66. 王子の実像
音を立てて扉が閉まると、ミカはユールを見やった。ロードリー伯爵がいる間は、その顔には訓練された警戒以外の何の表情もなかったが、不躾な来客を見送った今、その冷徹さもいくらか緩んで見えた。驚き、困惑、そしていくらかの罪悪感。
「で、どう思う?」
ミカが尋ねると、ユールははっと我に返った様子で、彼に向き直った。その顔には、ロードリー伯爵がいたときの峻厳な雰囲気は既に欠片もない。突然、教師に指されて慌てる学生のように目を瞬いて、ユールは戸惑った声で問い返す。
「ど、どう、ですか?」
「いや、俺が訊いてんだよ。そのシアラン王子は、本当に王都を離れて、こんな田舎まで来るのか? 来るとして、何しに来るんだ。おまえら、結婚についてはもう連絡したんだろう?」
「はい。王女殿……いや、アルが、王都に伝令を出して事情を伝えました」
まだ口に馴染んでいないらしい新妻の名前に、気まずそうに頬を染めるユールを見やって、ミカは呆れて頭を振った。まあ、新婚らしく初々しくて微笑ましいと言えなくもないが、そろそろ妻の名を呼ぶくらいは慣れていいのではないか。まさか当のアルティラの前で、殿下呼ばわりはしていないだろうな。
彼らの慌ただしい結婚が成立した日から、すでに一週間ほど経っている。もはやロードリー伯爵との婚約は無効となったアルティラ王女がこの地に留まる理由はなく、すぐにでも王都へ取って返してよかったのだが、ユールの方はそうもいかない。動機はどうあれ、一度修道士と立てた誓いを取り消すのはそれなりに面倒だ。
彼の修道の誓いを受け入れたリドワース修道院長の代理として、ミカはもちろんその取り消しを認めた。既に婚姻が成立しているから、今更還俗が認められないということはないだろうが、どうやら新婚夫婦は、中途半端な立場で王都へ戻るのは気が引けたらしい。二人は修道院所有の、アルティラが滞在していたあの屋敷に身を寄せて、教皇庁から正式な通達があるのを待っていたいと言ったので、ミカもそれを了承した。
「それに返事は?」
「まだありません。日数から考えて、向こうへ到着してはいると思いますが……」
通達を待って、日に一度はここを訪れるユールは、浮かない顔を見せた。ということは、シアラン王子の動向は、妹夫婦にさえ知らされていないということか。
では本当に王子は、ロードリー伯爵の言う通り、意図した政略をご破算にした妹の結婚に異議を申し立てる気なのか。
考えながら、ミカは院長室の大きな机を回り込んで、どっかりと椅子に腰を下ろした。ここを訪れた初日に、さぞ座り心地がいいだろうと思った院長の椅子だ。確かに座り心地は良かったが、こんな面倒事の結果として座らされる羽目になるのは、もう全然嬉しくない。
半ば無意識に、手近の水差しに手を伸ばす。中身は実は水ではなく、リドワース修道院自慢の葡萄酒だ。毎朝下働きの者が、ここに新しい葡萄酒を補充するのが、アルヴァン院長の頃からの決まりだったらしい。
昼間から好きに飲もうなんて、なんてけしからん悪習だ……が、ミカは敢えて改めはしなかった。何と言っても、自分は一時だけの代理なのだ。修道院の改革などは、後に来るはずの正規の院長の仕事で、それを引っ掻き回すのは野暮というものだ……ここの葡萄酒はやたらと美味いし、どうせそれほど経たずにここを去るのだから、この程度のささやかな役得は神も許し給うに違いない。
芳醇な液体を一口すすったところで、まだそこにユールが立っていることに気が付いた。ミカは別の杯に葡萄酒を注ぐと、ぐいと彼の方へ差し出す。
「ほら、おまえも一杯やれ」
「えっ! い、いえ、私は」
「もう修道士なんかじゃねえんだから、固いこと言うな。飲め、んでちょっとそっちに座れ」
所在なさげに佇んでいる相手に、顎をしゃくって客用の椅子を示す。ユールはなおも躊躇う様子だったが、結局はミカの言う通り、杯を受け取って手近な椅子に腰を下ろした。彼が舐めるように杯に口をつけたのを見てから、ミカは再び口を開いた。
「実際、どういう人なんだ、シアラン王子っていうのは」
ベルリアの呪われた王子――市井の噂はほとんど怪談ようなもので、何らあてになりそうなことはなかったが、しかしそうした悪評が存在すること自体には理由があるかもしれない。以前のロードリー伯爵は、王子などものの数ではないと言わんばかりの態度だった。今になってシアラン王子の名を出したのも、ようやくその存在に利用価値があると気づいたというように見える。たとえ立太子されていなかろうと、王の息子がここまで侮られることがあるだろうか。
よほど本人の品行に問題があるのかと思いたくなるが、それもまた違和感がある。王子は、あのアルティラ王女の兄なのだ。兄妹だからといって、出来の良し悪しが同程度とは決めつけられないだろうが、しかしアルティラは兄について、特段の不服を抱いていないように見えた。だからこそ、政略結婚を甘受してここまで来たのだ。ベルリアの王統を保つために――それはとりもなおさず、兄のシアラン王子の頭上に王冠を戴かせることである。
「妹を政略結婚に使うまではまあいいとしても、それがポシャったからって、教皇庁に因縁をつけようっていうのは、あまりいい考えじゃないと思うがな。面倒事を増やすだけだぞ。ユール、おまえは王子を直に知ってるんだろう。どういう人なんだ――多少は理屈が通じそうな人なのか」
ここまでの経過を見るに、あまり期待はできそうにないが、とミカは密かに思っている。妹を政略の道具にするまでは、その道義的な是非はともかく、手段としてはあり得る。しかし一旦その手段を取ると決めたなら、王子は素早くロードリー伯爵を、厳密にはその力を取り込むべきだったのだ。それが、伯爵を逃さぬよう画策した気配もない。
政略結婚が実現不能となった今、彼はロードリー伯を別の餌で宥めるか、あるいはきっぱり手を切るか決めるしかない。それが何を思ったか、婚姻の秘蹟に異を唱えるという、選択肢の中では最も労多くして実りが少ないものを選んでいる。どうにも道理が通らない、支離滅裂だ。
しかし、ユールの意見はまた違うようだ。
「あの方は……シアラン殿下は、聡明な方です。聡明で、心根のお優しい方です」
「心の優しい人間が、妹を政略結婚の駒に使ったりするか?」
「あれは、アルの発案だったんです。発案というか……私が、その、王宮を離れた理由を知らなかったので、アルは何としてでも自分でシアラン様をお助けしなければと思ったみたいです。兄君に迫って、どこの誰を味方につければいいのか問い質して、それを実際に行動に移した。もちろん王子は、最終的にはアルのすることを受け入れたとは思いますが、心から賛成していたとは思いません。彼女にそういうことを、御自らお命じになってさせられるような方ではありませんから」
とはいえ、彼女が政略結婚の犠牲を払っていたならば、シアラン王子こそはその最大の受益者になっていたはずだ。しかしその点は指摘せず、ミカは更に質問した。
「なら、王子は何をしに来ると思う? おまえらの結婚に反対じゃないんなら」
「わかりません……」
はなはだ役に立たない。ミカは眉根を寄せて、皮肉の一つも言ってやろうとしたが、しかしユールの言葉はそこで終わりではなかった。
「あの方が、こんなところにまでいらっしゃるとは信じられない。王宮の外へおいでになるなんて……」




