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64. 花の聖女

 夜の静寂が、再び戻ってくる。ミカもまた、黙って考えを巡らせた。植物の人為的な交配を行うすべが本当にあるとしたら、それは奇蹟だ――彼や教皇庁が、当初思っていたようなものではないにしろ。


 今の話は、よく確かめてみなければなるまい。ミカがここへ来た目的であった『奇蹟』はなくなったが、考えようによっては、それよりはるかに重大なことが起きていたわけだ。


 ただ、それは差し当たって後のことだ。ミカは、夜闇の中に黙って佇む子供を見つめた。明日以降、サナンにはより詳しい話をしてもらわなければならない。けれど今は、もっと別の言葉をかけるべきだと思った。


 この木は、サナンの祖父の残したものだったのだ。それを祖父の近くに植えて、欠かさず面倒を見ていたサナンにとっては、きっと祖父が二度も死んだようなものなのだ。


「……本当に、残念だ」


 壁に歩み寄って、ミカもまた、焼け焦げた枝に触れた。指の下で、炭となった樹皮が剥がれて落ちる。新芽であったはずの小さな枝が、脆い音を立てて折れた。


「せっかく、こんなに大きくなったのにな。どんな花が咲くのか、見てみたかった」


「『きせき』でさいてるんじゃなくても?」


 サナンが顔を上げて問うた。『奇蹟』の調査のためにやってきた人間が、真相を知った今、この薔薇に何の興味があるのかといぶかしむような――あるいは警戒するような――様子である。ミカは微かに笑うと、心から答えた。


「おまえのじいさんの薔薇なんだろ。一生かけて作り出したいと思って、最後には名前を付けるほど気に入ったものを手に入れたんだ。そんな風に夢を叶えられる人間はそういない。俺は、花のことはよくわからねえけど、それがどんな夢だったのか、見ることができたらよかったと思うよ」


 だがそれは、もはや永遠に叶わないことだ。ミカは、この木を殺した男のことを考えた。この薔薇が神の奇蹟の顕現ではなく、一人の男のひたむきな夢の実現だと知ったなら、どう思っただろう。教会の禁じた花をそんな風に弄ぶのは許せないと思うだろうか、それとも己の道連れにしたことを後悔するだろうか。彼が、教会の法が神の真理だと確信できるほど単純な人間であれば、こんなことにはならなかった。きっと後悔しただろう。


 実際のところ、あの男はずっと後悔していたに違いない。ただ、それがいつからか、何に対してか、わからなかっただけなのだ。


 我知らずため息をつくミカを、サナンはじっと眺めている、やがて小さく首を傾げると、ほんとうに、と訊いたので、ミカは我に返った。


「うん? 何が」


「ほんとうに、みたい?」


「え、何、この薔薇を? そりゃ、見られるもんなら見てみたいけど、でも、無理なもんは無理だろ」


 しかし、サナンは不思議な表情を彼に向けると、燃え枯れた木に向き直る。


 その骨ばった小さな手が、焦げた枝に触れた。まだ棘が残っているのにも構わず、その手を撫でるように滑らせると株下にしゃがみ込んで、そのままじっとそこに手を当てている。ミカは目を瞬いた。一体何をしているのか。


 だが、彼がそれを尋ねる前に、答えが出現した。


 最初、それは完全な幻のように思えた。月光の下、すべてがぼんやりとしか見えない中で、サナンの手が置かれた辺りに、何か白っぽいものが見えた気がしたのだ。


 光の角度で、何かが白く反射しているのかもしれないと思ったが、しかしわずか数呼吸の間に、それははっきりと姿を現した。サナンの指の間から、何かが上へと伸びていく。白ではない、瑞々しい緑だ――命の力に満ちた、真新しい一本の枝。


 身をよじるように、微かに前後左右に揺れながら、枝はするすると伸びていく。やがて、立ち上がったサナンと同じくらいの高さまでくると、枝は伸びるのを止めた。先端にしずく形のつぼみをつけると、見る間にそれを膨らませていく。唖然とするミカの前で、まるで固い結び目が解けるように、内側からふわりと花弁がこぼれ出す。


 見たこともない花だった。色は汚れない純白、おそらくは日の下でも輝くばかりだろうが、月光の冴えた光の下で見るその色は、燐光をまとっているようだ。大ぶりの花、幾重にも重なる花弁はそれぞれわずかに反り返っていて、華やかさと同時に端正な気品を生み出していた。


 こんな花は、これまでに見たことがない。およそこの地上に存在したことがない、全く新しい何か。


 だが、その新奇な美しさを堪能するどころではない。ミカはまじまじとサナンを見つめる。


「おまえ……」


 焼け焦げた木が蘇り、自然にはあり得ない速度で成長して花を咲かせる。サナンが手を触れたところから――サナンがその手を触れたから。


「おまえが……やったのか?」


 あり得ない。どれだけサナンが植物の育成に才を持っていたとしても、こんなことができるはずはない。これではまるで、本物の奇蹟ではないか。人間にそんなことはできない。


 人の身で奇蹟を起こせるのは『聖女』だけだ。生まれつき、人知を超えた能力を持つ女たち。いにしえより稀に現れるその存在は、神の恵みであると同時に、常に人々の争いの種ともなってきた。彼女たちを見つけ出し保護するのは、教会の任務の一つである。


 彼女たちの多くは幼い頃から尋常ならざる能力を示すため、必ず人に知れるところとなり、教会はほとんどすべての聖女の存在を把握しているということになっている。だが……。


 ミカは改めて、目の前の子供を見やった。背が低く、骨ばかりで痩せっぽち。十一、二くらいの少年に見える――が、この年頃の少年の体格としては、いくらか華奢すぎはしないだろうか。粗雑なやり方で短く切られた髪の下にある、丸みを帯びた顔――常には感情を表すことの少ないその顔には、今はいくらか不満そうな気配が窺える。おそらくは、せっかく咲いた花に、彼がさして注目していないせいだろう。


 だがそれと知りつつ、ミカはその顔から目が離せなかった。日に焼けてすすけた頬の輪郭は、しかし汚れを拭って少し手をかければ、柔らかな若々しいものへと変わるだろう。少し突き出した唇の膨らみ、おとがいから首筋へ至る、優美ですっきりした線。


 孫として育てていたはずの子供に名前すら付けなかった偏屈な農夫は、しかし生み出した薔薇には特別な名を付けた。それは秘密の名前、決して世に明かされることのない――薔薇に託した、愛する者の秘密。


 ――『花の聖女』


「ああ……」


 ため息と同時に、力が抜ける。ミカはその場に膝から崩れ落ちた。両手をついて、がっくりと項垂うなだれる。


「マジか……そういう……。でも、こんなの……えーもう、マジで? あー……」


「だいじょうぶ?」


 サナンが側に寄ってきて、しゃがんで彼を覗き込む。ミカはがばっと顔を上げると、反射的に『彼女』を引っ掴んだ。


「大丈夫じゃねえわ! おまえな、なんでもっと早く言わねえんだよ!」


 言いながらも、しかしもちろん理由はわかっている。誰がこんなことを、おいそれと他人に言いふらすものか。もしミカが同じ立場でも、絶対に言いはしない。きっぱりと口をつぐんで、何も知らないふりをするだろう。


 そしておそらく、それこそ農夫ロリックが、サナンに教えたやり方なのだ。口を利かず、何もわからない顔をして、誰からも軽んじられ、誰からも忘れられているように。それだけが、彼とサナンがともにこの場所に留まれる方法だったから。


 だから、サナンが真実を語らなかったのは当然のことだ。そもそも、ミカは人の口から真実が語られることを期待していい立場ではない。『奇蹟』の正体を、それがいかなる詐術さじゅつであるかも含めて見極めることが、彼の任務であったのだから。


 ――そーですよ! 俺が間抜けだったんだよ! 畜生、こんなことが……。


「ミカ」


 目の前で、襟首えりくびを掴まれたままの少女が、居心地悪そうに身動ぎする――一旦いったん、そう思ってみれば、タネの割れただまし絵のように、その姿はもう少年には見えなかった。小さくて痩せこけて薄汚れた、けれど確かに少女だ。


 リドワース修道院の『奇蹟』の秘密。だが、それが暴かれた以上、サナンはここに留まれない――もちろん、サナンはそれをわかっているはずだ。わかっているから、今、ミカに真実を見せたのだ。彼女にも、既にここに留まる理由はないのだから。


 ミカは相手から手を放すと、深々とため息をついた。どうやらまだまだ、仕事はいくらでも残っているらしい。


 視界の端で、月光に照らされた白い花が、燐光を振りまくようにふわふわと揺れていた。







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