58. 神の摂理
人々の視線が一斉に向けられても、その細身で長身の威厳のある姿は、まるで揺るぎもしなかった。静かな黒い瞳が、じっとミカを見据えている。
「あなたが、あの夜、私を施療所に呼び寄せた。わざとそうしたのでしょう。事前に偽の書付で呼び出したユールが潜んでいる場所に、私をおびき出して殺すために」
彼の声が聖堂に響いて、他には物音一つしない。今や空気はこれ以上なく張りつめて、衣擦れの音すらしなかった。ほんのわずかな物音でさえ、何か致命的な過ちになるのではないかと、誰もが怯えているように。
やがて、祭壇に立つイアルト副院長がはじめて口を開いた。よく通る、しかし平板な、感情の窺えない声で。
「確かに、私があなたをお呼びするように言ったのだ。その方が、病人のためだと思ったから。そう、あの夜、私は施療所にいて、あなたが来るであろうことを知っていた。他の二人の修道士と同じく」
「ユールに書付を残した者は、フィドレス・ジルトとフィドレス・ヘルマーの知らないはずのことを知っていました。あの外套――書付には、狙うべき相手は修道院の客用の外套を着て通ると書かれていた。私があの外套を借りたのは、その日の夕方です。僧房から宿泊棟へ戻るのに、あまりに雨が強くなって困っていたら、親切な修道士が貸してくれた。うっかりお名前を訊くのを忘れましたが、確か、そう……あなただ。それに隣の彼」
修道士たちの列を眺めて、ミカは見覚えのある顔を探し出した。背は低いががっしりとした体格の中年の男と、更に少し年嵩の猫背気味の男は、突然の指名にぎょっとして顔を引きつらせたが、やがて猫背の男が恐る恐る口を開いた。
「私はアロンです。こちらはフィドレス・オラールで……。ええ、確かにあの日、あなたに外套をお貸ししたのは私たちです」
「そのことを、他の誰かに言いましたか」
「そんな、誰に何のためにそんな話をするんです? あの後、すぐに忘れてしまいましたよ。ちょうど、前を歩いている人が落とした何かを拾ってあげたくらいのものです。いちいち記憶に残りはしません」
「ですが、あの外套は修道院の備品です。誰かに渡して、収納位置にないのなら、その旨記録しなければならないはずだ」
「ああ、それは、そうです……備品の使用記録に書いたと思います」
「その記録は、誰が管理しているのですか」
「管理というか……日中は、誰でも書き込めるように出入り口付近の台に置いてあります。日没の祈りの後に、週替わりで担当する日誌の記入当番の者が、日誌とともに回収して、サインをもらうことになっています。備品の管理者と……その……副院長に」
再び、人々の視線が祭壇へと集中する。しかしやはり、イアルト副院長は顔色一つ変えなかった。
「備品の使用記録は、誰でも見ることができた。あなたが外套を持ち出したことが記録され、帳面が私の手元に来る間の時間に、誰が何人それを目にしたのか、正確に示すことはできない」
不思議なことに、その声音には言い訳がましい響きは少しもなかった。抗弁するようでも、他人に潔白を印象付けようとする風でもない。どころか、先を促すようにさえ聞こえる。教師が、できの悪い教え子の学習発表に、辛抱強く耳を傾けるように。
ミカはきつく相手を睨んだ。そんな指摘だけで、逃げられると思うのか。
「そもそものきっかけも、あなたの仕業だ。私を夜中に施療所に呼び出すためには、それなりの理由が必要だから。――エーリン」
祭壇から、信徒席へと振り向く。元々最低限の人数だけで、早急に挙げられようとしていた結婚式に、参列者と言うべき人間はほとんどいない。がらんとした空席の中、王女の信頼厚い侍女は前列の端にひっそりと座っていたが、突然ミカに名前を呼ばれると、動転したように立ち上がった。
「は、はい」
「エーリン、前に話してくれたことを、もう一度確認させてください。あなたがこの修道院の施療所で過ごしている間、主にあなたを看ていたのはフィドレス・ジルトだと言いましたね。食事もずっと彼が持ってきたと」
「そ、そうです」
「それが、あの晩だけ違った。三日前の晩、あなたが施療所を去る前の最後の夜、あなたに夕食を持ってきたのは別の人間だったと。あなたはその人を知らなかったと言ったが――今、見てください。それはこのイアルト副院長ではなかったですか」
エーリンは怯えた顔つきで、わずかに震えたようだ。一瞬、ミカは彼女が口を閉ざして黙り込むか、あるいは恐ろしさから事実を否定するかもしれないと思った。彼女は馬鹿ではない、自分の言葉が何を証立ててしまうかわかっている。他人の罪を暴き立てるのは、誰だって恐ろしい。
だが、ミカの危惧をよそに、エーリンは顔を上げたままでいた。怯えた様子はそのままに、けれどまっすぐに祭壇を見つめる。やがて震えを隠せない、しかしはっきりとした口調で答えた。
「そうです、間違いありません――あの方です」
たったそれだけの言葉が、一体彼女にどれほどの勇気を要求しただろうか。ミカが感謝に視線を向けると、エーリンは顔を赤くして、疲れ果てたように再び信徒席に座り込んでしまった。
「この夕食と相前後して、施療所の薬品棚から、一種類消えた薬草があります」
エーリンの後を引き取って、ミカは話を続ける。
「ヒッグリーという薬草です。そう頻繁に使われるものではないはずですが、まとまった量が消えた形跡がある。それも、瓶の周りに粉が落ちるような雑なやり方で取っていった。これは今もそうなっているはずですから、疑いのある方は確認していただいて構いません」
この辺りは若干ハッタリだ。しかし、サナンはもちろん手を触れるようなことはしていないだろう。ここの修道士たちの評価とは逆に、あんなに分別のある子供はいない。あの少年がここにいればよかったが……しかし連れてきたところで、これほどの人間の前では決して口は開かないに違いない。
「薬匙で取って、計って使うという、正規のやり方をしていないということです。ヒッグリーは催吐剤で、何かおかしなものを飲み込んだときなどに使います。かなり気分が悪くなりますが、よほどのことがない限り、命にかかわるということはありません。摂取しすぎれば吐くだけです――多少雑に盛ったところで、死ぬことはない。あのとき、私が聞いたエーリン嬢の症状は、この中毒症状と一致します。副院長、もちろんあなたには薬草の知識がおありになるはずだ。司祭の位階に必須の知識ですから」
「…………」
「イアルト副院長、あなたはユールに書付を書いた――外套のことが書かれているから、時間は日没の祈りの後、あなたが日誌とともに備品の使用記録に目を通してからのはずです。それを誰にも見られないようユールの寝台に残して、今度は施療所へ向かった。その時分には既に、施療所の日中の業務は終わって、人気も少なかったでしょうから、薬品棚に手を伸ばすのも簡単だった。口実を設けて、エーリン嬢に食事を運び、その折に薬草を混ぜて彼女に食べさせた。あとは、適当な機会を見計らうだけです。彼女の具合が悪くなってから、何食わぬ顔をして、私を呼ぶように言った。あとは見事に計画通り、あなたはあの雨の中でずぶ濡れになることも、危険を冒す必要もなく、優雅に目的を達成した。アルヴァン院長が仕掛けたロードリー伯爵に対する罠を利用して、私を殺した」
修道士たちが、微かな呻きを漏らした。だがその響きは、アルヴァン院長のときとはまるで違う。驚きに、いくらかの下世話な好奇心が見え隠れするどよめきではなく、それは真正の嘆声だ。彼らにとって、これこそがまさに天が落ちるということなのだ。彼らはアルヴァンの不品行とは無関係に生きていけるが、副院長はそうではない。押し付けられた者ではない、彼らの上長、彼らのうちの一人、そしてこの修道院の、天を支える真の柱。
「私が死んで、ユールが実行犯として見つかっても、あなたには関係のないことです。むしろ、そうする計画だったのでしょう。私がはっきり死んでいれば、今ここでこうしてその罪を明らかにしていたのは、私ではなくあなただったはずだ。修道院長が、修道士のうちに暗殺者を紛れ込ませて教皇特使を殺害したとなれば、これは大変な醜聞です。いかにロードリー伯爵家の威光があっても庇いきれない。彼が院長の座を退いたら――次はあなたにその地位が回ってくる公算が非常に高い」
再びどこからか湧き上がる聞き取れない囁きから判断して、それを嫌がっている者はほとんどいないらしい。それで何が悪い、そうなった方がよほどましだ、と言いたいようだ。アルヴァンのやり方、振る舞いは、多くの修道士に慕われてはいなかった。
「ただ、それほどうまくはいきませんよ。教皇聖下の御名をお預かりしている間、私の身は単に私のものではなく、教会そのものです。地上における神の代理人たる教皇聖下のご意志を伝える執行機関です。その私が、もしあなたの計画通り死んでいれば、それはただの、教皇庁所属の一介の司祭が死ぬのとはまるで話が変わってくる。修道院長を誰に任せるかなど問題にならない。修道院の存続そのものを、教皇庁は疑問視するでしょう」
教皇庁の権威を背負うミカを、何らかの形で利用しようとしたのは理解できる。リドワース修道院は、ロードリー伯爵家の私設修道院であり、常にその影響下にあり続けてきた。この力を退けようとするなら、より強い権威を求める必要がある。
ただそのやり方が、こんなことではまずい。確かに教皇庁は本気で介入せざるを得なくなるだろうが、流血と陰謀は結局、教皇庁の権威にさえ傷をつけるだけなのだ。
「私がここで死んだとして、どうして教皇庁がこの修道院のために動くと思いますか。アルヴァン院長を廃しても、修道院ごと潰されるだけだ」
今度の囁き声は、なおも悲嘆と恐れに満ちていた。修道士たちは、その修道院を終の棲家と定めて門をくぐってくるものだ。長く俗世を離れ、祈りと修養のことしか知らず、ここより他に行き場のない者たちにとって、それはほとんど人生の終わりのように感じられるだろう――やはり長く修道士として生きてきたイアルト副院長が、それを知らずにいるわけがないのに。
祭壇に立つイアルト副院長は、深く瞑目していた。不安げな囁きが辺りに満ちても、その顔に変化はない。まるで祈りでも捧げているかのように、そこには静謐な空気がある。
一方で、辺りは次第に騒がしくなる。修道士たちの不安と不満の声はますます高まる。多くがミカを睨みつけていたが、祭壇へ強張った顔を向ける者もある。
ユールは半ば呆然としたまま副院長を見つめ、その様子をちらりと見たアルティラ王女は、美しい眉をしかめてやはり祭壇を睨む。ロードリー伯は、今や血を流してぐったりしている弟のことはすっかり眼中にない様子で、苛立ちを隠しもせずに辺りを見回した。その苛立ちがミカの告発した内容そのものにか、既にこの場の主導権が他へ移ったことに対してかはわからないが。しかし、伯爵が息を吸い込んで怒鳴りはじめるよりわずかに早く、祭壇の副院長は再び目を開けた。
「――そうであるならば、そうあらしめるべし」
それは決して大きな声ではない、むしろ静かな、落ち着いた声であったのに、辺りは途端に静まり返った。朗々と響く深い声――長く聖句を唱えてきて、滑らかに磨かれてきた声音。
「潰れるのなら、潰れればいい。そうだとも――それこそが、神の摂理だ」




