし、耳元がかすかに赤く染まっているのが見える。


「稲嶺くんが、私を」

「べ、別に……俺、伊吹のこと嫌いじゃない!」


 稲嶺くんがほんの一瞬だけ固まったように見えた。

 眉がわずかに下がり、唇が動いたかと思えば、すぐに押し黙る。

 その間に、手元の肉まんの袋をぐっと握り直す仕草が目に入る。


「え、そうなの? いっつも反応薄いから嫌われてるのかと思った」


 冗談めかして笑う繭を、稲嶺くんは真っ赤な顔で睨み返してきた。


「……それだけは、絶対ない……むしろ──」


 やっぱり、声が小さい。

 けれど、その言葉の最後がかすかに震えていた気がして、繭は一瞬だけ「ん?」と思う。


 稲嶺くんは目線を繭に向けたまま、唇を少しだけ動かした──けど、結局何も言わないまま、視線を逸らした。


 その横顔を、繭はぼんやりと見つめてしまう。どこかいつもと違う気がしたけれど、その理由は分からない。


 代わりに、手渡された肉まんをひと口かじる。

 じんわりとした温かさが体中に広がっていく。


「そっかあ、嫌われてなかったんだあ」


 繭の言葉に、稲嶺くんは特に何も言わない。ただ、視線を前に向けたまま、黙々と肉まんを食べ続けている。


 それでも、ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。



 そして、肉まんを食べ終わり、「送る」と言われ、家の前まで送ってもらうことになった。


「送ってくれてありがとう」

「……伊吹、あのさ」


 その言葉を聞いて、繭は足を止めた。

 稲嶺くんも、少し歩みを緩める。


「うん?」


 冬の夜の匂いがした。


 澄んだ空気が冷たい頬に触れて、鼻の奥に微かに灯油の匂いが混ざる。


 どこかの家から、夕餉のカレーの香りが流れてきた。それに混じって、猫の低い鳴き声がどこか遠くから聞こえてくる。


 稲嶺くんは、手をポケットに突っ込んだまま地面をじっと見つめている。靴のつま先で小さく石ころを蹴った。その拍子に、ほんの少しだけ息を吸い込んで、ためらうように口を開く。


「……伊吹のことが、好きな奴はいるから」


 まっすぐな声。


 だけど、最後のほうはほんの少しだけ小さくなる。

 繭は一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 それどころか、なぜ今そんなことを言うのか、全然理解が追いつかない。


「……」

「……」


 稲嶺くんが視線を地面から上げた。


 その目が、わずかにこちらを見ていることに気づいて、繭は慌てて顔を伏せた。頬に寒さとは違う熱が滲んでいるのが自分でも分かる。


 どこかでまた猫が鳴いた。

 さっきよりも少し近い。


「……」

「……」


 無言のまま、二人はその場に立ち尽くしている。


「あ、あの、じゃあ、月曜日に、ね」


 やっとのことで繭が口にした言葉は、思っていたよりもずっと軽かった。

 それが何だか恥ずかしくて、また顔を伏せる。


「……うん、じゃあ」


 稲嶺くんが小さく頷いた。


 その姿が街灯に薄く照らされているのを見ながら、繭は小さく手を振った。そして家の中へ走るように飛び込む。


 部屋に戻り、ポーチを放り投げたあと、繭はふと鏡を覗き込む。


 顔が赤い。


 外が寒かったからだろうか。

 冷たい風に当たりすぎたせいで、ほっぺたが真っ赤になっている。それだけのはず。


 でも、何か違う気がする。


 だって、今日、繭は十年分の思いを終わらせたのだ。

 侑くんが結婚するって知って、それ以上何もできないって……。


 それなのに。


 ──今はなんだか平気だ。


 胸がほんの少し軽い。

 侑くんのことを考えようとすると、思い浮かぶのは彼の笑顔で、切なさが迫り上がる。


 だけど、今は、それよりも。


「月曜日のことばっかり考えてる……なんで?」


 鏡越しに自分に問いかけてみる。

 もちろん、答えなんて返ってこない。

 ただ、帰り際の稲嶺くんの言葉を思い出してしまう。


 ……あれって、何だったんだろう。


 考えるたびに胸の奥がもぞもぞして、なんだかソワソワする。繭は鏡の前で思わずぷくっと頬を膨らませた。


「ん〜?」


 繭は、ポテチの袋を手に取る。

 バター醤油味。絶対美味しいやつ。

 夕飯前だし、さっき買い食いもしたけど、全然別腹。

 お母さんは「そんなもの食べて!」って怒るだろうけど、内緒にするから無問題。

 だって、今日は繭の大好きな豆腐ハンバーグだし、何個食べたってカロリーはゼロだもん!


「……ゼロではないか」


 鏡を覗いたまま、ふっと笑みを浮かべた。


「……でも腹筋と小顔体操は続けるし、いいよね?」

 小さな声で呟く。


 どうしてかは分からない。だけど、やめる理由もない。

 なんとなく、続けていたい気がする。


 繭はソファにどさっと腰を下ろし、ポテチの袋をバリッと開けて、ポテチをつまむ。


 月曜日、稲嶺くんは、きっとまたしょっぱい反応をしてくるに違いない。

 でも、もしかして少しだけ優しい顔を見せてくれるかもしれない。


 そんなことを考える自分に気づいて、繭は首を振った。


 ……別に、特別な意味じゃない。


 ただ、塩対応されたときにする膝カックンをどうやったら一番効果的に決められるか考えていただけ。そう、それだけ。


 けど、心の奥でぽつりと思う。


 稲嶺くんはいつだって、自分の気持ちを言葉でくれたりはしない。

 だけど、そっと手渡された肉まんの温かさみたいなものが、胸の中に残っている気がする──その感覚が、なんとなく心地よかった。


「んま」


 口の中でバター醤油の味がじゅわっと広がる。

 甘じょっぱい味がして、胸の奥がちくりと痛んだ。

 それでも、さっきまでの重たい痛みとは違う。

 ちょっとだけ温かくて、少しだけ泣きそうになる──けれど、繭はそれ以上泣かなかった。


 その温かさは、きっと手渡された肉まんと同じようなものだ。


 ふわりと残る、曖昧な感覚。




 そして、繭は、ポテチを食べて、チョコを食べて、豆腐ハンバーグを食べて、甘いココアを飲んで、腹筋を百回して、小顔体操をして、いつもとはちょっと違うかもしれない月曜日を迎えるのだ。




【完】

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― 新着の感想 ―
うわーゼンさんの新作見逃してましたー! 嬉しいです! 本文読んでから題名とあらすじ読むと、すごいエモいですね(語彙力なさすぎ) 2人の月曜日がキラキラに輝いていますね^^ 稲嶺くん好きな子が髪切った感…
勝手に続きをオートクチュールで書いて頂いたと勘違いして大感激です! ショートショートは大・大・大好きな帝国陸軍の様にサラッとした話の流れの中に温かを感じられ最高! 軽くて心地よい物語、ご馳走様です(^…
ゼンさんの現代バージョン全開ですね、読み終わった後の心が温ったまる感じ最高です。 続編が読みたいですが、これで終わるのが良い気もするし、でもやっぱり続きが有るなら読んでみたい(^^) また色々な物語を…
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