67. 行儀の悪い天使
「あの方が、こんなところにまでいらっしゃるとは信じられない。王宮の外へおいでになるなんて……」
「どういう意味だよ?」
呟きは、半ば独り言だったに違いない。ミカに問い返されて、ユールははっとしたように顔を上げた。その表情に、一瞬暗い影が過ぎったが、ミカに促す目を向けられて、躊躇いがちに応じる。
「お身体が、あまり……丈夫ではいらっしゃらないので。王宮を出られたことも、ほとんどおありでないはずです。それが、都を離れてこんな遠方にまでいらっしゃるなんて」
近くの町で耳にした、王子の噂を思い出す。世継ぎの王子は呪われていて、王宮に幽閉されていると――実際に王子がひょいひょい市井の人の目につくようであれば、こんな噂になることはない。どの程度かわからないが、生来に病身であるというなら、宮廷内でこれほど軽んじられている理由も、それに無関係ではないだろう。
しかしそれにしても、依然疑問は残る。ミカは更に尋ねようとしたが、結局はそれを諦めた。急に杯の底が興味深くなったとでも言うように、ユールは一心に手元に視線を落としている。その頑なな横顔には、微かな後悔が見える。言うべきではないことを言ってしまったというような。
ふと思い立って、ミカは別のことを尋ねた。
「もしシアラン王子が、おまえのしたことに怒ってたら、おまえはどうする。妹との結婚は認めない、おまえは王都に戻らせないなんて言ったら」
ユールははっと顔を上げた。それはまさに、彼の恐れていることであっただろう。その目に悲嘆の色が宿ったのは一瞬、しかし揺るぎない決意の表情で、ユールは即座に答えた。
「シアラン様がそのように仰られたとしても、致し方ないと理解しています。今、あの方には一人でも味方が必要なのに、私がそれを駄目にしてしまったのですから。王女……アルと結婚したことは、あなたの仰る通り、今更取り消せないことですが、それ以外ならどのようにも罰を受けるつもりです。王都に戻れなくても構わない――元々、戻るつもりはなく離れたのです。どこへやられても構いません。どこでも……どこの戦場でも。私は、剣の他は取り柄のない人間です。せめてどこかの戦場へ遣られれば、まだいくらかはお役に立てることもあるでしょう」
「おい、その場合、おまえは見限られてんだぞ。更に忠義立てする義理なんかないだろう」
老婆心ながら、ミカはつい忠告してしまった。名家の生まれで、王宮に近く育ったというなら、ユールにとって王族への忠誠は自らの一部のようなものだろうが、ものには限度がある。権力の犠牲の矛先なんて、次の瞬間にどちらに向くかわからないのだから、それがこちらへ向きそうだと思われたなら、義理や体裁などすぐさま放って逃げ出すべきではないか。
しかし、ユールには少しの動揺もなかった。ミカに真っ直ぐな瞳を向けて、きっぱりと言う。
「それでも、私の剣はあの方のものです。あの方が私をどう思うかと、私の誓いは関係のないことですから」
「向こうが疎ましく思ってても?」
「シアラン様の他に、私の王はおられない」
ふむ、とミカは首を傾げた。実際にミカが把握している範囲でのシアラン王子の判断や行動は、およそ他人の情熱や忠誠心を掻き立てるようなものではないが、一方でユールの忠誠心には確たるものがあるらしい。根が単純で直情径行の性質だから、というのはもちろんあるだろうが、それでも彼は、一度は生まれ持った恵まれた環境を捨てたのだ。シアラン王子のために……少なくとも、彼のためだと信じて。
椅子の背に寄り掛かり、傷のない一枚板の机に脚を乗せて、ミカは考えを巡らせた。ともあれ、あれほどロードリー伯爵が自信満々に言い置いていったということは、シアラン王子がここへ向かっているということは確かだろう。問題は、どうやって迎えるか……。
ふと視線を感じて、ミカは天井から目を戻した。見ればユールが、ぼうっとした表情で彼を見やっている。
「何だよ。……行儀が悪いとかつまらんこと言ってくれるなよ、坊ちゃん」
揶揄するように言って皮肉な笑みを向けると、ユールは慌てたようだった。ぱっと顔を赤くして、すみません、と謝る。
「何でもないんです。ただ、あの、まだその……慣れてなくて」
何にだ。修道院長のさぞ高価であろう執務机が、無造作に足蹴にされることにか。だが自分が金を出したわけでもなし、物は物だ……と思ったミカだが、そこでユールの困惑の表情に、何やら物言いたげな気配を見て、はたとその真意を悟った。
「あー、もしかして、俺が猫かぶってないのが気に入らねえのか? だってもう、今更だろうが」
聖堂で、ユールの襟首を引っ掴んで怒鳴りつけてからというもの、ミカは彼に対して、いわゆる『善良な司祭』の物腰はとうに捨ててしまっていた。本性がばれたというのに、芝居を続けていても意味がない。そもそも、何で自分を刺し殺した奴にいい顔をしてみせなければならないのだ。
「別に司祭だからって、善良だとか人間ができてるとか高尚な人格だとか、そんなわけねえし。人格なんて、そんなもん計りようがないだろ。いい奴もいればそうでもないのもいる。世の中どこでもそうなんだ、どうして教会だけが違うもんかよ」
意外にも、ユールはミカの聖職にあるまじき不適切発言自体には、特に異論はないようだった。はあ、と曖昧に小首を傾げる。剣を手にして、あれだけの気迫と技量を見せる人間の仕草とも思えない。
「大体、そっちこそ人のこと言えた義理かよ。虫も殺さないようなのんびりした顔して、いかにも鈍くさそうだったのに、剣なんか振り回す奴があるか」
しかし今思い返してみれば、いくらか思い当たる節はあった。修道士にしてはきびきびとした歩き方、しかし体重を感じさせない滑らかな動きは、長く鍛錬を積んで身についた身のこなしだったろう。
実際、ユールが修道服を止めて、今のように腰に剣を帯びたとき、それは完全な調和と感じられた。騎士としてのユールなど見たことのなかったミカでも、こちらが彼の真の姿だとすぐにわかった。あの馴染まない新人修道士の姿ではなくて。
「そんな風に思われていたんですか、知らなかった」
「どうせそっちだって、勝手なこと思ってたんだろ? お互い様だ」
自分に対して他人がどういう感想を抱くかは、大体わかっている。いつぞやの夜、院長宿舎の外で立ち聞きした、ロードリー伯爵とアルヴァンの会話など典型的だ。若い柔弱な男、温和で手玉に取りやすそうな司祭。そう思われた方が都合がいいから、わざとそう見られるよう振る舞っているというのもあるが、特に何もしなくてもそんなものだろう。
ユールの答えは、しかしミカの予想しないものだった。居住まいを正し、ユールは至極真面目に言ったのだ。
「初めてお目にかかったときから、神の国から地上へ降りた、天使のような方だと思っていました」
「!」
がくっと天井が傾いた、のではなく、彼の身体の方が滑った。だらしなく寄り掛かっていた椅子から落ちそうになって、ミカは慌てて跳ね起きる。
「あ……このアホ! 何考えてんだ」
「え、駄目でしたか?」
「逆に何がいいと思ったんだよ……大体な、天使なんかこの世にいねえの!」
……福音教会の教義では、スワドの神がこの地上を平定された後、すべての天使や神獣はこの地を離れ、遠きに坐す神の御許に侍っていることになっているから、『この世』が地上を意味する限り、ぎりぎり許容範囲ではある。ぎりぎりだが。
そうなんですか、と目を丸くするユールの頭を叩きたい衝動に駆られたが、手の届かない距離だったので、ミカは渋々諦めた。
「……いたとしても、俺らがその辺で行き合うことはまずないから、実際いないのと同じだ。とにかく、事実は事実としてそのまま受け入れるべきだ。おまえはぼーっとして見えても腕の立つ剣士だし、俺はご覧の通り、品行方正って柄でもない平司祭だ。変な思い込みはお互いためにならん」
実のところ、ミカは自分の素行がそれほど悪いとも思っていない。何と言っても、喧嘩沙汰で人を殴り殺したなんてことはないし、掛銭欲しさに金品を奪ったこともないし、若い娘に貢がせて、遊ぶだけ遊んで捨てたなんてこともないのだ。ただ人並み程度に、博打を打ったり酒を食らったりしているだけで、何ら世に恥じるようなことはしていない。していない……つもりなのだが、それも地上にあっての話だ。神の国基準を持ち出されてはたまらない。
言い捨てて、葡萄酒の杯を呷ったミカを、ユールは少しの間見つめていた。しかし、やがて困惑めいた表情を笑みに変えると、穏やかな口調でこう言った。
「でも、それでもパトレス・ミカ、あなたは天使の類ですよ。少なくとも、私にとっては――神が人に肉体と命をくださったように、私に希望と未来をくださった。それが神のご意志なら、その意を地上に行う天使は、やはりこの世におられるのではないですか。ちょっとお行儀が良くないかもしれませんが」
ミカは杯を干して答えなかった――背もたれから体を起こしてきちんと座り直したことに、他意はない。多分。




