74. 再会
聖堂からは、修道士たちの僧房へ通じる吹きさらしの通路とは別に、院長宿舎へ向かう独立した通路がある。代々の院長の特権的な地位を誇示する作りだが、こんなときはまことにありがたい。
今も興奮に沸き立っている人々の目を避けて、ミカは、王子と、素早く側を離れずついてきたアルティラ王女を、院長宿舎にある執務室に迎え入れた。壁と門に守られたこの建物の中では、外の喧噪もぐっと遠くなる。
「驚いたわ……何なのあれ」
執務室の扉が閉ざされた途端、アルティラがたまりかねたように言った。白皙の頬には、興奮に当てられて朱が走っている。
「あんなの、見たことがない! 焼けた木に花が咲くなんて、それもあんなにみるみるうちに繁って……あれがここの名物の『奇蹟』なの?」
「土産物でも売ったらよさそうですね。確かにあれが『奇蹟』ですよ。どう見ても、地上の理に沿ってはいないでしょう」
実際、土産物はあるだろう、と、ミカは答えながら思った。修道院の関係者のみならず、これだけの俗人が目撃したのだ。今日の日が沈むまでには、付近の町という町に話が知れ渡るだろうし、となれば明日には、ありとあらゆる有象無象が『奇蹟』の象徴として、この付近の店から路肩までどこでも売られるに違いない。薔薇の落ち葉なんて、とんでもない値で売れそうだ……しばらくは、周辺に警備を置かなければならないかもしれない。落ち葉ならともかく、緑の葉を残らずむしられてはたまらない。
ミカの軽薄な言い方に、アルティラは頓着しなかった。今度は兄の方を向いて、熱心に言う。
「あなたのために起きたことだわ、シアラン。あなたがあの枝に触れた瞬間、あの『奇蹟』が起きたのよ。神様はご存じなんだわ、きっとあなたは成功するって――何もかもうまくいくって」
「それはどうだろう」
しかし、兄はそれほど夢中という様子ではなかった。小さく首を傾げる。
「アル、君もさっき聞いていたんじゃないか。パトレス・ミカは、あの薔薇が未来を告げているのかどうかはわからないと仰ったよ。単純に、薔薇の木の機嫌がよかっただけかもしれない」
アルティラは信じられないという顔で兄を見やった後、視線を転じてミカを睨む。ミカは軽く肩を竦めた。
「とりあえず、立ち話も何ですから、どうぞそちらへお掛けください。何かお飲みになりますか? と言っても、ここには葡萄酒しかないんですが」
もちろん彼は飲むので、言いながら自分の杯へ酒を注ぐ。慣れた仕草を見咎めて、アルティラが片眉を吊り上げた。
「ちょっと、何でここにそんなものが置いてあるの。まさか、いつもそんな感じで昼間から飲んでいるの?」
「私がはじめたわけじゃありませんよ。ここの修道院長の昔からの伝統だそうで」
「あのろくでなしの修道院長の習慣なんか、守っては駄目でしょう。悪弊を正すのもあなたの務めではないの」
「次の正規の修道院長の務めですよ。私はただの繋ぎですから、いろいろと余計なことをして変えてしまうのは、後の方のご迷惑になるというものです」
「あなたが酒浸りを止めたからって、誰の迷惑にもならないわよ!」
「私はいただこうかな」
不意に、シアラン王子が穏やかに割って入る。愕然と振り返る妹に、にこりと微笑んだ。
「少し休憩したいと思っていたんだ。君ももらったら? 飲めない質でもないんだし、少しくらいは構わないだろう」
言って、王子は手近な客用の椅子に落ち着いた。立っているときは明らかな身体の歪みは、座った姿勢であればあまり目立たない。
アルティラはそれでも少しの間、納得がいかないという顔をしていたが、ついには諦めて、兄の隣に憤然と座り込んだ。あまり貴婦人らしくはない。
ミカは更に二つの杯を満たした。薄い硝子に黄金の飾り模様がついている。彼自身は使う気にもならない豪奢な細工だが、王族兄妹に差し出して礼を失することはないだろう。
杯を目の前の卓に置くと、兄は礼儀正しく礼を言って、妹はいかにも不承不承という様子で、それぞれ手を伸ばす。一口味わうと、シアラン王子はほっと息をついた。
「ああ、いい味だな。ありがとう、パトレス・ミカ。ようやく人心地がついた」
「こちらこそ、長旅でお疲れのところ、なかなかお寛ぎいただくこともできず、申し訳ございませんでした。何分、相手が『奇蹟』ですので……どうぞお許しを」
実際、王子は疲れているように見えた。馬車の長旅というのは、頑健な者でも疲れるものだ。身体の不自由は別にしても、王子はとりわけ体力的に恵まれているという風には見えないから、これほど短期間で王都からやってきたのでは、さぞくたびれたことだろう。
「私は馬車に座っているだけだったから何ともないが、ついてきてくれた者たちには、大変な苦労をかけてしまった。パトレス・ミカ、ここの修道院に、彼らが滞在できる場所はあるだろうか。長く厄介をかけるつもりはないが、彼らも少し休んでからでなければ帰れない」
「今は巡礼者用の棟が丸々空いていますから、お使いになっていただいて構いません。それに、現在王女殿下がご滞在の屋敷も修道院の所有で、今も少し余裕があるでしょうから、そちらもご自由にどうぞ。ですが、殿下御自らご心配なさらなくても、よく事情を知っている人間がうまくやりますよ」
その声に呼び出されたかのように、次の瞬間、扉を叩く音がする。ミカが応じると、現れたのは予想通りの人物だった。
「終わりました、パトレス・ミカ」
扉を開けて入ってきたユールは、そう報告した。客用の椅子に収まっているシアランに気付き、一瞬たじろいだようだったが、差し当たりは目下の用件を優先すると決めたらしい。ミカに向かって、律儀に続ける。
「町の人々はほとんど修道院を出ました。何人か、聖堂で祈りたいと残っていますが、もう騒ぎを起こすことはないはずです。一応、警備は残しています。その他の王子殿下の随行は、とりあえず巡礼者用の棟へ案内しました。お許しをいただいて、あそこを仮の兵舎にできれば、ほとんどの者に今日の寝床は確保できそうです」
「よろしい、許可する。……でもまあ、そう急いで戻ることもねえだろ。一杯やって休憩してけ」
「ああ、ありがとうございます」
「ユールまで!」
ミカの不真面目な誘いを、妙な顔をするでもなく当たり前のように受け入れているユールに、アルティラが非難の視線を送る。ユールも、最初のうちは当惑して固持していたのだが、日々ここに出入りしている間にすっかり慣れてしまったのだ。悪徳に仲間を得たミカはにやりとして、葡萄酒を杯に注ぐと、新妻の非難に焦る様子のユールに手渡した。顎で客の方を示す。まずは、積もる話があるだろう。
そのことはとうに覚悟していたらしく、ユールは改まった表情になると、まっすぐに王子の前に進み出た。杯を傍らに置いて、片膝をつく。ミカが見るたびに感心する、流れるような完璧な騎士の礼だ。
「殿下、改めまして、ご無事のご到着を心からお喜び申し上げます。再びお目通りが叶いましたこと、感謝の言葉もございません」
だが、シアラン王子の反応は素っ気なかった。鬱陶しいものを払うように軽く手を振る。
「ああ、そういうのはいい。おまえにそういうことをしてもらいたいとは思わない。そっちに座りなさい――アル、君も」
「えっ? 私も!?」
突然名指しされたアルティラの反応は、ミカにはなかなかの見物だった。誇り高く気が強い王女は、当然言い返しかけたのだが、兄に断固とした仕草で向かいの椅子を指し示されると、苦い顔をして口を閉ざす。不満げな、しかし同時に悄然とした様子で移動して、大人しくユールの隣に腰掛けた。意外というべきかどうか、そういう力関係であるらしい。
今や妹夫婦となった二人を正面に回して、沈黙が十分に気まずくなるほどの間の後で、シアラン王子はようやく言った。
「本当に……馬鹿げたことをした」
ユールは表情を変えなかったが、アルティラは即座に反応した。
「あなたのためにしたことだわ、シアラン! あなたには味方が必要なのだから」
「確かにロードリー伯の戦力は有用だとは言った。だが、それでどうしていきなり、あの男と結婚しようなんてことになるんだ? 他にもいろいろ方法はあるのに」
「だってそれが一番うまくいきそうだったからよ! どんな約束をしたってあの男は信用ならない。でも、私を手に入れようと思うなら、あの男だってそれなりの働きはするはずよ。私は王女で、しかも美人なんだから」
――おお、さすが、すげーこと言うなぁ。
とはいえ、その言葉を否定することは誰にもできない。人それぞれ好みはあれど、アルティラ王女は間違いなく、大勢の人間に――特に男に――とって、眩いばかりの美女である。いっそ天晴れな言い草だ。
「でも結局、うまくいかなかったじゃないか。君には、そういうことはできないよ。自分の心に嘘はつけない。まして、そこにユールがいては」
王子は次いで、王女の隣のユールに視線を移した。
「ユール、おまえもおまえだ。アルが無茶をしたのは確かだが、そこでおまえまで無茶なことをしてどうするんだ。人を一人くらい殺すくらいで解決する問題なんか滅多にない、大概は余計に厄介なことになるだけだ。おまえに『政治的解決』なんて期待したことは、人生で一度もないけれど、それにしたって、もうちょっと文明的な対処は思いつかなかったのか? 私に打ち明けるとか」
「本当に、申し訳なく思っています。ですが、あなたは……ずっとお加減が悪かったので」
「わかっている」
ユールの言葉は、もしその顔に心底からの気遣わしげな表情が浮かんでいなければ、拙い言い訳としか聞こえなかったに違いない。しかしシアラン王子はそうは言わなかった。静かに答えると、その響きの苦さを味わうように唇をかみしめてから、やがて再び口を開いた。
「本当に、馬鹿げたことをした。おまえたちがではなくて、この私がだ――私が馬鹿だった、間違っていたんだ。何もせずにいれば、やがてすべてが解決するだろうなんて思っていた。そうして、逃げたんだ。恥知らずにも」
「シアラン様、それは違います。あなたはご病気だった。仕方のないこと、避けようのないことです」
「避けられたとも、私がもう少し賢明であれば。もう少し勇敢であれば。もう少し公正であれば。でも、残念ながら、そのどれでもなかった」
「そんなことは……」
「おまえたちがどうしてこんなことをしたのか、よくわかっている。私のせいだ。私がそうするように仕向けたんだ、そんなつもりはなかったにしろ……本当に、申し訳なかった。どうか、許してほしい」
真摯な口調でそう言って、シアランは深く頭を下げた。一国の王子の態度としては、なかなかあり得ないことなのではないかとミカは驚いたが、頭を下げられた方はもっと驚愕したようだ。ユールはとっさに言葉が出てこない様子で固まっている。先に反応したのは、隣のアルティラだった。目を丸くして兄を見つめる。
「じゃあ……シアラン、本当に……その、もういいの? 本当に、もう大丈夫……?」
「うん。――心配をかけて、悪かった」
「謝らないで!」
相手の言葉をかき消すように声を上げ、アルティラは立ち上がる。再び兄の隣に座ると、手を伸ばしてぎゅっと彼に抱き着いた。
「謝ったりしないで。私は……私たちは、勝手に好きにしただけなんだから。あなたが謝ることなんか何もない。でも……すごく心配したわ。それはわかって」
「殿下」
ようやく言葉を取り戻したらしいユールが、続けて口を開いた。
「私の浅慮で、ご迷惑をおかけしましたことをお詫びします。ここまでご足労をおかけしたことも。ですが、お会いできて嬉しい。本当に……もう一度、こうしてお目にかかれるなんて」
「…………」
「ありがとうございます、諦めないでいてくださって。僕のことも、他の全ても」
少しの間、誰も何も言わなかった。しかしその沈黙には、この会話がはじまる前の、あの気まずい重さはない。ユールはまっすぐ王子を見つめ、そこに同じくまっすぐに自分を見つめる瞳を認めると、小さく微笑んで立ち上がった。
「すみません、今はもう行かないと。後ほど、またお会いできますか」
「ああ。ついでに、アルも送って行ってくれ。どこか、修道院が滞在先を貸してくれているんだろう。あとで私も行くから」
「え! どうして」
兄の側から追い払われようとしている気配を感じたのか、アルティラが抗議の声を上げかける。その妹の手を軽く握ると、王子は諭すように言う。
「アル、そうしてくれないか。君がユールと一緒にいてくれたら安心できるから。私は……そちらのパトレス・ミカと、少し話がしたいんだ」
途端、振り返ったアルティラが胡乱な目で睨んできたので、ミカは肩を竦めた。どうもこの王女は、彼に対して当たりが厳しい。一体彼が、彼女の兄に何をすると思っているのだろう。
とはいえ、アルティラは兄の願いを無下にする気はないようだ。やがて息をついて、再び兄を軽く抱きしめると、諦めたように立ち上がった。
「いいわ。じゃあ、また後で会いましょう。必ずよ」
「必ず、アル」
「あなたも、もういい加減にしておきなさいよ。この前、あんなに具合が悪かったのが良くなったばかりなんだから、また体に悪いことはしなくたっていいのよ」
通り過ぎざまに、ミカの手から酒杯を奪い取る。彼が抗議する暇もなく、アルティラはそのまま優美な歩みで扉に歩み寄ると、既にそこに立っていたユールとともに、向こうへ消えていった。
――言うけど、あれはあんたの旦那のせいだぞ……!
「すまない」
不意に詫びる言葉がして、ミカは扉から室内へ注意を戻した。




