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43. 秘密の場所

 小道は、不思議な具合に伸びていた。灌木かんぼくの茂みを大きく迂回うかいし、一際大きなかし根本ねもとで途切れたかと思うと、もと来た道を半ば戻るような形で続いている。


 元々が、かすかな痕跡でしかないから、よほど注意していなければ、途中で見失ってしまう。よほど暇を持て余した物好きでもなければ―ーつまり、今のミカのことだが――こんなところまで足を踏み入れることはないだろう。


 ――周到だ。


 だがそれは逆に、この先には確かに何かがあるということの証でもある。三度目の角を曲がったとき、ミカには既に戻る気持ちはなかった。これは自然な行き来でできた道ではない。わざとわかりにくい経路で作られた、人為的なものだ。


 やがて、木立の向こうに光が見えた。空から降り注ぐ光だけではない、何かが地面で輝いている。ささやかな、心地よい水音が聞こえてくる――あれは水面だ。


 そこは、開けた川岸だった。森の木々が途切れ、流れに運ばれて丸くなった石と砂の地面が、むき出しになっている。かつてはそこに水が流れていたのだろうが、今や流れはだいぶ向こうへ退しりぞいて、古い河床かわどこを太陽の下に明け渡している。


 強い光に目を瞬き、ミカは空を見上げた。森が途切れ、川の上には木も生えないから、光を遮るものが何もない。薄暗い森の中からは、突然こんな場所が現れるとは想像できなかった。


 河岸にあったのは、しかし石や砂ばかりではない。


 ――何だ? これ。


 辺りには、鉢が無数に置かれていた。あまり大きくないものから――中には、壊れたカップやかめなべのようなものもある――大の男が一抱えするようなものまであって、そのどれもに何かが植えられている。川岸から少し離れた、日当たりのいい場所に集められ、太陽の下で緑の枝葉が満足そうに輝いている。


 機嫌のいい植物の緑色には、人間の本能に訴えかけるものがある。ミカはしげしげと、その雑多な植物群を眺めていたが、やがてそれらの中にあの特徴的な印を見つけて唖然とした――人間の手をすべて拒絶するかのような、鋭い棘。


 ――これ……薔薇なのか。全部?


 全部だ。どれも鋭い棘と、特徴的な複葉を持っている。まだ咲いているものはないが、大きく膨らんだ蕾がそこかしこにいくつも見える。


 もしここが修道院でなければ、これはあってはならない光景だ。薔薇の花は教会の専有で、世に出してはならないものとされる。ここは修道院だから、違法ではないが……。


 思いがけず魅せられて、ミカはそれらをじっと見つめた。多くは、木だ――枝を上に伸ばして、光を浴びようとする。だがそれも自重に耐え兼ねて地面についたり、仲間に絡まって自分を支えたりしている。中には最初からやる気がなく、鉢の縁からあふれ出して地面を這っているものもある。枝のようで枝ではない、つるのようでつるでもない。変な奴らだ……一体どのくらい種類があるのだろう。どれも全部違う種類に見える……。


「ミカ」


 突然呼ばれて、ミカは振り返った。さっき、彼自身が出てきた森の端に、小柄な姿が立っている。いつの間にか現れたサナンは、ミカの姿を見て、唇を引き結んで近づいてきた。


「サナン、どうした。忘れ物か?」


「ひる」


 何かを取りに小屋に戻ってきたのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。言われて驚き、ミカは空を仰いだ。言われてみれば、確かに太陽は中天にある。


 もうそんな時間なのか――つまり彼は、単に起き上がって歩くまでに、半日を要したわけだ。何とも無駄に時間がかかったものだ。


 しかしサナンには、別の意見があるらしい。じっと彼を睨むと、非難するように言った。


「なにしてる。じっとしろ」


「ああ、もう大丈夫だよ、何とか動ける」


「しぬ」


「えっ何、怖っ……いや、心配してくれてんのは何となくわかるけど、おまえそれ言い方ってもんが」


 あまりにも端的な警告にぎょっとする。もう少し言い方を考えてほしいと抗議しかけたが、しかしミカはそれを言い終えることはできなかった。


 サナンが手を伸ばして、彼の手に触れる。あの灼熱の感覚、すべてを焼き尽くすほどに熱くて――でもその熱に焦がれてたまらない。


 それが何なのかわからない、何も考えられないまま、無我夢中でそれを握り締める。熱さを感じれば感じるほどに、体の内側が冷たくなっていく。この手が欲しい、体の最も冷たい場所に――心臓の上に。


「…………」


 ミカははっと我に返った。容易たやすく指が回ってしまう細い手首を、力(まか)せに掴んでいる。目を見開いたサナンが、驚きの表情で見上げているのに気付いて、慌てて手を離す。


「! 悪い!」


「…………」


 サナンは気を損じたようではなかったが、やはり痛くはあったのだろう。解放された手首を、宙でぷらぷらと振っている。ミカは内心でうめいた。


 ――だから、何なんだよこれ! どういう種類の変態なんだよ俺!


 だが、どう言っても自分自身は誤魔化せない。一瞬前、確かに感じたあの衝動は、明らかに常軌を逸したものがあった。もし我に返るのが一瞬遅れていたら、彼はあのままサナンの手を自分の胸に押し当てていただろう。あの手に触れたい、触れられたい。あの手が肌の上を滑って、どこもかしこも余さず撫でてくれたなら――理由のない衝動、けれど狂おしいほどの渇望。


 一体、これは何なのか。しかし見たところ、サナンの手に何か変わったところがあるわけではなかった。指は五本、肌は年齢に見合わずざらついて、手のひらには農具が作ったマメがいくつもできている。以前のように、小さな切り傷まみれでないのはいいが、それでも『触り心地がいい』からは程遠い。紛れもなく、よく働く農夫の手なのだ。


 この前は、こんな風ではなかった――薔薇の棘で無数に傷ついた、その小さな手を癒したときには、こんな衝動は感じなかったのに。


 どうにも気まずくて、ミカは視線を逸らした。何か別のことを考えなければ。


「ああ、ええと……そうだ、サナン、あれは何だ?」


 無数の薔薇の鉢の方を示して尋ねる。途端に、サナンは真顔で彼を見返した。はじめて出会ったときと同じ、あの考えのしれない無表情で。


「ばら」


「いや、それはわかってる。何でここに、あんなにたくさんあるのかってことだよ」


「あたらしくできるぶどうばたけに、うえる。はたけのまわりにぐるっとうえる。わるいむしはみんな、ばらのほうへいくから。びょうきになるのも、ばらのほうがはやいから、いいめじるし」


 なるほど、とミカは感心した。味のいい果物は何でもそうだが、葡萄ぶどうも病気には滅法めっぽう弱い。その上、甘い果実はありとあらゆる生き物に狙われる。教会や修道院は自家製の葡萄酒を作る必要があるから、どこでもこの問題と格闘しているのだ。薔薇の生垣という案は、これまで聞いたことがないが、なかなかいい発想のように思える。教会や修道院ではない、一般の農家には使えない技ではあるが。


 だがそう思う一方で、それがすべてではないことにも気付いている。ミカはちらりと子供に目をやった。


 ――よく喋るじゃねえかよ。


 相変わらず内心を見せない無表情、しかしその態度には、どこか妙なところがあった。つまらなそうに足下に視線を落としてミカの目を避けると、足先で小石を蹴ったりしている。言葉や表情でないところに現れる、微かな兆候。


 ――何を隠してやがる。


 しかし、それを尋ねることはできない。急に目の前が暗くなる。膝に鋭い痛みが走って、ミカは自分が既に立ってはいないことに気付いた。


 ――倒れる!


 身体に力が入らない。このままでは、石だらけの地面に激突するとわかっているのに、避ける術がない。


「ミカ」


 ありがたいことに予想は外れた。倒れ掛かる彼を、サナンが小さな、けれど力強い手が、腕をつかんで支えている――薄い毛布越しにでも伝わってくる、ほとんど快楽にも近い、あの熱さ。


「…………っ!」


 たまらずその手を振り払う。得体の知れない、それはほとんど恐怖に近い。


 この手には何かがある。論理や理屈を超えた何か、凶暴な力で彼の内側に入り込んで、ささやかな理性など押し流してしまう。雪崩のように、洪水のように、人の力では抗えないもの。


 がむしゃらに立ち上がろうとして……ミカは目を瞬いた。本当に立ち上がれてしまった。視界もすっかり明るさを取り戻して、不都合はない。一瞬前の感覚は、一体何だったのかと思うほどだ。


「おお、治った……ああ、悪かった。だからさ、もう大丈夫だから」


 後半は、目を丸くしているサナンに向けて言う。突然、助けの手を乱暴に振り払われた子供は、そのままの姿勢で固まっていて、ミカは心苦しい気持ちになった。もちろん、サナンに悪いところは一つもないのだ。彼を助けようと手を差し出して、それをこんな風に拒否されたら、それは面白くないに違いない。


 やがて、サナンはゆっくりと立ち上がった。ミカの態度をどの程度不愉快に思ったのかは、表情からはわからない。ただ彼を見つめると、きっぱりと言った。


「ひる」


 まるでそれが最後通牒(つうちょう)だと言わんばかりに、背を向ける。一瞬、意図がつかめず、離れていく後ろ姿を見やったミカだが、やがて、どうやら昼食のことを言っているらしいと見当がついた。


 正直、腹は少しも減っていない。何も食べたくない……だが、サナンについていかないという選択肢は、どうやらなさそうだ。


 ――それに、訊きたいことが山ほどある。


 少し遅れて、ミカは子供の背中を追って歩き出した。振り返りもしないその背中が、微かに存在しかけていた何かが断ち切られたことを示すようで、そのことをほんの少し寂しく思った。









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