61. 婚姻の秘蹟
「何ということだ!」
人々を恐慌状態から引き戻したのは、その無遠慮な喚き声だった。ミカもはっと我に返る。叫びこそしなかったが、彼にしても、呆然自失だったのは確かだ――たった今まで目の前で口を利いていた人間が、次の瞬間に火だるまの肉塊に変わったのだ。
しかし怒鳴り声の主は、彼よりはるかに神経が太いか、あるいはどうかしているらしい。衝撃に立ち尽くす修道士たちの群れを邪魔とばかりに押しのけて、現れたのはロードリー伯爵ゼオンであった。
「何ということを仕出かしたのか。神の奇蹟に何ということを! この罰当たりが、消し炭になったくらいで償えるものか!」
とはいえ、伯爵が決して平静を保っているというわけではないらしい。青ざめた人々の中にあって、はっきりと目立つほどに顔を赤くして、どうやら怒り狂っているようだ。
「おのれ、長く我が修道院の恩を被っておきながら、恥知らずにも仇を返すか。私の顔に泥を塗るとは。死にたいのなら、ひっそり首でも縊ればよかったのだ!」
おい、と下僕でも呼びつけるように言って、伯爵は、不運にも手近にいた修道士を小突いた。小さく震えている相手に、顎をしゃくって吐き捨てる。
「とっととそれを片付けろ。こんなことをしている暇はないのだ。我々はまだ仕事の途中だぞ」
周囲から、殺気にも似た非難の視線が向けられても、伯爵の尊大さには陰りもない。ミカは思わず呟いた。
「仕事?」
「そうだ。何のために、我らがこんなところにいると思っているのだ。婚姻の秘蹟を受けるためだ」
――今それ言う!?
ミカはまじまじと相手を見返したが、しかしロードリー伯爵の立場としてはわからなくもない。彼としては、弟の不品行だの、その陰謀の成功だの失敗だのは、全くどうでもいいことだ。
何よりも大事なことは、アルティラ王女を、ひいては王家の権威を手に入れることである。この騒動で式がうやむやになって、そのうち立ち消えでもしたなら、それこそが大問題なのだ。婚姻の事実だけは、何としても確かにしておきたいのだ。
長いドレスが仇となりいくらか遅れながらも、この場に駆けつけていたアルティラは、数瞬後の未来の夫に射るような非難の目を向ける。何か、人倫や良識といったことに関連した悪態をつきたそうな顔をしていたが、賢明にもそれは諦めて、冷たい声音で別のことを言った。
「そんなこと、もうできるわけがない。見ればわかるでしょう。イアルト副院長は……お亡くなりになった。式は続けられない、私たちに秘蹟を授けてくれる人はいないわ」
結婚は、人間の人生において、神と直接の繋がりを持つ行為とされるものの一つである。赤の他人同士の二つの命、二つの魂を互いに結わえ、絡ませるのは神の聖なる御業であり、その力と恩寵を必要とするのだ。
そしてそれを与えられるのは、地上における神の代理人である教皇、そしてその名において叙階された者のみである。イアルト副院長は、リドワース修道院内でただ一人の修道司祭であった。彼の他に、式を執る資格のある者はいない。
「いいや、いるとも」
だが、伯爵はそれで諦めるような男ではない。再びその視線がこちらへ向けられたとき、ミカには即座にその意図がわかった。反射的に逃げ出したくなる――絶対嫌だ、巻き込まれるのはごめんだ、勘弁してくれ!
「パトレス・ミカ。今、あなたがここにおられるのも、神の奇蹟に相違ない。あなたは教皇庁の司祭だ、資格がある。我らに秘蹟を授けてくれ」
――奇蹟って、そんなしょーもねえ奇蹟があるか! おまえに都合がいいだけじゃねえか! あ、でも、俺はここに、修道院の奇蹟を調べにきたわけだから……奇蹟っちゃ奇蹟なのか? どうなんだ?
ただ一つ、はっきりしていることがある。『奇蹟』など、もううんざりだ――誰かを絶望させ、心を捻じ曲げ、破滅させるような『奇蹟』など。
「――いいでしょう!」
周囲の視線が一斉に向けられるのを感じながら、ミカはきっぱりと言った。
「もう、形などはどうでもいいですね。よろしい、手短に行きましょう。ユール!」
「は、はい!」
辺りを見回して名を呼ぶと、我に返ったような返事があった。
どうやら後れを取ることなくついて来ていたらしいユールは、ミカのすぐ後ろで、やはり呆然としていた。短い間とはいえ、親しく知っていた人間のあまりにも凄惨な死に、まだ意識を奪われている様子だったが、次のミカの問いかけにははっとしたようだ。
「ユール・レクシア。ベルリア王家に仕える騎士よ。汝この先、天が落ち地が割れる永劫の果てに至るまで、その魂、その生涯をアルティラ王女に捧げると誓えるか」
「もちろんです。永遠に――我が姫に」
答えは間髪入れずに返ってきた。その早さからして、おそらくユールは反射的に、思ったままを言っただけだ。その結果がどうなるかはわかっていないだろうが、まあそれで問題はない。
上等だ、と呟いて、ミカは彼の腕を掴み、アルティラ王女の前まで引きずっていく。
王女は、もう少し察しが良かった。近づいてくる彼らに目を丸くすると、ためらい顔で後じさる。
「アルティラ……何だったっけ、そうだ、アルティラ・オルバ・ベルリア。汝は……」
「待って、私は……」
「ああもういいや、大体誓うな」
「大体って!?」
何か言いかける王女に耳を貸さず、ミカは彼女の手を取った。急いでいるのだ。二人の手を雑に重ね合わせると、それを自分の両手で挟み込んで、素早く唱える。
「ここに、我らが大いなる主スワドの祝福を注がれし二つの魂が、永遠に結ばれた。新たなる魂の行く末に、恵み深き主の導きのあらんことを」
一瞬、辺りは静まり返った。伝統的な結婚の文句には相応しくない、息を呑む沈黙――婚姻は成された。秘蹟は授けられたのだ。
「ふざけるな!」
最初に吠えたのはロードリー伯爵だ。今にも掴みかからんばかりの剣幕で、ミカに近付く。
「誰がこんな真似をしろと言った! とっととやり直せ」
「もののわからないことを仰いますね、伯爵閣下。神の誓いに、やり直しなどあり得ませんよ」
白々とミカは答えた。一度成立した結婚は破棄できない。それを行った司祭にも、無効にはできない。スワドの神を信仰する場所では、離婚はできないのだ。……まあ、それでは実生活上いろいろ困る向きもあって、絶対に不可能というわけでもないのだが、基本的にはできないことになっている。
「勝手な真似を!」
「これは心外な。私に婚姻の秘蹟を授けよと言ったのはあなたです。そして私は、己の良心に基づいてそれを行った」
「良心だと!」
「結婚は、愛し愛される者だけがこれを行う。人の世の都合や思惑などでこれを歪めることは、神の法に反する行いであり、司祭として私に許されることではない」
視界の隅で、手を取り合った二人が顔を見合わせているのが見えた。どちらもことの成り行きに当惑している様子だったが、『愛し愛される』という言葉を聞くと、それぞれに顔を赤らめた。それでもやはり世の事情が気になるのだろう、アルティラはいささか浮かない表情だったが、ユールと目が合うと、ためらいがちに微笑みを見せる。あまりにも初々しい、見る者の心を溶かすような光景。
「一体、どういうつもりだ」
だというのに、彼の目前にいるのはこの、野心破れて怒り狂った中年のロードリー伯爵というのは、全く腑に落ちない。ミカはため息をついた。この世は不公平だ、神は依怙贔屓のくそったれだ。そういうものだ。
でも、その中で、幸福を掴むことができないわけでもない。
「愛というものは、それ自体が奇蹟のようなものです。どこに向けようとか、誰を愛そうとか、決められるものではない。どういうつもりも何もありません。それを受け入れる以外に、方策はないではありませんか」
「自分が何をしたかわかっているのか。おまえはこのベルリアの運命に、責任が取れるのか」
「不服がおありでしたら、教皇庁の方へどうぞ。福音教会は常に皆様のご意見を傾聴しますよ」
言いながらにっこり笑うと、ロードリー伯爵の表情はいよいよ険悪になった。人を射殺そうとしてでもいるかのような、憎しみに満ちた視線で彼を睨む。
「――減らず口を後悔させてくれるぞ、若造が」
「機会があれば。ですが差し当たって、今はそのときではないようです」
どよめきとともに、騒々しい音が近づいてくる。先刻の叫びに応じて水を汲みに行った数名が、戻ってきたのだ。既に燃えるものを呑みつくし、炎はだいぶ勢いを減じていたが、それでも十分に衝撃的な眺めに息を呑む。先頭を戻ってきた修道士が、呻き声を上げて足を止める。
その腕から水桶が落ちる前に、ミカは急いでそれを掴む。炎に向かって中身をぶちまけると、慄く者たちに向かって叫んだ。
「火を消すんだ! 聖堂の壁の内部に燃え移ると、もっと大変なことになるぞ。あるだけの水桶を出してこい。そこに並んで、全員で運ぶんだ。ほら、ぼうっと立ってんなよ、やるんだよ――早く!」




