72. 聖堂の異観
ミカが王子に方向を指し示し、歩きはじめると、群衆がどよめいた。大きく体を揺らして歩く王子に目をやり、何やら言い交しながら、それでもついてこようと動き出す。
ミカは素早くユールを引き寄せ、手短に指示をした。群衆が危害を加えられるほど、王子に近付けてはならない――けれど一定の距離を保った上で、ついてくる者はついてこさせるように。
ユールは何も訊き返さなかった。命じられたことを即座に、完璧な形で実行することが彼の使命なのだ。
不満や疑問を表す役は、彼の妻が引き受けたらしい。踵を返したユールに代わって、アルティラは形のいい唇をぐいと曲げ、もの言いたげにミカを睨む。口を開かずともわかる、『どういうつもりなの?』という顔だ。聖堂裏の惨状は、彼女自身もその目で見て、よく知っているのだから。
ただ、彼女が実際にそれを抗議として口に出さなかったのは、いくらかの信頼か、あるいは好奇心があったせいだろう。ミカが曖昧に笑ってみせると、アルティラは苛立たしげにため息をついた。音もなく彼の側を離れ、今度は兄の傍らへ移動する。何があっても、すぐに手を出せる距離。
とはいえ、ミカの目には、それが必要だとは思われなかった。石畳で舗装された聖堂前広場から、土がむき出しの小道へと入りながら、ミカは隣を歩く王子の様子を観察する。
進み方は、もちろん遅い。ミカは歩調を緩めなくてはならなかったが、しかし思ったほどではない。奇妙な歩き方は、傍目にはひどく危なっかしく、今にも転びそうに思えるのだが、本人にとってはそれなりに安定しているらしい。長くそうしてやってきたのだ。実際、速く走るとか障害物を飛び越えるなどという無鉄砲なことでなければ、移動に不自由はない様子である。
そうして観察されていることに、気づいているには違いないが、しかしシアラン王子は表情一つ変えなかった。少し離れてついてくる群衆の、数えきれないほどの好奇の視線を完璧に無視してのけたまま、ミカに向かって尋ねる。
「私は噂にしか聞いていないのだが、実際、ここで起きた『奇蹟』とはどのようなものなのだ」
「この修道院の聖堂で祈りを捧げた多くの者の病が癒えたこと、幾人かはもはや手の施しようがないものと思われていた例もあります。修道院が数度にわたり、この地を襲った天災から難を逃れたこと。それに、おそらくこれはお聞き及びでしょうが、不思議な花が咲くのです」
「『奇蹟の薔薇』。聞いている。運命を予言するとか」
運命、と口にしたとき、その冷静な声音に微かな揺らぎが生じたように思えた。ミカが注意深く黙っていると、本当なのか、と、王子は重ねて尋ねる。
「本当に、その薔薇は奇蹟なのか? 未来を知り、人に告げるというのは」
「あの薔薇が奇蹟かどうかということでしたら、それは奇蹟に違いありません。あのような花は、これまでこの大陸では知られていなかった。神の贈り物たる奇蹟の名に相応しいものです」
わざと声を張って答える。少し離れた群衆が頭を動かして、何やら囁き交わしはじめた様子からすると、ちゃんとそこまで声は届いたようだ。ミカは満足すると、今度は声を抑えて続ける。
「ですが、未来を予言するかどうかについては、はっきりとわかりません。どうしてはっきりさせようがありますか。私たちには未来が見えないのだから、花が何を示そうが、当たっているのか外れているのか、比較する術はありません」
王子は驚いたようにミカを見返した。青みの強い緑の瞳に、興味の光が煌めく。
「あなたは、予言など嘘だと?」
「まさかそんな。観測する方法がないと言っているだけです。花は本当に未来を知って、それを告げているのかもしれない。でも、そうではないのかもしれない。我々に未来がわかるなら、答え合わせもできますが、そうでない以上、推測にしかすぎません。ですが、だからと言って、神の恩寵が存在しないという話にはならない――未来は神意に属するものです。たとえ『奇蹟』で表わされても、結局は人の手に余るものです」
王子は少しの間、何か思いめぐらせるようであったが、やがて小さく呟いた。
「……父が亡くなったときも、ここの薔薇が咲いたと聞いた。もし、真実予言であったなら――避けることができたのだろうか」
その言葉は、しかし質問というよりは、自身のうちに向けられたもののように聞こえたので、ミカは沈黙を守った。それにもう、目的地は目の前に迫っている。
木立の間の小道を通り、聖堂の東壁が見えると、人々の間から動揺の声が上がった。かつては豪奢な白さを誇った石壁は灰色に煤け、焦げ跡が病的な斑点のように散らばっている。
焼け落ちて葉を失った薔薇の枝は、ほとんど炭と化したように見える。放置され、炎上したときの姿のまま黒々と壁を這っている様は、死に侵された静脈を思わせた。
禍々しい景色に誰もが息を呑む。修道士たちは目を伏せ、小声で祈りを唱える者もある。
シアラン王子もまた、目を丸くしてその有様を見つめたが、彼は長く呆然とはしていなかった。素早く状況を見て取ると、首を傾げてミカを見やる。質問の意図を察して、ミカは恭しく頭を下げた。
「実は、ご覧のような有様なのです。先日……不幸な事故が起こりまして。聖堂の内部に燃え移らなかったのは幸いでしたが、それを妨げた薔薇の方は黒焦げになってしまった」
「枯れてしまったのか」
「完全に死んでしまったわけではないようです。地上は焼け焦げたとしても、地下の根は無傷で残ったわけですから。とはいえ、このまま何もしなければ、いずれは弱って死んでしまうでしょう」
「何か手立ては?」
「何と言っても植物のことですから、人間や動物とは勝手が違います。もちろん私の立場としても、『奇蹟の薔薇』を失いたくはないのですが、こればかりは自然の為すようにしかならないでしょうね。それこそ、奇蹟でも起きない限り」
言いながら、ミカはちらりと壁の方を見やった。薔薇の株下から少し離れたところに、小さな人影がしゃがんでいる。
着古した生成りの服を着て、鋏や籠や小さな鎌などを携えた姿は、誰が見ても農夫の子としか思わないだろう。何かの仕事をしていたら、急に大勢の人々が現れたので、慌てて顔を伏せて跪いている――誰もがそう思って、次の瞬間にはその姿を意識から消してしまうのだ。ミカは密かに笑みを閃かせた。あの子は本当に、こういうことが上手だ。
シアラン王子は、無残な姿の薔薇を見つめている。考え深げな横顔には、同時に不思議な表情があった。焼け焦げた『奇蹟』を、不吉と嫌悪するのではなく――むしろ安堵するような。
不自由な足を更に進めて、王子は薔薇の株下に立った。王子は知らぬことながら、そこはまさに炎上の中心、あの傷ましい炎が最も激しく燃えた場所である。枝は生木であったにもかからわず炭と化して、樹皮が剥がれ落ちている。
今ははっきりと傷ましそうな顔になって、王子は仔細に状況を眺めていたが、ふと、ある点に目を留めたようだった。手を伸ばし、少し高い位置にある枝の切り口に触れる。かつての堂々たる太枝が、随分と雑なやり方で切られた跡が、炭になって残っている。
「これは……どうして」
シアラン王子の言いたいことは、ミカにはすぐにわかった。枝の切り口は炭化している――火災で焼けた木を切ったのではなく、燃える前に切り落としたということだ。
――やめてくれ、そういう都合の悪いことに気付くのは……。
ミカは急いで適当な言い訳を考えようとしたが、しかしその必要はなくなった。群衆の間から、どよめきが上がったのだ。




