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62. 過ギニシ薔薇ハ

 それからの数刻は、混乱と恐慌の中に過ぎた。


 火は、幸運なことに大過なく消し止めることができた。こうした大きな聖堂は見た目こそ石造りだが、内部には構造を支えるために木材が使われているものだ。あれほど広く外壁を舐めた炎が、その隙間に入り込むまでに至らなかったのは運が良かった。


 だが炎が消えたとき、その場にいた者の胸中にあったのは、安堵とは程遠かった。リドワース修道院の名声の源であった『奇蹟の薔薇』は焼け落ちた。そしてその株下に、黒々と焦げて原型を留めない肉塊が残った――ほんの数刻前まで、何十年もの間、人の姿でこの場を闊歩していた肉体の残骸。


 油をかけて炎に巻かれた程度では、人間の体は消し炭にはならない。無残な生々しさが、漂う悪臭と相まって、修道士の中には眩暈を起こしたり、耐えきれず吐いたりする者もあった。


 いくらか胆力のある者に声をかけ、遺骸を白布でくるんで、急遽きゅうきょ用意された棺に納める間、しかしミカはじっとそれを見つめていた。決して快い眺めではないが、しかし今更、遺骸におののく繊細さが戻るわけでもない――司祭なんて商売をしていれば、様子のおかしな死体にはちょいちょい出くわすものだ――し、それにその無残さには、何か胸に迫るものがあった。もう、この肉の中に魂はないのだとはっきりとわかる。これはただの、肉の殻に過ぎない。古い衣服を脱ぎ捨てるように、あっさりと肉体を脱ぎ捨てて、魂はどこかへ飛んで行ってしまった。


 どこへ行ったのだろうか。――願わくばそこが、彼の望んだような場所であればいいのだけれど。


 就床の祈りが終わると、聖堂の近辺には人一人見えなくなった。いつも祈りの式を執っていたイアルト副院長が亡くなり、アルヴァン院長もロードリー伯爵に引き立てられて行き不在となった今、修道院の儀式は一時的に停止され、修道士たちは一般信徒のように、めいめいに祈りを捧げた。ある者は常と変わらず、ある者は常より深々と祈り聖句を唱える。祭壇前に安置された真新しい棺から、殊更に目を背ける者もあれば、幾人かはミカに不穏な視線をぶつける者もあった――彼らからすれば、余所者が修道院の平穏な暮らしを引っ掻き回して、ついにはこのような惨劇に至らしめたというようなものだろう。気持ちはわからなくもない。


 祈りを終えた修道士たちが皆引き上げた後、ミカもまた聖堂を出た。次の深更の祈りのために、でなくとも疲れていたから休みたい気持ちはあったが、まだ宿泊棟へ戻る気にはなれなかった。手近なところから明かりを拝借して、夜の静寂の中を歩く。


 空は晴れ、空気は冷たい。東の空に、中途半端に欠けた月が上っていて、足下に不自由しないほどに輝いている。ミカは聖堂をぐるりと回り込んで、再びあの場所へ戻った。


 月明かりの下、薔薇窓が冷たい輝きを跳ね返している。その精緻せいちな細工に傷は一つもつかなかったが、それでも月下に見る壁一面の眺めは、まるで廃墟のようだった。白々とした石壁には、黒い焦げ跡がくっきりと浮かび上がって見える。


 かつて壁の下一面に緑の枝葉を伸ばしていた薔薇の木も、黒く焼けて見る影もない。無残に断ち切られた枝は炭となっている。斧を免れた数本の枝が、壁を這ったままの姿で焼けているのが、まるで断末魔のように見える。


 凄惨な眺め――だが、既に終わったことだ。


 月の光に照らされたその光景は色を失い、空虚な静寂に満ちている。ミカはその場に立ち尽くし、じっとそれを眺めた。見つめれば見つめるほどに、その荒廃は作り物めいて見えてくる。昼間の悲嘆も恐慌も絶望も、何もかも遠ざかり、ただ静けさがあるばかりだ。


 ――別に……何かできたはずだなんて思わねえけど。


 何ができたはずもない。ミカが何かをしたわけでも、何かを仕向けたわけでもない。イアルト副院長は自分で選んだのだ。修道の道を極め、そのための秩序ある暮らしを渇望し、そのためにはどんなことでもしようと決めたのだ――強いて言うなら、アルヴァンがユールを使って兄を殺そうなどという計画を立てなければ、あるいはそれを知ることがなければ、それを利用して院長を退しりぞけようなどという考えは思い浮かばなかったかもしれない。だかそれも、彼が選んだことだ。


 そのよこしまな計画に適当な生贄いけにえとして、殺されるような目に遭わされたミカとしては、もちろん腹を立てている。だから人前で彼のしたことを暴いたし、面と向かって責めたのだ。当然だ、彼の命はそんなことに使われるためにあるのではないからだ。他の全ての命を同じように。


 腹を立てていた、恨んでいたと言ってもいいかもしれない――でも、こんな結末を望んでいたわけでもない。


 ――何で、もう一度やってみないんだよ、馬鹿。


 それが絶望というものだ。イアルト副院長は、もうこの先の未来は必要ないと思ったのだろう。信仰の場は堕落し、それを回復する術はない。ミカを殺してしまった時点で――たとえ、実際には死んでいなくても――それを企図した魂には、拭い去れない汚れが染みついたのだ。汚れた魂など要らなかった。それを染み一つなく保てないのなら、もう生きている意味などないと。


 だが、そう思っていた瞬間、確かに彼は生きていたのに。命こそ、この世で最もありふれた、けれど永遠の奇蹟ではないか。人は誰でも望みもせずに生まれてきて、時が来れば否応なく死んでいく。ならば、生きている間は、その命を許されているということなのだ。何を仕出かしても、たとえそれが取り返しのつかないことであったとしても、命があるならその先の運命があったはずなのに。


 まして、ミカは結局死んでいないのだ。取り返しのつかないことなど一つもなかった……。


 ――そういや、その件も訊かなかった。


 あの雨の夜、ユールに胸を一突きにされて死にかけたミカを救ったのはイアルト副院長だったはずだ。それほど強力な治癒の祈りを使えそうな人間は、この修道院には他にいないからだ。


 だが一体、どうして一旦は死んでもらうと決めたはずのミカを救ったのか。そうして命を助けておきながら、どうしてあの場に放置していったのか。


 サナンは、彼を見つけて拾う前に誰かが立ち去った気配があったと言った。理屈で考えれば、それは副院長だったはずだが、どういうつもりであの場にいて、どういうつもりで彼を助け、去ったのか……。


 ふと物音がして、ミカは我に返った。剥き出しの地面を踏みしめる、微かな足音。


 はっと振り返ると、木々の影から月明かりの下に、小さな影が出てきた。明かりは持っていないが、冴えた月の輝きに照らされて、その見慣れた姿ははっきりとわかる。


「サナン」


 ロードリー伯爵とアルティラ王女の、早急にして厳戒態勢の結婚式に際して、普段修道院で働いている者たちはすべて今日一日暇を出され、敷地から締め出されていた。日頃は朝から晩まで土にまみれて働いているはずのこの子供が、アルティラ王女の滞在先にやってきてミカの側に座っていたのは、そういうわけだ。ああしまった、とミカは思った。この子のことを忘れていた。


 名を呼ばれても、サナンは応えなかった。聖堂の壁に歩み寄ると、まじまじと見上げる。炎で焦がされた壁面を――そして、ほとんど炭のように見える『奇蹟の薔薇』の変わり果てた姿を。


 子供の手が、今も残る枝に触れる。ミカは思わず言った。


「悪かったな、こんな風にしちまって。俺がしたわけじゃねえけど、止められなかった――おまえが植えて育てた薔薇だったのにな」


 サナンがくるりと振り返る。何か言いかけるようだったが、ミカは敢えてそれを遮る。


「こう言っちゃなんだけど、もういいだろう。『奇蹟の薔薇』は焼け落ちた。もう誰も、おまえを責めたり文句言ったりしねえよ。俺も、単純に興味があるから訊くんだけど、一体何でここに薔薇なんか植えたんだ?」


 あの薔薇が自生のものでないことは、すぐにわかった。大陸の西北、聖都スハイラスの周辺からここベルリアに至るまでの範囲の植生に、ああいう姿の野茨はないのだ。それこそ『奇蹟』的に変異種が現れるにしても、そもそも種子をつけるはずの茨の茂みがこの周囲にない。彼が把握した範囲で、最も近くにある薔薇は、サナンの薬草園で薬用に育てられている小花のものか――森の中の川辺で見た、あのたくさんの苗木だけだ。


 あの苗木を見たときに、ミカは『奇蹟の薔薇』の出所を確信した。あれこそまさに、その魔性の美しさと芳香のために教会が持ち出しを禁じた『薔薇』そのものだ。


 サナンが修道院でそれを育てている分には罪ではない。だが、なのに何故、修道士たちの目を盗むようにひっそりとここへ植えたのか。あの苗木にしてもそうだ、修道院の果樹園に植えるというなら、どうしてあんな人目につかない場所に隠していたのか。


 しばらくの間、サナンは黙りこくっていた。内心の窺えない無表情で、視線を地面に落としている。


 都合の悪いことは素早く察知し、口を利かずにやり過ごす少年の処世術を思い出し、ミカは肩を竦めて視線を逸らした。本当に、問い詰めるつもりではないのだ。いずれにせよ、もう終わってしまったことだ。教皇庁への報告書には、焼失と書く以外にないのだし……。


「――じいさんが」


 突然、サナンが口を開いた。








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