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46. 敵地

 一人残されて、ミカは大きく息をついた。両肘を卓について、頭を預ける。サナンにせっつかれて、少し食べ物を腹に入れたのは正解のようではあったが、それでも全身がだるくて仕方がない。


 大きさの合わない農夫の服の襟元から、左胸の傷が見える。既に流血を思わせるような特徴はどこにもなく、微かに盛り上がった肉と、周囲とは違う肌の色が残るばかりだ。まったく痛くもかゆくもない。誰が見ても、ミカ自身が見ても、随分と古い、今は完全にふさがった傷痕だと思うだけだ。


 だが確かに、これは昨夜までは存在しなかった傷なのだ。ほんの数刻前の傷、それも刃の痕跡から見て、心臓を瞬時に貫いたとは言わないまでも、十分に致命的だったはずだ。それが、一晩明けたらこんな具合になっているとしたら、理由は一つしか考えられない。


 ――治癒の祈り。


 それも相当に高度な詠唱でなければ、こんなことはできない。ミカ自身とは比べる気にすらならないとしても、こんな傷を治せる術者は、『塔』にだって何人いるかわからない。傷が深すぎて癒しきれないか、そうでなくても、詠唱が終わる前に負傷者は出血で死んでしまう。どんな祈りであろうと、一旦死んでしまったら、命を戻すことはできないのだ。


 誰にそんなことができるだろう。たとえば、位階を持つ者は、治癒の祈りを習得しているはずだ。ミカが目を通した記録では、この修道院で修道司祭の位階を持つのはイアルト副院長、下位の助祭相当に当たる者として、ヘルマー修道士――あのヘルマーも、治癒の祈りの術者としては、ミカを足下にも寄せ付けないのだ、忌々しい事実だ――、シロエ修道士、ウォラード修道士、ファレン修道士、マノ修道士と五名の記載があった。彼らはもちろん治癒の祈りを使えるだろうが、しかし実際、彼らがこの傷を扱えるほどの術者なのかはわからない。ミカ自身が体現しているように、神聖言語を知っていることと、それを行使することは全く別の問題なのだ。


 一方で、彼ら以外の人間に、治癒の祈りを行うことができないわけではない。位階は、神聖言語を習得しているという証明にはなるが、位階がなくても習得しているということももちろんある。特にここは修道院だから、すべての人間に、神の与え給うた奇蹟の言語を学ぶ機会があるわけだ。位階を得ることに興味のない修道士の中に、祈りに尋常でない才能を持つ者がいる可能性だってある。


 ――大体、そいつ、何がしたいんだよ。


 もしそういう者が見つかったとして、その目的は何なのか。ミカを殺そうと胸に刃を突き立てておきながら、次の瞬間には気を変えてその傷を癒すなんて、方向性が定まっていないにも程がある。まあ、おそらくはその影響で、今ひどく体の調子がおかしいから、嫌がらせとしては成功しているのかもしれないが……。


 ――そんな才能の無駄遣いみたいな嫌がらせあるかよ、くそったれ。


 とにかく修道院だ、とミカは思った。治癒の祈りが絡んでいる以上、修道士が関与しているのは間違いない。しかしこの先に推測を進めるためには、修道士たちについて、もっと内密な情報がどうしても必要なのだ。


 ――ユールがいれば……。


 話を聞き出すことができるかもしれない。ここへきてまだ日が浅いはずのユールだが、それでも一旦受け入れられたからには、修道士仲間の為人ひととなりや評判は知っているはずだ。寝食を共にしている間に見聞きしたこともあるだろうし、修道士たちの間で、ミカが誰にどういう理由で、殺したいほどの恨みを買っていたかも知っているかもしれない。


 本当はさっき、サナンに、ユールと連絡をつけてほしいと頼むつもりだった。だがすんでのところで取りやめたのは、結局のところ、ユールもまた修道院の人間だからだ。彼がミカに対して悪意を持っているとは思わないが、仲間の修道士を裏切ってまでミカに真実を語る理由はない。


 それでなくても、ユールは既に隠し事をしている。かつて王女の側近くに仕えた騎士、突然姿を消して、縁もゆかりもない場所で修道士となった。理由は誰にもわからない。あの善良そのものの穏やかな顔の下に、どんな秘密が隠されているのか。


「…………」


 馬鹿馬鹿しい、と、脳内で理性の声が言う。出家の理由などは、ユールの個人的な問題であり、他人に触れ回るようなものではない。それもとりわけミカにだけ隠したわけではなく、長い付き合いだという王女も聞いていないと言っていた。生きていれば、他人に言いたくないことの一つや二つはあるものだ。それがあることで、その人間の信用が傷つくわけではない。


 だが今、修道院のへいの内側に、ミカが信じられる人間はいない。誰かが彼に死んでほしがっている。胸に刃を突き立てられて、なのにそれが誰なのかもわからない。傷を癒され放り出されて、その理由もわからない。彼の命などどうとでもなるのだと嘲笑あざわらっている。


 誰も信用ならない。何も信じてはいけない。次は――多分、本当に命はない。


 すっかり塞がって何も感じないはずの胸の傷に、冷たいものが差し込まれる感触がある。ぎくりとして顔を上げ、そこではじめて、ミカは自分が震えていることに気がついた。ひどく寒くてたまらない。先刻の食事で得たと思った温かさも、もうどこにも残っていない。


 開け放された小さな窓から、まっすぐに日が差し込んでいる。いかにも暖かそうなその光を、しかし浴びに外に出たいとはもう思わない。ミカは渾身の力を振り絞って立ち上がると、窓を固く閉ざした。外は駄目だ、安全ではない。


 そのままふらふらと、奥の壁に向かう。壁板の向こう、隠された納屋。暗いところは好きではない、狭いところも……でも今は、ここだけが、身を守れる場所だと感じられる。


 寝藁の上に倒れ込んで、古い毛布の下に丸くなった。少しも暖かくならない。手足が冷たくなればなるほど、思考もまとまりなく分断されていく。何もわからない、わからないのは恐ろしい。死そのものでなく、この無慈悲な冷たさが耐えられない。


 ふと、瞼の裏に、あの子供の顔が浮かんだ。丸みを帯びた幼い顔、唇をぎゅっと引き結んで、心外だというようにこちらを見ている。そう、サナンは敵ではない。彼を殺すつもりはないだろうし――そうしたければ、機会はこれまでいくらでもあった――、修道士でないから治癒の祈りにも関係がない。少なくとも、この件に関しては信用できる。


 ――けれど、そのサナンもやはり、何かを隠しているのだ。


 河原で育てられている薔薇の苗。無数の薔薇は、つるのような枝を伸ばし、互いに絡まって伸びて空をおおっていく。太陽をさえぎった闇の世界に、咲き誇る花が崩れるように散った。ほろほろと音もなく、無数の花弁が頭上から降ってくる。


 だが、確かに見ているはずの、その花弁の色がわからないと思った瞬間、すべての光景がかき消えた。夢さえも失い、彼の意識は冷たい暗闇の中へ、否応なく転がり落ちていった。




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