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68. 変わりゆくもの

 それからいくらかやり取りをして、ユールは院長執務室を後にした。シアラン王子の来訪の件を、アルティラ王女に伝えなければならない。


 実妹である王女がこの件についてどう思うか、聞いてみたいと思いはしたが、しかしミカは、今は止めておくことにした。いずれもっと詳しい話が伝わってくるだろうから、そのときでも遅くはない。


 それに彼にも、他にしなければならないことがある。


 執務室を出て、厨房を経由し薬草園に向かった頃には、すでに太陽は中天にあった。昼食にはちょうどいい頃合いだ。


 厨房で受け取った食べ物を手に、ミカがぶらぶらと訪れた薬草園には、馴染みの姿があった。春、青々としてきた薬草園のうねの間、小さな白い花をつけている草の隣にしゃがみ込んでいる小さな影が一つ……それにその横で、熱心に何やら書き留めている修道士の姿。


 ミカが近づくと、二人は話を止めて振り向いた。サナンはしゃがみ込んだまま、視線を上げただけだったが、修道士の方は慌てて立ち上がる。そばかすの残る若々しい顔を緊張させて、恭しく一礼した。


「パトレス・ミカ」


「フィドレス・ジルト、何か収穫はありましたか」


「は、はい」


 若者の視線が手元の、板にまとめた紙束に向かう。普通、修道院の公文書として使われるなめし皮の紙とは違う、植物の繊維をって作られた茶色の薄紙は、脆くて火にも水にも弱いが比較的安価で、手早く情報を書き留めておくときに重宝される。ちらりと見えた部分には、走り書きにしては几帳面な文字と薬草の絵などが、びっしりと書き込まれている。


「いろいろと、興味深いことばかりです。はじめて聞くことも……」


「ちょっと見せてもらっても?」


 修道士の顔に動揺が走る。が、ミカににっこり笑って当然とばかりに手を出すと、おずおずとそれを差し出した。


 一連の走り書きにさっと目を通す。なるほど悪くない。ジルト修道士は、予想よりもかなり優秀な素養があるようだ。絵心と観察眼がともに備わっているらしく、薬草の絵図はどれも特徴をよく捉えている。


 その横に添えられた説明書きには、ミカもかなり興味を引かれた。多くは彼も知っていることだが、ときどき意外なことが……。


「あの……本当に、大丈夫でしょうか」


 ふと小声で問いかけられ、ミカは我に返った。見れば、ジルト修道士は不安顔だ。


「ええ、いいと思いますよ。素晴らしい仕事です。あなたには、ものを記録する才能があるようだ」


 特に世辞でもなくミカが言うと、若者は一瞬、ぱっと顔を輝かせる。しかしその表情は、すぐに浮かないものに戻った。


「あ、ありがとうございます。でも、そうではなくて……これは、本当に正しいことなんでしょうか。こんなことは、医術書では読んだことがありません。こんな……」


 言いながら、ジルト修道士はちらりと、座り込んでいるサナンに目をやる。それから気まずそうに目を逸らす様子を見て、ミカは彼の言いたいことを悟った。


 ――こんな、無学な農民の言うことが本当かって?


 院長代理の立場を生かして、ミカはこのジルト修道士に、特別に仕事を命じていた。サナンの持つ知識をすべて記録し、この修道院に残しておくことだ。


 近い将来、ミカはサナンを連れていかなければならないが、そうなるとここの施療所の処置能力にいくらか問題が生じるであろうことは明らかだった。古典的な医術書のみを信奉するヘルマー修道士の管理下にあって、サナンの知識は表立って認められることはなかったが、ジルトのようにときどきその知識を求めて、効を得ることもあったのだ。誰か話の分かる人間が知識を引き継いでくれれば、施療所で急激に死者が増えるなどという悲劇は避けられるのではないか。


 ミカがここを離れるとき、サナンを連れていくつもりであることは、すでに修道士たちにも周知してある。聖都スハイラスの医術であれば、あの口の利けない少年を治す手立てがあるかもしれないから、などという適当な言い訳だったが、誰もそれを疑いはしなかった。誰も、いつも泥まみれで畑にいる『少年』のことを、それほど気にかけてはいなかったからだ。


 例外は施療所担当の修道士たちで、サナンの真価は知らないながら、ヘルマーもいい顔をしなかった。『薬草園の引継ぎ』のために――もちろん、こんな書付を作らせることは言っていない――ジルト修道士を通常の仕事から一時期外すとミカが言ったときも、彼を見る目に憎々しげな色を隠そうともしなかったくらいだ。


 しかし、結局強硬に反対しなかったところを見ると、ヘルマー修道士にも幾許かの心境の変化があったらしい。ミカは臨時の修道院長代理であり、いずれいなくなるのだから、鞘当てをして無為な労力を払うより、何でも好きにさせてとっとと出て行ってもらうのが得策だとようやく思い決めたのか。


 あるいは彼もまた、未だ呆然自失の域にあるのかもしれない――先だっての一連の惨劇以降、多くの修道士がそうであるように。


「医術書に書いてあることだけがすべてではないと、あなたもよくわかっているはずですよ、フィドレス・ジルト」


 若者に書付の束を返しながら、ミカは言った。そもそもこのジルト修道士こそ、上役であるヘルマー修道士の目を盗んでここへやってきては、サナンに薬草の処方を尋ねていたくらいなのだ。その有用性はよくわかっているはずではないか。


 だが、若い修道士は、曇りの晴れない表情のままだ。


 ミカは密かに首を傾げた。ジルトは、この仕事をもっと喜ぶと思っていたのだ。若い分だけ既成観念に囚われることなく、新しい考えを受け入れることができる。気が優しく、病人を診たり世話をしたりする今の務めも気に入っているようだから、それに役立つ知識を得ることは彼の望むところでもあるだろうと思っていた。


「そ、それは、そうです……ええ、その通りです。この子に聞いた処方で、うまくいった患者は何人もいます。悪いことでないのはわかってます」


 彼に答えるというよりは、自分に言い聞かせるようなジルトを、ミカは黙って見返した。一体何がこの青年を思い悩ませているのか。


 少しの間、沈黙が続く。やがて、無音の気まずさに耐え兼ねるように、ジルト修道士は再び口を開いた。


「ただ……考えてしまうのです。この子が、医術書にも載っていないようなことを当たり前に知っているのなら、一体私たちは何をしていたのだろうと……私たちの信じてきたことは、何なのだろうかと」


 おそらく、それは医術書のことばかりではないのだろうと、ミカにはわかった。この修道院の修道士たち全員が、多かれ少なかれそうした思いを抱えているのだ。


 神の法を至上とし、その下に人生を誓った者たち。その教えに従って生きることが、最も神の御心に適うことと信じてきた――彼らのうちで、最もその理想を体現していた者は、しかしおよそ神の栄光とは無縁に死んだ。


 時代遅れの医術書には、書いていないことがたくさんある。そしてその『書いていないこと』が、病人にとって致命的であることもままある。時代遅れの修道院はどうなのか。あるいは時代遅れの神の教えは――彼らは本当に、彼らが信仰しているものを知っていると言えるのだろうか。


 ミカもまた、少しの間黙った。話の方向性によっては、極めて重大な線を踏み越えそうな気がしたからだ。神を疑うことは地獄の入口だ……少なくとも、教皇庁の頑迷な教理部はそう言い立てるだろうし、万一そんな風に受け取られることでも口にしようものなら、悪くすればミカの首が飛ばされかねない。言い方には気をつける必要がある。


 だが何と言おうと、結局のところ、神の法は永遠なのだ。この世のはじまりから終わりまで、厳然として存在する。時代などというものの方こそ、人間が勝手に生み出すものだ。


 浮かび上がっては消えていく、怒涛どとうのように渦巻いていても、次の瞬間には流されて消える、勝手で愚かな幻だ。けれどそういうものこそが、永遠である神の法よりはるかに厳しく、はるかに過酷に人間を縛り付ける。


「古典の医術書には、確かに載っていないこともたくさんある。それはそうでしょう、我々はたった今も、日々知識を積み重ねているんですから。前には正しいと思われていたことが、実は間違っていたとわかるなんてことは当然あります。でもそれは神の法が変わったわけではない、私たちの方が変わっているからです。神はどういうわけか、人を、永遠の存在であるご自身とは全く違うものにお創りになられた。私たちは、どうしようもなく変わっていくのです――私たちには、永遠や絶対といったことはあり得ない」


 そういう意味では、神の法でさえ永遠ではない。それを見る人の目が変わっていくからだ。冬の日に雲間から現れる太陽の光は、この上のない祝福だと思っても、灼熱の地で肌を刺す同じ太陽の光は、忌々しい呪いと感じられる。どちらも正しくはない、どちらも絶対ではない――けれどどちらも、人間が肌身に感じる真実だ。


「肝心なのは、私たちが変わりゆくものであることを知っていることです。私たちは変わりゆくものであると認めることです。古い医術書が古くなったのは、誰の罪でもない。誰かの信仰が足りなかったとか、間違っていたということでもない。ただ、私たちにはまだ進むべき余地があるというだけのことです」


 人は永遠を手に入れることはできない。不変を崇め、遠く仰ぐことはできても、それを地上に引きずりおろすことはできない。崇高な理想、美しい過去、変わらないものはすべて神の国に属するものだ。無理に手に入れようと手を伸ばせば、掴んだと思った瞬間に死んでしまう。あとに残るものは、似ても似つかぬ醜い遺骸と、多くの人を狂わせる腐臭のみ。


「古い医術書が、すでに新しい知識には合わなくなったとあなたは知った。それは罪ではない。それを無謬むびゅう信奉しんぽうしていた以前のあなたにも罪はない。ただ、それでは足りないと気づいてしまった後でさえ、目を背け耳を塞いで、同じ場所に留まり続けるのは、罪深いと言わざるを得ません。神は私たちを永遠の存在ではなく、その対極としてお創りになった。常に変わり、常に新しく生まれ、生きて先へ進むことをお望みなのです」


 今、ジルト修道士の手の中にある知識は、まさに福音にも等しい。より多くの病人を救うことができるようになるだけではなく、ジルト自身に新たな知見をもたらすだろう。新たな知見は歓迎すべき信仰の姿で、やがてこのリドワース修道院全体が、全く新しい信仰の姿を見出すかもしれない。


 書付の束を手にしたジルトは、いくらかほっとしたようだった。しかしまだ完全に気楽になったようではないのは、信仰の在り方はさておくとしても、彼の手にある新たな知識の、現実的な処し方に困っているからに違いない。


 いくら、新たな知見が神の御心に沿うものと唱えたとしても、それであのヘルマー修道士あたりが、それを簡単に受け入れるとも思えない。困っている、しかし上役の名前を直接口に出して非難もできない若いジルト修道士に向かって、ミカは素知らぬ顔で続けた。


「その書付については、差し当たりあなたが知っていてくれれば十分です。神のご意志は何物にも阻まれぬもの、私たちが思いわずらわずとも、いずれは誰の目にも明らかなところに、おのずと現れるものです。あなたは神のご意志に従い、ただ黙って、あなたのなすべきことをすればよろしい」


 ジルトがサナンから得た知識を、実際に治療に用いていけば、おそらくは彼がここの施療所で一番優れた医術者となるだろう。そうなったとき、ヘルマーはどうするか。


 古い医術書を押し付けようとしても、もう遅いだろう。ジルトはともかく、人々がそれを許さないからだ。市井の人々は医術の知識はなくても、誰が自分の命を救ってくれるのかには恐ろしく敏感だ。いずれはヘルマーも受け入れるしかない――サナンの知識が個人を離れて、他者のもとに記録として伝わるとき、それは新たな神の法の一つになるのだ。誰にも妨げることはできない。


 つまり、彼自身がヘルマーを説き伏せる必要はないと暗に告げられたジルトは、目に見えて安堵したようだった。どうやらあの頑迷な上役は、信仰の危機と同程度に彼の心に圧し掛かっていたものらしい。笑みを浮かべかけ……しかしそれは適切なことではないと気づいたのか、慌てて表情を取り繕った。


 修道院から、鐘の音が響いてきた。正午を告げる鐘だ。


 鐘の音に合わせて、聖堂で礼拝を行うのが修道士の務めだ。ジルトは頭を下げ、暇乞いとまごいの言葉を述べると、足早に薬草園から立ち去っていく。ミカは残るもう一人、まだ地面に座り込んだままの子供に向かって声をかけた。


「おい、昼飯にしようぜ。仕事も切れて、ちょうどいいだろ」









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