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42. 掘立小屋

 戸板を外した先も、それほど明るくはなかった。光は入ってこない、家主が留守だからか、小さな窓は閉められて、申し訳程度の簡単な留め具がかかっている。しかしとうに暗がりに慣れた目でなら、周りの様子を確かめるのはそれほど難しくない。たったこれだけの動きに息を弾ませながら、ミカは壁に寄り掛かって辺りを見回した。


 小さな小屋だ――彼がもう少し元気であったら、十歩もかからず反対側の出入り口の扉に辿り着けるだろう。扉近くに小さな火床ひどこ水桶みずおけがあり、扉を挟んで反対側には、最低限の生活用具が突っ込まれている雑多な棚があった。粗末な寝台が二つ、それぞれ手回り品を入れるための木箱が収まっている。何にでも使う小さな卓と椅子がまた二つ、家具と言えそうなものはそれで全部だ。片付いているといえば片付いているが、そもそも散らかるような物も空間もほとんどない。すべての生活が一部屋で完結する、典型的な貧しい農夫の住まいだ。


 典型的――だが、いささか奇妙でもある。ミカは、自分が出てきた納屋なやを振り返った。これがこの家の全貌だとしたら、奥にこんな空間を取っているのはだいぶ無駄ではないか。壁を取り払ってしまった方が、日々の生活のためにはいいだろうに。


 そう思って壁を眺めて、ミカはますますその違和感を強めた。小さい農具や日常遣いの道具の他に、乾燥させている最中らしい草や網や袋など、様々なものが引っかけて保管されている――そしてその奥に、更に納屋があるようには見えないのだ。


 ミカはふと、朝方耳にした騒々しい声と足音のことを思い出した。彼が奥で動けずにいるとき、足音はこの壁の前で引き返して消えたのだった。壁の向こうに空間があると、ましてそこに人がいるなど、思いもよらなかったに違いない。


 ――ってか、あれは……ヘルマーか。


 あのときは半ば朦朧もうろうとしていて気付かなかったが、今思い返せば確かにあれは、施療所の責任者ヘルマー修道士の、神経質な苛立ちの声だった。無遠慮に家の中を歩き回り、その上『若造』がどうのと文句を言っていた……あの修道士が憎々しげにそう呼ぶ相手など、心当たりは一人しかない。


 ――俺を、探してたのか?


 手が無意識に、胸の傷痕へ伸びる。どうしてヘルマーが彼を探しているのか。お互いにいい感情を抱いていないのだから、心温まる理由があるとは思えない。この傷をつけたのはあの男なのだろうか。ミカに遺恨を抱いて、あの暗闇の中に潜み、彼の心臓を一突きにした。けれど仕留めそこなったのに気付いて、今も彼を追っている……。


「…………」


 突然、視界が暗くなる。辛うじて体を支えていた足から力が抜けて、ミカは息を呑み、そこでようやく、自分が息を止めていたことに気が付いた。床に座り込み、恐怖を振り払うように何度か大きく呼吸をする。


 ――いや、そうじゃない。


 少なくとも、必ずしもそうであるとは限らない。朝が来て、修道院では彼の姿が消えていることに気付いたはずだ。ここにいる間は殊勝に、礼拝には参加することにしていたから、彼が深更しんこうの祈りに現れないだけならまだしも、続けて夜明けの祈りにまで出席しなければ、どうしたのかといぶかしがられても不思議はない。修道院中を探そうという流れになって、ヘルマーがここへ来たのだとしたら、時間的にも大体合う。彼が何も知らない、単なる捜索人員である可能性も十分にある。たとえそれが、彼が怨念を抱く殺人者である可能性を消しはしないにしてもだ。


 ――ああ、畜生。俺が何したっていうんだ!


 まさか、ヘルマー修道士の時代遅れのやり方に異議を唱えたせいで、殺されかかっているのか。いくらヘルマーが料簡りょうけんの狭い、そのくせ自惚うぬぼれの強い男だったとしても、そんなことが本当にあり得るだろうか――絶対にないとは言わないが、かなり可能性は低いだろう。あの修道士がどれほどミカを恨んだとしても、同時にミカがただの部外者であることも忘れてはいないはずだ。時が経てばいずれ去る、そうなれば、再び施療所での権威を取り戻すのは簡単だ。


 一方で、ミカを殺せばかなり困ったことになる。教皇庁の命によって派遣されてきたミカが消息を絶てば、今度は教皇庁そのものを相手にしなくてはならなくなる。個人的な恨みは晴れても、修道院は存続の危機だ。ヘルマーは頭が固いかもしれないが、この程度の道理も理解できない狂気に駆られるとも思えない。むしろ、古い教理にしがみつくことなかれ主義から見て、こんな騒動を起こすことには耐えられないだろう。


 だが、他に誰が、彼を殺したがっているだろう。教皇庁の威光を盾に彼らの修道院に踏み込んできたミカに、修道士たちが完全な好意を抱くはずはないが、それでも彼に対して、あからさまに敵意を見せる者はいなかった。ミカにしても、殊更無礼に振る舞ったつもりも、必要以上に彼らの領域を犯したつもりもない――ヘルマーには、まあ、別の意見があるかもしれないが――。


 それとも気づかないうちに、修道士たちの悪感情を掻き立てるようなことでもしたか。ユールがいれば聞き出せるかもしれない……。


 ――ユール!


 しまった、ユールのことがあったのだ。ミカは慌てて窓の方を見やったが、無益だった。窓は閉ざされて、今が何時か正確に知る助けにはならない。しかし隙間からわずかに見える光の強さは、朝よりは昼に近いように思える。朝の礼拝の時間など、とうに過ぎ去ったに違いない――アルティラ王女に頼まれて、ユールを連れて修道院の外へ向かうと約束したのに。今の今まですっかり忘れていた。


 ――怒って……るよなーそーだよなー。ああ、王族に目を付けられるようなことなんかしたくねえのに。


 待ちぼうけを食わされたであろう王女の怒りを想像して、ミカはがっくりとうなだれた。やはりあんな約束をするべきではなかったのか。今頃王女は、修道院そのものは無理でも、一般人でも入れる施療所辺りで物申しているかもしれない。


 ――そういや、あの侍女は……。


 そこまで考えて、ミカは更にまずいことを思い出した。昨晩、彼が雨の中へ出て行ったのは、あの王女の侍女のためだ。急に病状が悪化して苦しんでいるから、急いで施療所へ行くよう言われた。


 けれど、ミカは行かなかった。辿り着けなかった。彼女は無事だろうか。もし彼女に何事かあったら、ミカは二重にアルティラ王女を裏切ったことになる。彼の意志でも責任でもなかったとしても。


 ――どうなってんだ……。


 一体、何がどうなっているのか。ミカはきつく歯を食いしばった。わけがわからない状況に放り込まれていること自体は、不愉快だが耐えられなくはない。真実耐えられないのは、それをよく考えられないということだ。


 どうやら肉体と同じく、彼の頭も彼の所有から離れたがっているらしい。頭のあちこちに空白の場所があって、そこが働かないものだから、すべてをつなげることができない。昨夜から――いや、その前から――彼が経験したことには明らかにおかしな点があり、それを見さえすればいいのに、どうしても注意が定まらない。普段であればこんなことはないと自分でも思うから、ますます歯がゆくて仕方がない。


 だが、今は言っても仕方がない。できないものはできないのだ。ユールを探し出して、王女に引き合わせることはできない。侍女の様子を見て、助けてやることも――もしそれが手遅れでなかったとしてだが――できない。他人どころか、自分の体さえ支えることができない。


 ミカはため息をついて、再び壁を支えに立ち上がった。今、彼にできそうなのは、そして一番したいことは、この暗がりから抜け出すことだ。外へ行って、光の下で見てみれば、物事はいくらかはっきりする。これ以上、暗いところに座っていても、いよいよ頭がおかしくなるだけだ。


 ほんの十歩かそこらの距離なのに、反対側の扉に辿り着くまでには、無限に思える時間がかかった。ほとんど全体重をかけるようにして扉を押し開けると、瞬間、真っ白な光が視界一杯に輝いて目が眩む。


 扉が思いがけずすんなり開いて、ミカはバランスを崩して地面に倒れ込みそうになったが、すんでのところで回避した。昨夜の雨の泥濘ぬかるみ粗方あらかた乾いていたが、まだ土には多く水が残っている。


 そこは木に囲まれた森の中だった。といっても、深い森というわけではない。扉の前からは、獣道けものみちのように踏み固められただけの小道が伸び、木々の合間を縫って、その先の開けた場所に続いている。見覚えのある薬草園のさく、更に向こうには修道院の聖堂の尖塔せんとうが天を突いていた。薬草園から見たときに、こちら側には森があったが、サナンの家はその中にひっそりと建っていたらしい。向こうからは見えなかった。


 家は、わかってはいたことだが、外から見ても家と言うよりは、小屋と呼んだ方が相応しいような建物だった。どうやらこの辺りの木を切り出して建てたものらしく、家の周りには古い切り株が今も残っている。サナンが几帳面きちょうめんに管理している薬草園とは違い、ここでは草は生え放題だ。まだ寒さの残る春先のことだから、雑草の緑も大人しいものだが。


 急に震えを感じて、ミカは辺りを見回した。家から出た瞬間は、あれほどまぶしく感じた外の光は、しかし目が慣れるとそれほどでもないことがわかった。周りを背の高い木に囲まれて、この家は常に木陰に入りがちなのだ。見上げると木漏れ日がキラキラと輝いて、季節によってはそれも心地よいだろうが、しかし今は温度が足りない。


 羽織ってきた毛布を更にしっかり体に巻き付けて、ミカは日だまりを探した。とにかく寒い、どこか暖かいところに行きたい。森を出て開けた草地へ行けば日は当たるが、しかし今、修道院には近づきたくなかった。少なくとも、彼自身がどういう立場にいるかはっきりするまでは、サナン以外の人間に居場所を知られたくない。


 そう思いながら頭を巡らすと、ふと、何かが目に入った。家の裏手にも、ひっそりとした小道が見えるのだ。


 ゴミを捨てるとか屋外で使う物を置くとか、生活のためのちょっとした場所があるのかと思いきや、意外と先は長いようだ。修道院へ向かう道が獣道なら、こちらは野ネズミの道とでもいうほどのかすかな足跡、けれど雑草の中に確かに残り、森の奥へと続いている。


 興味をかれ、ミカはそちらへ足を向けた。相変わらず体は重いが、外の空気に当たったせいか、次第に力を入れる感覚が戻ってきている。もう少し動いて、この反抗的な体に、誰が主人か教えてやっても悪くはあるまい。




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