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76. 黄金の鋤

「浪費した時間などというものはありませんよ」


 やがて、ミカはゆっくり口を開いた。


「時間は命です。主が我らに賜ったものですが、私たちが勝手に、思い通りに使えるものではありません。多くのものを得ようとして急いでも、結局手に入れられるものは限られている。私たちの魂は、一度に多くのものを手に入れることはできません。毎日を生きる中で少しずつしか学べませんが、しかし一日が過ぎるごとに、必ず学んでいるのです。たとえ、無為に時が過ぎたと思えても。たとえ暗闇の中にいて、一歩も進んでいないと思えても」


「…………」


「特に殿下、あなたは聡明な方だ。聡明で、良心のある方です。たった今お目にかかったばかりの私でさえわかります、あなたは民の苦しみを座して見ておられる方ではありません。あなたの国が混乱に蹂躙されるのを、他人事のように放ってはおかれないでしょう。よほどのことがない限り」


 理由があったはずなのだ。彼が今の今まで、王位に動きを示さなかった理由が。


 シアラン王子は、今やはっきりと表情を強張らせていた。脚の上に置かれた長い指が、神経質に動く。その顔が微かに青ざめたように見えて、ミカは言葉を継ぎかけたが、しかし相手が口を開く方が早かった。突然、小さな笑いを漏らして、王子は色のない微笑みを浮かべる。


「あなたは、だいぶ私を買いかぶってくださっているようだ。残念ながら、それほど人間ができてはいない。私は本当に、ただ見ていただけだ。やがてこの国がどこへ沈んでいくのか知っていながら、ただ成り行きを見ていた。いや、見てもいなかった、何一つ」


「……王都で、何があったのですか?」


「特に何も。私は昼寝していたよ」


「昼寝?」


「そう。あれもなかなか悪くはなかった――頭から毛布をかぶって、窓にも扉にも鍵をかけて、誰にも会わずに、外のことを何も知らずにいられるのは」


 王子は再び笑い声を立てた。面白みなど少しもない、感情もこもらない音。


「あなたの言う通りだ、パトレス・ミカ。私は父である先王エリアッド四世の長子で、王位継承の順位で言えば最上位にある。玉座を継ぐべき人間の一人だ。だがそれは、私が王位にあるべきであるかどうかとは、また別の話なんだ。父はついに、私を王太子にはしなかったのだから」


 その理由は明白だ。ミカは先刻、修道院の広場に乗り付けた馬車から王子が姿を現したときの、群衆の反応を思い出した。人は異物を嫌うものだ、特に見た目が違うものを。無分別な嫌悪が迷信と結びつけば、その奥の本当の姿など誰にも見えなくなってしまう。


 ――ベルリアの王子は呪われている――。


 民衆はがたいものだが、しかし彼らが実際にシアランを間近に知ることはない以上、ある意味で仕方がないこととも言える。しかし、実際に彼を目の当たりにしておきながら、同じ程度の認識しか持てないでいるのは、あまりにも愚かしく、怠慢であるのではないか。まして、それが父親であり、国を保つべき王だとしたら。


「ああ、いや。父が私を疎んじて、無下に扱ったということではないんだ。少なくとも、私はそうは思っていない」


 実際に口には出さなかったが、ミカの表情から考えていることを悟ったのだろう、シアラン王子はすぐにそう続けた。


「父親としては、彼は私を大事にしてくれた。もし私が彼の末息子だったなら、きっと何の気遣いもなく、もっと明け透けな形で私を愛しただろう。でも、彼は王だった。そして確信が持てなかった。不具の息子に玉座を与えることが、本当に理にかなったことなのかどうか」


 そして父の疑念は、同時に息子の疑念でもあった――誰にも望まれない体を持って生まれてきた自分に、その資格があるのかどうか。


「結局のところ、最初からずっとそれが、それだけが問題だったんだ。ずっと――私がこの世に生まれたときから」


 二十五年前、若い王が美しい王妃を迎えたとき、ベルリア王家は栄光と希望に溢れていた。王は品行正しく温厚で、父祖から受け継いだ王国を大発展させるまではなくとも、そこそこ大過なく治めていた。王妃となった娘も、その地位に相応しい貴族の出で、それなりの妬みややっかみはあったとしても、多くの人間がまずまず妥当とみなす選択だった。身分高き者の結婚が大抵そうであるように、この二人も恋心から一緒になったわけではなかったが、幸運にも気が合って幸せな夫婦となった。二人の間に、ついに王国の後継者となるべき子供ができたとき、彼らとこの国の未来を疑う者は誰もいなかったのだ。


「母は、妹を生んですぐ亡くなったが、最後まで息子を望んでいた。今度こそ、五体満足で健康な息子をと。それができなかったことを、最期まで悔やんでいた」


 ――母である王妃は、己がはらから生まれたものの、そのあまりの醜さに耐え切れず、衝撃で命を落としたと。


 ――ついに父王は、忌まわしい息子を人目に付かぬよう、王宮の奥へ幽閉したと……。


 ミカは、この地を訪れたときに聞かされた、ベルリアの王子の噂話を思い出した。民衆の流言は無責任、何の根拠も正確性もない。しかしそこには、真実の一片が含まれていたのかもしれない。


「父が死んで……いよいよまずいことになったと思ったんだ。生まれてこの方、人の幸福に水を差して、かかわる人間全ての不幸の源になり続けてきたこの私が、ベルリアの王となったらどうなるか。今度は家族だけでなく、ベルリアそのものの不幸になるだろう。これまでそうでなかったとは言わないが、これからは更にだ。そんなことなら……そんなことになるくらいなら、ベルリアは別の誰かが治めたっていいだろうと思った。やりたい人間はいくらでもいるみたいだし」


「それで何人死ぬことになるか、考えましたか?」


「面目ない」


 王子は言い訳をしなかった。そうして責められることを、とうに知っている声だった。


「ただ、私が王位に就いた方が、もっと大勢が死ぬかもしれない。どのみち、揉めに揉めることは確かなんだ。国を奪われれば、私は死ぬことになるだろう。そうなれば、せめて代償を払うことができる……」


「あなたが死のうが生きようが、巻き込まれて死ぬ民衆には、どうだっていいことですよ」


「本当にそうなんだ。どうかしていた」


「ええ、全くどうかしている――十分、とんでもないことが起きていたじゃないですか!」


 半ば憤然とミカが言うと、シアラン王子ははじめて見せる表情をした。目を瞬いて、きょとんと彼を見返す。ミカが言っていることが、とっさに掴めなかったらしい。ミカは呆れて頭を振った。


「あなたが先程仰ったんですよ、私が王都のことを訊いたときに、『特に何も』と。私はベルリアの慣習には詳しくないのですが、一般的に言って、君主の病気というのは、ほとんどの場合国で一番の大事です。それが『特に何も』って!」


「私は病気ではなかった。どこも悪いところはないんだ。ただ不見識だっただけで」


「王宮の医者がそう言ったんですか? だったら、それは首にした方がいい、ヤブだから。正直、昼寝していたというのは正解ですよ。病気のときは、何より寝ているのが大事なんですから」


 実際、『昼寝』ですんだのは幸運だったのではないか。肉体と同じように、人間の心も傷ついたり病んだりする。傷が膿んで腐っていくように、心は疑念と絶望を吐き出しながら腐っていくのだ。やがて魂まで侵されてしまえば、もう生きてはいられなくなる。


 ミカはちらりと、目の前の青年の手を見やった。骨ばって、ひどく痩せている――その肉体の障害とは、おそらく関係がない。


 ――……考えてみりゃ、難儀なもんだよな、王様ってのも。


 実の親が死んでも、悲しむ暇もない。その瞬間から、彼には無数の責任と敵意と揉め事が降りかかるのだ。何年も前から手ぐすね引いて待っていたという場合ならばいざ知らず、そうでなければかなり過酷なことだろう。


 耐えるためには、支柱が必要だ。新たな重みを支えるだけの、自分を貫く柱が要る。でも、それが得られなければ……。


「……もし本当に、王位を誰かに譲りたいと思っておられたのなら、まずは妹君のアルティラ殿下にお話しになるべきだったのではないですか? ベルリアは女王が立てる国です。王位はあなただけの問題ではなかったでしょう」


「私が投げ捨てるものを、あの子に拾わせればいいなんて、そんなことができるものか」


 はじめて、シアラン王子の声に尖った気配が宿った。


「もしアルが本当にそれを望んでいたなら、王位なんていくらでも譲って構わない。あの子は賢いし、強い。もし王位が彼女の義務となれば、勇敢に玉座へ上って、申し分なく務めるだろう。あるいは、それが王国の幸福かもしれないが……でもそれは、彼女の幸福ではないんだ。アルは強くて賢いが、それ以上に優しい子だ。大勢の人間の運命を振り回すことに向いていない。およそ、野心というものがない。愛する者の側にいて、近しい人間たちの世話を焼くのが一番幸せでいられるという類の人間に、どうしてこんな厄介事を押し付けることができる?」


 これはミカにとっては、少し意外な意見であった。これまで彼が見るところ、アルティラ王女にはあまり大人しやかなところは感じなかったからだ。積極的で物怖じせず、欲しいものがあるのなら、手をこまねいてなどいずに、自分から掴みにいくような――しかし考えてみれば、彼女の『欲しいもの』は、常に他人のためのものではなかったか。アルティラは、『兄の』王位のために政略結婚しようとしたのだ。自分の王位ではなくて。


「あの子には、もう十分、嫌な思いをさせてきたんだ。私が満足な体で生まれてきてさえいれば、せずにすんだような思いを。これ以上、辛い目には合わせたくない」


「それで言うと、あなたのためと信じて、ユールを捨ててロードリー伯爵と結婚しようとするのは、たいして辛いことではないように聞こえますけどね」


「もし王都が落ちるなら、そのときアルはその場にいない方がいい。どこか遠くで、王都を取る者とは別の勢力の手の内にあれば、身の安全だけは図れるだろう」


「ああ、そういう考えだったんですか。王女殿下が、結婚は強制されたものではなくて自分の意志だと言い張っておられましたが、たとえそうだとしても、兄君であるあなたがそれを黙って見ていたのはどうしてだろうと思っていたんです。なるほど、これはわかりません。だいぶ調子外れですからね」


 王族に対しての言としては、もはや完全に不敬の線は越えてしまっているはずだが、シアラン王子は気分を害した風でもなかった。どころか、その唇を微かに上げる。青緑の瞳の奥に、面白がるような光が煌めいた。


「私も、なるほどと思ってきたところだ、パトレス・ミカ。アルがあなたを気に入っている理由がわかる気がするよ。あの子も一人前に、見栄えのいい若い聖職者なんかに憧れるものかと思っていたけど、どうもそういうことじゃなさそうだ」


「その件については、王女殿下からは非難を受けた覚えしかありませんが。年齢も見た目も、私のせいではないですよ」


「気分を害したのなら申し訳ない、褒めたつもりだったんだ。妹が何か失礼なことを言ったなら、その件も私から謝らせてもらいたい。アルは、普段、あまり聖職者に近付きたがらないんだ、五歳の頃に礼拝堂付きの司祭に悪魔の話で脅されてからというもの。だから、あなたに懐いているのが不思議だったんだけど」


「懐いて……?」


 どのあたりがそう見えるのか。むしろ、顔を合わせるたびに何らかの文句を言われているような気がするのに。まあ、気位きぐらいの高い高貴な山猫が、自分の縄張りを侵す者に対して、襲いかからず威嚇いかくで済ませることを懐いているというならば、そうかもしれない。


 ミカの考えを読んだかのように、シアラン王子は微かに笑いを漏らす。しかしすぐに真顔になると、まるではじめて見るかのように、ミカをしげしげと眺めた。


「だけど、それにしても不思議だな。あなたでも、容姿のことを言われるのが好きではないなんて。あなたのような、非の打ち所がない美形なら、もう少し鼻にかけていてもおかしくはないだろうに」


「おかしいですよ。鏡でもない限り、自分では見えもしないものなのに」


 正直に言って、ミカも自分の容姿の利点は理解しているし、利用してさえいるのは確かだ。人間にはどうも見た目が好ましいものを信用する性向があって、たまたま彼はそれに合致する姿に生まれてきたのだ、うまく使わない手はない……だが、それだけだ。


「持って生まれたものは、ただの道具です。道具というものが大概そうであるように、それ自体は人の喜びにはなり得ません。農夫が自分のすきや鎌を、ただうっとりと眺めて喜びはしないでしょう」


 そして道具の使い道という意味では、ミカの容姿の使い道は、例えるならイカサマ仕掛けのカードとか、錠前を破る金具みたいなものであるという自覚がある。何かを誤魔化すとか、他人の気を逸らす用途にばかり使っているのだ。彼が詐欺師か盗賊であれば、その道具を誇ることはあるかもしれないが、一応これでも自分は聖職者だと思っている以上、自慢するような気にはならない。さして反省してはいないにしてもだ。


「その鋤や鎌で、土から生み出すものこそが、農夫の喜びです。黄金の鋤を自慢するあまり、土に汚すのを惜しんで、自分の農地を荒野に変えるような男が幸せだと思いますか。結局のところ、肝心なのは道具ではなく、自ら手に入れたものだけです」


 少しの間、奇妙な沈黙が続いた。シアラン王子は再び唇を引き結び、視線を膝に落とす。左の脚――義足に支えられた、自らのものでありながら自らのものではない体を。しばらくそれを見つめ続け、やがて王子は静かな声で言った。


「パトレス・ミカ。あなたに、告解をしてもいいだろうか」





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