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「関心領域」強制収容所跡でわたしは何を見なかったのか

映画「関心領域」を見て思い出したこと。(ネタバレなし)

 かつて、ナチスの強制収容所跡を訪ねたことがある。

 オーストリアのエベンゼー強制収容所だ。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のように、ユダヤ人の民族浄化を目的として作られた絶滅収容所ではなく、もともとは政治犯が収容され、強制労働に従事させられた収容所である。

 しかし、多くの絶滅収容所が連合軍により解放され、次第にユダヤ人の送り先が無くなっていた戦争終盤には、少なくないユダヤ人たちがエベンゼーにも移送されてきたという。

 エベンゼーには小さな歴史博物館と、小さな慰霊のための公園、そして収容所の囚人たちが過酷な環境で掘らされた巨大な横穴が残っていた。

 絶滅収容所ではないとはいえ、囚人たちを生存させようという意図の一切ないその待遇によって、結局はかなりの数の人々が命を落とした。その来歴から、被害者はユダヤ人のみに留まらず、政治運動家、レジスタンス、同性愛者、外国人など多岐にわたったという。


 明るい日差しの夏の日に訪れたエベンゼーでわたしが見たものは、圧倒的な「不在」であった。

 囚人たちが穿ったという横穴は広く深く、空虚で冷たかった。イスラエル国旗や慰霊のための花や供物が捧げられた一画もあったが、とにかく何もない、ただただ暗く大きな穴の中で、わたしは今日何かを見に来たのではなく、何一つ見ることができないとを知るために来たのだと悟った。その床を埋め尽くしたであろう汗や血や膿や涙や涎は、死にかけて倒れる人々は、苦しみのうめき声は、どこにもなかった。

 戦争遺構というものは、多かれ少なかれ、このような性質をもつ。あるものを見るのではなく、あったはずのものを見ないことによってしか、わたしたちはその場所を知ることができない。


 「関心領域」のラストシーンに隠されたしかけは、わたしがエベンゼーで「見なったもの」のことを強烈に思い出させた。そこにあったはずの略奪、そこにあったはずの臭い、そこにあったはずの声、そこにあったはずの温度、そこにいたはずの人間の、その人生。


 エベンゼー強制収容所の跡地は、上述した博物館や慰霊施設のほかは、現在住宅地となっている。その住宅地は、オーストリアの田舎には珍しい、碁盤の目のように整った区画をもち、家々の大きさも揃っていて、まるで日本の建売住宅でできた街のようだ。

 それは、その住宅地が、エベンゼーの囚人たちが寝起きした収容施設の区画をそのまま再利用されて造られた場所だからだ。

 土地の記憶は、ぞっとするような形で現在までそこに刻まれていることがある。今現在その場所に住む人々がいる以上、強制収容所跡地が住宅地に作り変えられ、滑り台のある公園や美しい花壇のある家が立ち並んでいることに、何かの価値判断をわたしがさしはさむことはできないと思う。

 ヘス一家の幸福は、明確に塀を隔てた向こう側の人々の死の上に成り立つものだったが、現在生きるわれわれの生活に、幸福に、そういった側面がまったくないと言い切る勇気はわたしにはない。


 エベンゼーの横穴には、ひときわ目立つ形で鮮やかな青のイスラエル国旗が掲げられていた。ここで死んだユダヤ人たちは、この旗が1948年に建国されるユダヤ人国家の国旗であることを知らない。

 更には、この旗を掲げて虐殺が、民族浄化が行われる未来があることなど、誰ひとり知る由もない。


 一ヶ月の短期留学でオーストリアにいたとき、中国人や韓国人の友人ができた。

 8月15日、カトリックでは聖母の被昇天の祝日である留学最終日のパーティーの日にも、わたしは彼ら彼女らに何も言わなかった。曽祖父が陸軍軍人として大連や満州にいたことも言わなかった。彼が戦争で結核になり死んだことも言わなかった。


 何も見ず、何も聞かず、何も言わないことの罪悪の中に、わたしたちの生活はある。


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