70. 王子の来駕
シャフェールの町、ベルリア王国中西部に位置する街道沿いの小さな町は、この国のどこにでもあるような田舎町だ。他の町と同じように、有史以来何度も戦乱に巻き込まれ、そのたびに人が散らばりまた集まりを繰り返して、特に輝かしい歴史もなく今日まで来た。
そんな町にとって、最近の出来事は未曽有の事態ばかりだ。数年前、近くのリドワース修道院で奇蹟が起きはじめ、町を訪れる旅人が増えた。つい数週間前には、ベルリアの王女までもが、土地の領主に嫁ぐためにやってきた。どういうわけか、その結婚は取りやめになったらしいが、まだまだその噂が持ち切りな間に、それさえかき消すほどの椿事が起こるという。
――うわー……。
修道院の門前から聞こえてくる騒乱の気配に、ミカは内心げんなりした。彼が立っているのは聖堂の前で、ここからは、修道院を囲む壁の外側の様子は見えないが、見たいとはちっとも思わない。無数のざわめきに時折混じる怒号、甲高い叫び声から、何が起こっているかは容易に知れる。人々が立錐の余地もないほどに詰めかけて、押し合いへし合いしているのだ。より良い場所を求めて――この門を入ってくるはずの『彼』を、その目ではっきり見られる場所を陣取るために。
「あら、意外ね」
ふと、傍らで軽やかな声がする。彼の表情を見咎めたのか、側に立つアルティラ王女は、面白がるような表情でミカを見上げた。
「あれに驚くの? あなたは教皇庁から来たんでしょう。聖都の人混みは、あんなものではないんじゃない」
「確かにあそこでは、そこら中に人間がいますが、あんな勢いで一所に詰めかけるなんてことはそうそうないですよ」
「でも、聖都には教皇様がいらっしゃるじゃない。毎年、年の初めと大祭日には、必ず人々の前で教えを説かれると聞いているわ」
「ええ、そうですね。あれはすごく混み合う。だから、近づかないことにしています」
「あなたねえ……」
アルティラは呆れ顔で彼を見たが、そんな顔をされるのはミカにしても不本意なことである。教皇庁広場で行われる教皇の説諭は、市井の民衆のためのもので、聖職者向きではないのだ。普段は神の法をそれほど身近には感じていない層にも、広く耳を傾けてもらうための広報行事であり、彼がわざわざあの混雑に耐えてあの場にいる意味はない。聖職者の身分にありながら、市井の民が教皇聖下の御言葉に触れる貴重な機会の妨げになるなんて、あってはならないことではないか。
「ああ、そういうところは『久遠の塔』出の司祭様なのね。すぐに屁理屈を考え出すったら」
ベルリアの民は一般的に敬虔で、教会の権威に従順だという話だが、アルティラ王女個人に限ってはそうとも言えない。はじめて彼と顔を合わせていくらも経っていないのに、もう擦れたスハイラスの民のようなことを言い出した。ミカは素早く話を変えた。
「それでも、こんな騒ぎではないですよ。皆、よほどお目にかかりたいのでしょう、シアラン王子に」
王子の一行から先触れがあったのは、昨日の夕刻だ。それがたったの一晩で近隣中に知れ渡り、こうして人が詰めかけている。修道院と俗世を隔てる壁など、ほとんど蜃気楼と言っていいのではないかと思う噂の広まり方だが、それ以上に、その知らせは意外だった。
ロードリー伯爵が王子の到来を予告してから、まだ一週間経っていない。身軽な旅人ならいざ知らず、大勢の供や兵士を引き連れた王侯の移動としては、かなり早い到着だ。アルティラ王女も、侍女の急病があったとはいえ自らの馬車を先行させてここへ乗り入れたくらいだし、どうも兄妹揃ってせっかちな性質のようである。
その兄への言及に、アルティラは一瞬、表情を強張らせた。形のいい唇をきゅっと引き結んで、少しの間沈黙する。言葉を選んでいたのか、あるいはとっさに何か言いかけたのを呑み込んだのか。
「……彼らは面白がっているだけよ。私のときもそうだった。私たちがどういう人間かなんて、どうでもいいの。見世物が見たいだけなのよ」
「あなた方は王族ですからね。民衆にとっては非日常、異世界の生き物です。あなた方の方が、彼らの日常に現れたわけですから、責めることはできませんよ」
「わかっているわ、仕方のないことだって。でも、それで気分よくいられるかとは別の話よ」
アルティラはその美しい顔をわずかにしかめて、門の向こうを睨んだ。今、そこでは、彼女に従ってこの地にやってきた王家の兵士たちが、集まってきた民衆を追い散らそうと必死なはずだ。ミカが思うに、あまり賢明なやり方とは言えない。そんなことをすれば、ますます人々の好奇心を煽るだけだ。
本気で彼らを追い払いたいなら、正規の軍隊を相手にするのと同様の覚悟で戦闘をはじめるか、でなければ、彼らが見たがるものを見せてやるかだ。群衆の移り気な関心など、長く続くものではない。一度目的を果たせば、あるいは目的を果たせるだろうと思うだけで、あっさり興味をなくすものだ。
しかしこの点、アルティラ王女は頑なだった。人々を修道院内から締め出すのみならず、馬車が通過する通りにさえ入れないようにと、兵士に命じたのだ。これはさすがに兵士の数からして無理な話だったので、王女もやむなく諦めざるを得なかったが、その分、人々が集うこと間違いない修道院の門前は、厳重に警備するように命じた。
だが、群衆というものは羊の群れとは違うのだ。羊飼いの杖に諾々と従うわけもない。まして、彼らを追う犬たちが、決して牙を向かないと知っていれば尚更のこと。
門前の騒動は続いている。王家の兵士たちに制止されればされるほど、人々の気持ちは掻き立てられていく。ふと、門の方から、こちらへ向かってくる人影が見えた。律動的な足取りは、今や見慣れたものだ。
「アル、これ以上はだめだ」
外で兵士たちと一緒に、剣を帯びて事に当たっていたユールが戻ってきた。ミカの方に小さく目礼をしてから、アルティラへと向き直った。
「これ以上は抑えておけない。彼らはついに何か投げ込みはじめた。いずれ流血沙汰になる」
アルティラは唇を噛んで答えなかった。その様子をちらりと見て、頃合いだな、とミカは言った。
「ユール、修道院の門を開けていい。外の連中に伝えるんだ、シアラン王子殿下の御来駕を歓迎する者のみ中へ入るように、と。でも、騒がしい奴らはお呼びじゃないからな。せいぜい行儀よくさせとくんだ。できるか?」
「はい、パトレス・ミカ」
「ちょっと! 勝手なことしないで」
果たして、二人の反応は対極だった。ユールがほっとした様子で応える一方で、アルティラは尖った非難の声を上げる。ミカは彼女に向き直った。
「修道院の門前を、血で汚したくはない。それも、こんな馬鹿げた騒動で。あなたは外の公道を、好きに制限したでしょう。ですが壁の内側は、今は私の領分です。私の好きにしますよ」
「ただの臨時の修道院長のくせに、よくも偉そうに。それに修道院だろうが何だろうが、ここはベルリアの地よ。あなたの好きには……」
「どうして、彼らにシアラン王子を見せたくないのですか?」
問いかけると、声を張り上げかけていたアルティラは、即座に口を閉ざした。一瞬の沈黙を置いて、固い表情で答える。
「それは……それは、危険だからよ。彼らはシアランに何をするかわからない」
「先だっては、あなた御自身が彼らの前にいらしたではないですか、花嫁衣裳で。彼らは騒ぎ立てはしたでしょうが、誰もあなたを傷つけはしなかった」
「私とは違うわ。今は、彼にいなくなってほしいと思う人間がいくらでもいる。私は、兄に安全でいてほしいだけなの」
「それなら尚更、人々を追い立てる必要はない。あなたは既に、その目的には最強の手札をお持ちでしょう」
言って、ミカは再びアルティラから視線を転じた。彼女の側で、やはり顔を曇らせていたユールは、しかしミカと目が合うと、はっと表情を改める。
「ユール、外の連中に指示を伝えたら、おまえは町の方に向かえ。シアラン王子の一行は、知らせの通り順調にいっていれば、もうじきここへお着きになる頃だ。合流して、王子殿下のお側で御身をお守りするように。……ていうか、そういうのが本分なんだろ?」
ベルリアの王宮のことはよく知らないが、ユールが所属していたのは近衛隊だと聞いた。王族の身辺を守るのは、重要な任務の一つであったはずだ。
「はい、パトレス・ミカ。もしよろしければ、修道院の馬を使わせていただいてもよろしいですか。早く合流できれば、それに越したことはありません」
「どれでも好きなのを。うまくやれよ」
「ありがとうございます。必ず――ご期待通りに」
最後はちらりとアルティラを見て、ユールは微かな笑みを浮かべて一礼した。素早く踵を返すと、きびきびとした足取りで去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ミカは口笛を鳴らしたくなる衝動を何とか抑え込んだ。何とまあ、絵に描いたような騎士であることか。
実際、ユール個人の性格には、一般的に武器を扱う者たちの美徳と思われている、果断さとか、粗暴と紙一重の猛々しさというようなものは、ほとんどないように思える。素朴で実直なことは確かだが、ミカの目からすると頭の作りも素朴だから、自分で何かを考えてやるとなるとどうにも覚束ないが、これが一度具体的な指示を与えられると、別人のように動きが違うのだ。ユールの性格というよりは、軍の訓練の賜物かもしれない。軍隊においては、上位者の命令は即座に実行されなければならないから、そう鍛えられているのだろう。
ふと、隣で憤然としたため息がして、ミカは視線を傍らに戻した。見れば、アルティラが、形のいい唇を不機嫌に歪めて彼を睨んでいる。
「あなたって、本当に忌々しい人ね。いい、ユールはもう修道士じゃないの。あなたの部下じゃないのよ、顎で使わないで」
「そんなことしていませんよ」
言い返しはしたものの、実のところ、ミカにも若干自覚がないわけでもない。まだ教皇庁から正式な通達が届いていないとはいえ、ユールが既に修道院、ひいては教会組織に属していないことは明白だ。ミカは既に、彼に対して何者でもないはずなのだが、しかしユールはどういうわけか、以前からの態度を変えないままだった。教皇庁から派遣された司祭に対して、何でも便宜を図るよう命じられた案内役の修道士のときのまま。
――確かに、あいつ便利だから、つい何か言いつけてる気もしなくもないけど……でも嫌なら拒否するだろ、普通。しないんだから、いいってことだろ。そうだろ?
しかしアルティラには、別の見方があるようだ。改めて彼をしげしげと眺めると、やがては諦めたように投げやりに言った。
「最初はエーリン、今度はユール……ああ、一体何だって私の周りの人間は、すっかりあなたに引っかかってしまうのかしら。そりゃあ、ちょっとその辺で見ないくらいの美青年だし、黙って立ってれば絵になるけど、でも黙って立ってないじゃない。言うことも乱暴だし、やることも強引だし。全然、崇高な感じはしないわよ……まあ悪い人じゃないけど」
「褒めるんなら全部褒めてください。ところで、あなたの侍女はどこですか?」
アルティラが名前を出したので、ふと思い出してミカは尋ねた。途端、王女は嫌そうに顔をしかめる。
「エーリン? 何? 何でそんなことを訊くの」
「法衣を直してもらって助かりました。穴が空いてるのは様にならないので。お礼を伝えておいていただけますか」
「ああそれ。なかなかきれいにできているでしょう、あの子は針が上手なのよ。でも、修繕跡には違いないから、戻ったら大人しく始末書を書いて、新しいのをもらった方がいいんじゃない」
「! 何でそんなことを知ってるんです!?」
修道院の門が開いた。兵士たちが先導し、人々が聖堂前広場に流れこんでくる。先刻まで聞こえていた殺気立った声は収まり、何やらブツブツと囁き交わすざわめきに変わった。
リドワース修道院の聖堂は壮麗な建物だ。白灰色の壁は春の日に輝きわたり、高く掲げられた三重円のスワドの聖印が人々を睥睨している。聖堂の前には、常の作業用ではなく、特別な礼拝のための漆黒の衣をまとった修道士たちが列を作り、粛然として居並ぶ。声を張り上げたり、乱暴したり馬鹿騒ぎをしたりする気にはなれない雰囲気なのだ。
その列の奥、聖堂の扉の前に王女アルティラがすっくと立っているのを目にした者も多かったが、特に騒ぎが起きることはなかった。少し前までは弾けそうだった狂乱の雰囲気を霧散させた群衆を、兵士たちが指示して移動させる。見る間に人波は割れ、間に道ができた。馬車の一行が人々の目の前を通って、聖堂のすぐ前まで乗りつけられる道が。
ミカは再びアルティラ王女に目をやった。彼の読み通り、群衆の危険な気配は退いたが、しかし王女がそれを喜んでいるようには見えなかった。優美な顔を、しかしその美しい曲線に似つかわしくなく強張らせ、黙って新たに出現した通路を睨んでいる。怒ったように、警戒するように――何かに怯えるかのように。
門の向こうから、新たなざわめきが上がった。




