75. 玉座の軛
一人、客用の椅子に残ったシアラン王子は、微かに苦笑を浮かべてミカを見つめている。
「あの子の性格でね、世話焼きなんだ。親しい人間には特に。あなたのことが、とても気に入っているみたいだ」
「……だといいんですが」
実際は、目をつけられているという方が正しい気がしている。ミカの素行の悪さが、大事なユールに移らないよう見張られているのかもしれない。ここベルリアにいる間は、聖都にいるときよりもずっと品行方正にやっていると自分で思っているだけに、ミカにとっては甚だ心外なことではある。どこがそんなに性悪そうに見えるというのだ。
「どこか悪かったのか? アルがそう言っていたけれど」
「ああ、たいしたことではありません。少し前……ちょっとしたごたごたがありまして。すっかり解決しましたし、今はもう何も問題ありません。殿下の方も、お身体の調子はよろしくなかったとか。大丈夫ですか?」
王子の疲れた様子は気になっていた。今まさに病気であるとか、気分が悪そうだというようではないのだが、あまり無理をするのはよろしくないのではなかろうか。
ミカの問いかけに、しかし王子は答えなかった。少し目を逸らして、全く別のことを言った。
「それで、あれはどういう仕掛けなんだ?」
「はい?」
「あの『奇蹟の薔薇』。どうやってあんな風に咲かせたんだ」
「どう、と仰られましても」
その話か。ミカは素早く表情を取り繕うと、至極真面目な顔で答える。
「世に起こる奇蹟は神意です。我らが主の御心は計り知れず、人の考えの及ぶところではありません。我らにできることはただ、それらは神のお恵みと知り、全てをあるがままに認めることだけです。本日、主は人々の前に、その意をお示しになられた。あなたの前に」
「派手な見世物のように」
眉根を寄せて、シアラン王子は疑わしげに呟いた。しかしミカが口を開く前に、急いで付け足す。
「いや、瀆聖の意図はない。私は主の存在を認め、信仰している。神のご意志を疑うことはない。『奇蹟』は確かに起こったし、その意味は、我ら人の子の知るに及ばないことだ。そんなことを知ろうとは思わないが、ただ……『どのように』起きたのかは、問うても罪にはならないだろう。あなた方の神聖言語も、そうして見出されたのだし」
落ち着いた言い方に、ミカは内心舌を巻いた。神意や、神の存在そのものに対する疑義は、教会や教皇庁にとって重大な背信と受け取られかねないのだが、そうした危険を未然にうまく回避してきた。
――王子に生まれてなけりゃ、案外『塔』向きの人材だったかもなぁ。
半分は褒めていない。つまり言を左右にして、議論を弄り回す才に長けているということだからだ。ここでミカが適当に上っ面の理屈を捏ねても、彼を丸め込むことはできないだろうし、どうかするとこちらの不都合な点まで突かれかねない。
であるならば、不実なことはしないに限る。ミカは中途半端に寄り掛かっていた院長の机から離れて、シアラン王子の正面に腰を下ろした。改めて、まっすぐに相手を見つめる。
「私の見た限り、あれは奇蹟に違いないようです。少なくとも、小手先の手品などではない。あれは間違いなく生きていて、しかしこの世の他の植物とは異なった成長をしたのです。これまで知られている限り、そうしたことを可能にできる神聖言語は見つかっていません。まして、作り物や幻術の類ではあり得ない。真実、我々の世界の理を超えたことなのです」
「…………」
「私の方こそ、殿下の御意見をお伺いしたい。私はあれを、正しく奇蹟として教皇庁に報告するつもりですが、何かを見落としていて、不正確な報告をするのは避けたい。殿下は間近におられたので、よくご覧になられたかと思います。何か、お気づきの点がありましたか? あるいは、どのような仕掛けがあれば、あのようなことを起こせるのかといったようなことをご存じでいらっしゃいますか」
いかにも自分の職務に忠実であるという体で、ミカはせいぜい無邪気に尋ねた。あれが奇蹟であるかどうかという点では、疚しいことなど一つもない。『聖女』の力は奇蹟そのものなのだから。ただそれを、手品に使っていないとは言えないだけで……。
逆に問い返される形になったシアラン王子は、少しの間考え込むようだった。その秀麗な顔を微かにしかめて、どうも納得がいかないという様子だったが、しばらく考えた後に頭を振った。
「……いや、何も思いつかない。あんなことは見たことも、聞いたこともない……確かにあれは、奇蹟なんだろう」
とはいえ、その声には依然、懐疑的な響きがあって、ミカは内心にやりとした。もう少し単純で衝動的な人間なら、己の直感のみを信じ、あんなことはでたらめだ、理屈はわからないが何かあるに違いないと騒ぎ立てて、ひょっとしたら真実にたどり着いたかもしれないが、この王子はそういう性質ではないのだ。
ともあれ、この機会を逃すべきではない。ミカはそっと話を逸らした。
「ええ、奇蹟です。それも美しい奇蹟です。警告や、不穏な気配は少しもない。だからこそ、皆があれほど歓呼したのです。神の恩寵と、それが下されたあなたに」
そしてそれは、何よりもシアラン王子を利することになるだろう。前王の嫡出の王子という、本来なら当然玉座を手に入れて然るべき立場にありながら、ここまで臣下に専横を許してしまった彼にとって、神の恩寵はまたとない強力な援護だ。
それにしても、と、ミカは改めて目の前の青年を観察した。彼が玉座の継嗣として人心を得なかった理由が、一つにはその身体的な障害であることは確かだろう。人間は異質な者を嫌うものだ、特に見た目にそうとわかる者はなおさらだ。人は外見上の不具合で、容易く内面まで測ってしまう。劣った者、普通の人間には程遠いと、簡単に軽蔑してしまう。
しかし実際に相対して言葉を交わしたシアラン王子は、決して軽蔑されるような人物ではないし、またミカが想像していたような人間でもなかった。聡明で、何よりも冷静で落ち着いている。現実的な判断力がありそうだし、自分の過ちを認める責任感と率直さがある――こういう事態になるまで、自身の王国を放っておいた人間に、そういうものを感じるとは、実のところミカは思っていなかった。
今も、王子は我が身に下された『奇蹟』に喜ぶでもなく、端然と座っている。ミカは思い切って言った。
「大体、今まで何をしておられたのです。あなたはこの国の玉座を継ぐべき、ただ一人の御方ではあられませんか。『奇蹟』などなくても、それは明白なことです。なすべきことをなさるべきです――取り返しがつかなくなる前に」
それこそ、ミカがサナンにこの『奇蹟』を頼んだ理由だ。正直、誰がベルリアの王になろうが、彼にはどうでもいいことだが、それがいつまでも定まらなければ、血が流れるのは時間の問題だ。最初の流血が生じたときに、既に混乱が深ければ深いほど、その後に要求される血の量は増えていく。
もし他に目覚ましく有力な人物がいたならば、その人物が王位を取っても構わない。王家の血などに力が宿っているわけではないのだから、混乱を抑えられるのであれば誰でもいい。しかしミカの見るところ、ベルリアにそういう人物は見当たらないようだった。先王が亡くなったのが昨年末、北国の過酷な冬だったとはいえ、これほどの時間があってまだ玉座を手に入れられていないなら、反乱軍としてはかなり手際が悪いと言わざるを得ない。
もし適当な反逆者がいないのなら、たとえいくらか無能であっても、正統な王子が王位に就く方が、まだしも混乱は少ない。王家の血に力はないが、王家の血が示す慣習には力があるのだ。個人の意志や能力を超えたところで、人々の命を救えるほどに強い力だ。
もし人々の苦難を、見て見ぬふりをしなければ、だが。
できるだけ、非難は含ませないように気を付けたつもりだが、いくらかは混じってしまったのかもしれない。シアラン王子ははっと表情を固くし、至極真面目に頷いた。
「そうだ、そうしなければならない。愚かに時間を浪費してしまったが、それは今更どうにもならない。これほど経って、まだ私に果たすべき義務が残されているなら……それがまだ取り返しがつかないこともないのなら、神の御慈悲だ」
「…………」
ミカは目を瞬いて、少しの間考えた。これでシアランがやる気になって、きちんとベルリアを治めるならばそれは結構なことだが、それをただ激励すればいいということではない気がした。この王子には、何かがある――その肉体の障害以上に彼の足を引きずらせ、彼の在り様そのものを捻じ曲げる何かが。




