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44. 再び掘立小屋

 再びあの小さな小屋に戻ったとき、ミカは疲労困憊(こんぱい)ていだった。行くときは気がつかなかったが、道には若干の傾斜があって、帰りは上りだったのだ。考えてみれば、森の中からかつての川床に行ったからには、道は下っていたに違いない。その程度の上り道で、こんなにも息が上がるのは納得いかないが。


 しかし、いくら不満に思ったとしても、それで実際の体の動きがどうにかなるわけではない。倒れ込むように小屋に入ると、ミカは家主の許しも得ずに勝手に奥の椅子に座り、そのまま卓に突っ伏した。空気が足りなくて、頭の奥が鈍く痛む。


 耳元でうるさいほどに鳴る鼓動は、しかしいくらか彼を安心させた。確かに心臓が動いている。あの銀色の刃に貫かれてしまってはいない――死んではいない。


 不意に、頭の近くでことんと音がする。顔を上げると、素焼きの深皿を卓に置いたサナンが、じっと彼を見下ろしていた。彼の惨めな有様に、いくらか哀れを誘われたのか、その顔には再び心配そうな表情が戻っている。


「…………」


「あ、ああ……ありがと」


 無言で皿をずいと押し付けられ、反射的に礼を言う。満足したのかそうでもないのか、サナンは再び音もなく離れていった。開けたままの扉から外へ出て、視界から消える。代わりに、パチパチと小さな音が耳に入ってきた。炎に薪が爆ぜる音だ。


 ミカは目の前の椀に視線を転じた。何かを口にするというのは、とてもいい考えとは思えなかったが、それでも立ち上る湯気を見ていれば心が傾く。恐る恐る手に取ると、染み入るような熱が指先に伝わる。彼の凍えた手には熱すぎる、しかしそれが不思議と安心できる。それほど心地よくはないからだ――サナンの手が、彼に触れるときのようには。


 皿の中身はスープだった。底の方に、何かの豆や正体のわからない雑穀ざっこくがいくらか沈んでいる他は何も入っていない。飲み込むのに何の苦労もなさそうな代物だが、それでもそうする気にはなれず、ミカはぼんやりとさじで中身をかき回した。


 ――もうほんと、どうなってんだか……。


 すっかり病人か何かのようだが、しかし彼自身の体感としては、何か病を得た気はしない。息が苦しかったり、どこかが特別に痛んだりすることも――少なくとも、坂道を登ったりしない限りは――ない。ただ、体がうまく動かないのだ。まるで、長いこと使っていなかったカラクリを、油も差さず突然動かそうとしたみたいに。しかも慣れない人間が動かそうとして、ちっとも思い通りにならないという感じなのだ。


 ひどく奇妙な感覚だ。動くほどに慣れてきている感じはあるので、そのうち元に戻るだろうと思えるのが救いだが、それにしても落ち着かない。


 ふと、目の前の椅子が引かれる。サナンは外から、自分の分の深皿を持って戻ってくると、当たり前のような自然な動きでそこに座った。食前の祈りを唱えるでもなく、黙々と食べはじめる。


「……って、おまえもそんなの食ってるのか? 他には?」


 思わずそう聞いてしまったのは、サナンの食事がミカの目の前にあるものとさして変わりなかったからだ。いくらかは具の形が見えるが、それだってかゆと言うにも貧相だ。大体、いくら見た目が子供でも、一人前の農夫の仕事をして、これで体が持つはずはない。


「まさか、いつもこんなもん食ってんじゃねえだろうな。馬鹿、もっと食え。そのうち体壊すぞ」


 そのせた体つきから、さして食事を与えられていないのだろうと思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。修道院の連中は、自分たちの敷地内で働いている子供がこんな有様で、何も気にならないのだろうか。彼がここを去る前に、責任者に物申しておく方がいいかもしれない。


 とはいえ、今すぐに、彼にできることはない。ミカは、自分の前の皿をサナンの方へ押しやった。


「ほら、これも食え。それだけじゃ足りねえだろ」


「いい」


 だが、即座に拒否される。サナンは考える素振りさえ見せず、皿をぐいと押し戻した。


 その断固とした拒絶に、ミカは一瞬たじろぎ、次いで少し腹を立てた。せっかく親切で言っているのに。


「何だよ。そんなこと言って、絶対腹減って倒れるぞ。いいから食え」


「いい」


「良くねえよ。ガキのくせに、食い物が要らねえとか百年早えんだよ」


 しかし何と言っても、サナンの態度は変わらない。どころか顔を上げて、まっすぐに彼を見返す。妙な眼差しでしみじみとミカを眺めると、小さく首を傾げた。


 ――つか、今ため息ついたか!? チビのくせに!


「へんなやつ」


「は!? 俺? 俺に言ってんのかよ!」


「たおれてたの、そっち。からだこわしてるのも、そっち」


 これにはさすがに、ミカもとっさに反論の言葉が出てこなかった。それは、確かにそうなのだが……でも、そういうことではなくて……。


「からだがこわれてるのに、ねてないし。あるきまわるし、なにもたべない……へんなやつ」


 向けられる眼差しに、微かに責める光が宿っているのに気づいて、ミカは今度こそ完全に口を閉ざした。数刻前、はじめてこの家で目を覚ましたときのことを思い出す。身動きもできない彼を上から覗き込んで、何だか困った顔をしていた。じっと彼を見つめて、何か起きはしないかと――あれは、ひどく心配されていたのだ。


 言い争いを諦めて、ミカは皿を手元に引き寄せた。食欲は全くないが、とにかく口をつけなければならない。


 見た目の予想を裏切らず、薄い塩味だけのスープで、味として美味なのかどうかはよくわからない。だが、それが喉を流れ下っていく感覚は、何とも言いがたい心地よさがあった。氷に湯をかけたように、体の内側に温度が戻ってくる。ずっと寒くて仕方がないと思っていたが、こんなに腹から凍えているとは知らなかった。


 気が付けば、夢中でさじを口に運んでいる。途中でふと、サナンが手を止めて、じっとこちらを見ていることに気がついた。彼と目が合うと、再び視線を落として自分の食事を続ける。しかし一瞬、その瞳が面白そうにきらりと輝いたのをミカは確かに見たと思った――ほら見ろ、という顔だ。


「…………」


 面白くない、しかし反論できない。結局、ミカも黙って食事を続けた。何はともあれ、温かくなるのはいいことだ。温かくなれば、体が動かせる。体の要求が満たされれば、それでやっと頭がまともに働きはじめるものだ。


 それほど長くもかからず、皿の中身はあらかた片付いた。サナンが、最後の一口を行儀悪く皿から口に流し込んで食事を終えたのを見て、ミカは改めて言った。


「ありがとう、助かった――昨日から、ずっと」


 その響きに感じ取るものがあったのか、サナンは皿を置いた。続きを促すように、じっと彼を見つめる。この子供に知性を感じるのはこういうときだ、とミカは密かに思った。この子は、既に準備ができている――次にミカが何を尋ねるのかわかっているのだ。


「昨日の夜、何があったのか教えてくれないか。世話になっておいて悪いけど、俺はほとんど覚えていないんだ。大体何で、俺はここにいるんだ?」





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