65. ロードリー伯爵の憤懣
「何であんたがここにおるのだ」
リドワース修道院の院長執務室に乗り込んできたロードリー伯爵は、唸るように言って彼を睨んだ。
ミカは肩を竦める。もはや伯爵には、教皇庁特任司祭に対して形ばかりの敬意を表す気もないらしい。無理もないが。
「ここしか場所がないからですよ。私は修道士ではないから、僧房にみだりに足を踏み入れるべきではないのです。ですが、誰かがここの状況をまとめて、次に引き継がなければならないわけでしょう」
修道院は、相次いでその院長と副院長を失った――アルヴァン院長は生きてはいるが、その地位に対する資質の欠如が誰の目にもはっきりしている。そもそも、実兄であり、アルヴァンが謀殺を図った対象であるロードリー伯爵自身が、そんな人物をのうのうと修道院長に据えたままにしておくはずがない。
謀略が明らかになったあの日、伯爵は弟を捕えさせ、修道院から退去させた。その後どうなっているのか、噂雀の修道士たちでさえまだ耳にしていない。はっきりしているのは、アルヴァンが再び院長としてここへ戻ってくる目はないということだけだ。
早急に次の院長を立てる必要がある。名目上、修道院の人事の最終的な任命権は教皇庁にある。とはいえ通常なら、修道士たちが互選した相手を追認したり、あるいはここリドワース修道院で長年行われてきたように、設立した一族、地元の名士の意向を認めたりするくらいのものだが、しかし今回のような事件が起きた後ではそうはいかない。
修道院長、副院長が両者ともに職責を果たせなくなったことは、すでにベルリア総大司教のもとに報告したから、今頃はその処遇が検討されているあたりだろう。そしてその結論が出るまでの間、ベルリア総大司教府は、当座の監査役、教皇庁の代理人として、たまたま居合わせたミカ・エトワ・ジェレスト司祭に臨時の院長代行を要請した。
「それで、今度はあんたがここの院長に収まろうというのか。そうはいかんぞ」
「どうしてそんなわけがありますか。新任の院長が決まり次第、即退去させていただくつもりですよ。ここへは任務があって来たのです。それを復命もしないうちに、ここに足止めされているのは、私としてもありがたいとは言えないことなのです」
ベルリア総大司教府の意図は読めている。管轄地域で不祥事が起きた以上、彼らは教皇庁に対して詳細な報告――という名の申し開き――をせざるを得なくなるが、その現場に教皇庁所属の人間がいたなら、まだしも自分たちの責任の比重が軽くなると計算しているのだ。あわよくば、すべての責任をミカに丸投げして、自分たちは知らぬ存ぜぬで押し通せると思っているかもしれない。
本来なら、何もかも無視してここを離れるべきだった。ベルリア総大司教は、ミカに院長代理を『要請』しただけだ。教皇の特任がある間、総大司教といえどミカに何かを命じることはできないのだ。
断るつもりなら断れたが、しかしそれは得策ではない。今や、彼の任務は様変わりしたからだ。最も優先されるのは、平穏にここを立ち去ること。誰にも不審を持たれず、何もかもが落ち着いた上で――あの子をここから連れ出すこと。
「そうか、あんたは『奇蹟』を調べに来たんだったな。ふん、どう報告するのやら。誰が余計なことをして、貴重な『奇蹟』が失われたかも、きっちり報告してもらわんとな」
件の『奇蹟の薔薇』の残骸は、まだあの場所に手つかずに残っている。院長代理の職権を生かして、ミカは修道士たちに、あの薔薇には触れずにそのままにしておくよう指示したが、それがなくても、誰も積極的に近寄ろうとは思わないようだった。墓地の方へ回らない限り見えないこともあって、修道士たちは皆、注意深くあの場所を避けている。見なければいつか存在しなくなるなどとは、誰も心から信じてはいないにせよ。
「それで伯爵、本日はどのようなご用向きでいらっしゃったのでしょうか」
露骨な当てこすりは聞かないふりで、ミカはせいぜい愛想よく尋ねた。どうせろくでもない用件に決まっているが、正直に仏頂面をしたところで何の得もしない。
一方で、微笑みかけられたロードリー伯爵の方は、何故かわずかにたじろいだようだった。ミカの対応は、いくらか相手の目算を崩したらしい。とはいえ、そんな程度で諦めてくれる人間ではない。ロードリー伯爵は肩をそびやかして言った。
「ふん、そうして得意がっておられるのも今のうちだ。――パトレス・ミカ、あんたを正式に、教皇庁に告発する。あんたと、あんたの神をも冒涜するやり口について」
「涜神の罪で告発とは、それは穏やかではありませんね。一体、何を根拠にそのような申し立てをなさるおつもりですか」
「知れたこと、あの呪われた婚姻の秘蹟だ。あんなものは秘蹟ではない、詐欺だ。いいか、パトレス・ミカ、あんたにこんなことをする権利などない。アルティラ王女は私のものになるのだ、さもなければ……」
「――誰が、あなたの何だって?」
抑えた声音と、物々しい金属の音に遮られ、ロードリー伯爵はぎょっとしたように振り返った。たった今まで、この部屋にいるもう一人の存在に気付いていなかったのだ。
「ロードリー伯爵、あなたは我が妻を愚弄している。今ここで、決闘に応じる用意はありますか」
それまで扉の側に気配を消して立っていたユールは、今や冷たい敵意を隠しもしない。
ミカは密かに感心した。あの小柄で温和な、もの慣れない新入り修道士とは別人のようだ。あの凄みの目で睨まれると思うと、ミカだってぞっとしない。あれは何のためらいもなく、相手の肉体を剣を突き立てられる人間の目だ……実際にこの身で体験したことでもあるし。
そしてそれは、ロードリー伯爵にも感じ取れているようだ。不意を突かれた動揺も手伝って、伯爵は即座に顔色を変え、今度は助けを乞うようにミカを見やる。
図々しい、と思いはしたが、ユールの手が既に剣の柄にかかっているのを見て取って、ミカは仕方なく口を挟んだ。面白そうな見世物ではあるが、これ以上の揉め事は必要ない。
「やめなさい。ユール。今、ここの責任者は私です。神と修道士の家で、剣を抜くことは許さない」
「はい、パトレス・ミカ。あなたにご迷惑をおかけすることは致しません」
ユールは即座に応えたが、しかしその物々しい気配は少しも減じていない。ロードリー伯爵はなおも落ち着かない様子ではあったが、ユールがそれ以上動く様子がないのを確かめると、再びわざとらしい横柄さでミカに向き直った。
「いいか、教皇庁は必ずあんたを守ると思ったら大間違いだぞ。あんな詐欺まがいの婚姻の秘蹟など、少しでも神の法を重んじる者であれば、誰もが許せんと思うものだ。あんたは神の秩序のみでなく、現世の秩序まで破壊することになるのだ」
現世の秩序、つまりこのベルリアの体制だ。国内の有力貴族の反抗に遭って、ベルリア王家の威信は危機に瀕している。もしアルティラ王女との婚姻を通じてロードリー伯爵の助力を得られなければ、王家にとっても困ったことになる、と言いたいらしい。
だが、それが問題だと思うなら、伯爵自ら助力すればいいだけだ。王女を得ようが得まいが、王家に忠節を尽くすつもりならそうするべきだし、気に入らないなら反旗を翻せばいい。王女を通じて、上手いことベルリアの玉座に近付こうという伯爵の目算が外れたというだけで、ミカには何ら痛痒を感じるところはないし、おそらくは教皇庁も、そんな申し立てを相手にはしないだろう。
しかし、ロードリー伯爵の次の言葉は、その読みをいくらか揺るがすものだった。
「この件については、すでに王都にも報告してある――シアラン王子も、この非道なやり口には甚だお怒りだ。教皇庁は、一介の貴族の告発は無視できると思っておるかもしれんが、いいか、この告発は王家の名においてなされるのだぞ」
「シアラン王子?」
ベルリアの『呪われた』王子――本来は正しく王位を継ぐ立場でありながら、未だにそれは叶っていない。貴族たちの反抗を押さえ込まないことには、彼の当然の権利であるはずの王位もままならない王子にとって、今ロードリー伯爵の支持を失うのは、確かに看過できないことだろう。
――でもおっさん、万一結婚をやり直して王女と結婚したとしたら、間違いなくその王子が邪魔なんだろ……つかこの前まで、普通に王女の付属物扱いしてたじゃねえか。ふん、それを今度はもう、錦の御旗にしたのか?
まったく、呆れるほどに図々しい。しかしその面の皮こそが政治力と言うなら、それはそうだろう。なるほど、粗雑な暴力だけを頼みにしていると思いきや、伯爵はこれでそこそこ能力のある風見鶏らしい。
ふと、ミカは視界の隅で何かが動くのを見た。剣の柄に手をかけたまま、鍛錬された自然さで悠然とその場を占めていたユールが、微かに身動ぎしたのだ。
「そうとも、このベルリアの正統な王子だ。いかに教皇庁といえど、一介の司祭のために無視はできないお方だ」
言って、ロードリー伯爵は意味ありげな目でミカを見やった。
「――そのシアラン王子が、数日内に、直々にここへおいでになる」
「おや、何でまた」
「この結婚の無効を宣言するためだ。あんたのやり様には、王子も憤慨なさっておられる。この上は、御自らこの地に足を運ばれて、あんたにあのイカサマの婚姻を撤回させてくれようというのだ」
正しく叙階された司祭によって執り行われた婚姻は、誰にも、それを行った司祭本人にも取り消すことはできない。しかし敢えて指摘はせず、ミカは黙って考えを巡らせた。
これまで衆目の前に姿を現すことのなかった、それこそ妹の結婚式にさえ現れなかった謎の王子が、今になって姿を現すとはどういうことだろう。伯爵の言う通り、本当に婚姻の秘蹟を無効にできると思ってやってくるほどの馬鹿なのか。他に何か理由が考えられるか……。
ミカの沈黙を、どうやらようやく脅しが効いたものと取ったらしい。ロードリー伯爵は獰猛な笑みを閃かせる。
「こんな馬鹿げた茶番も、もう終わりというわけだ。今から、この先の身の振り方を考えておくんだな」
わざとらしいほど満足感にあふれた口調でそう言いおいて、伯爵は踵を返す。扉の側に立っているユールを、今度は恐れげもせず睨み返すと、見せつけるような横柄な足取りで、院長執務室を出て行った。
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