41. 隠し納屋
何かに覆いかぶさられているような感覚に、ミカは薄く目を開いた。もう疲れ切っていて、目を覚ましたくなどないのだが、それは不思議な感触で、どうしても確かめずにはいられない。
小ぶりな手のひらの感触が髪に触れ、次いでしなやかな腕が彼の頭を持ち上げている。抱きしめられると、微かな香りがした。青い草と土の匂いに混じって、甘い、頭の芯に訴えかけるような匂い……。
しかし目を開けると、見えたのは馴染みの顔だけだ。いつの間にか戻ってきていたサナンが、彼にぎゅっと抱きついている。どうやら彼の上体を起こそうとしているらしい。小柄な子供の力では、大人の男の体は扱いにくいようで、しばらく何事かごそごそしていたが、ミカが目を開けているのに気付くと、突然ぱっと飛び退いた。
「…………っ」
急に支えを失って、寝床に倒れ込む羽目になったミカは、思わず呻いた。背中が何かにぶつかる。さっきまではなかった、不快な感触。除けてほしい……しかしすぐに、それが熱を放っていることに気付く。温もりが背中から肌に沁み通って、凍えた内臓を解かすようだ。
サナンは更に、革袋を彼の腹の上に置いた。これも温かい。湯が入っているのだ。同じようなものをいくつか、足下や首筋にあてがわれると、知らず息が漏れた。温かいということがどういうことか、すっかり忘れていた。これほどに気持ちのいいことだったとは。
「ありがとう……だいぶ、いい」
それでもサナンは、少しの間、真剣な顔で彼を見下ろしていた。唇を噛んで、どこかに不備がないか探るような目をしていたが、ミカが何とか微かな笑みを浮かべると、渋々小さく頷いた。
「……だいじょうぶ?」
「ああ」
答えると、子供はまた一つ頷いた。と、突然しゃがみ込んだと思うと、手を伸ばす。雑な仕草で、彼の頭をわしゃわしゃと撫でると、ミカが何を言う間も与えず、そのまま納屋を出て行った。
――こ、子供のくせに……!
子供に子供扱いされてしまった。どうにも決まりが悪くてミカは歯噛みしたが、しかしそれさえも疲れてすぐに止めてしまう。確かに、今の彼は子供より無力なのだ。ひどく具合が悪くて、体も動かせない。
というよりも、自分の体ではないみたいだ。まるで魂だけ抜き取られて、別の体に入れられてしまったような――それも鉛か何かでできた、重くて冷たい像に。
――これ……何なんだ? 普通じゃねえぞ……。
これまで、こんなことは経験したことがない。二日酔いどころか三日酔いになるほど飲んで、吐くために起き上がるのも辛かったことは何度かあるが、そういうのとは全然違う。たちの悪い風邪を更にこじらせて、何日も高熱が続いたときも辛かったが、それもこんな変な感じはしなかった。
強いて言うなら、うっかり毒草を齧ってみたときに少し似ているところはある。急に手足が冷たくなって、震えが止まらなくなって……でも、こんな風に体が凍ったように動かないということはなかった。あのときはすぐに気持ち悪くなって吐いてしまったが、今はそれもない。吐き気がするほど、体の中が動いている感じがしない。
だが、サナンの持ってきた水袋やら何かのおかげで、少しずつ感覚が戻ってきているようだ。ミカはため息をついた。温もりを心地よく感じながら、しかし一方で、心のどこかでそれに満足できないとも感じている。
――あの手が……。
ここにあってくれたらいいのに。あの熱い、小さな手が。彼の凍える手を撫でさすって、温度をくれたあの感触。刺激の混じった甘い香りの中で、彼を抱え起こして髪に触れた。あの感触に、他のどんなものも比べものにならない。本当は、子供みたいに頭を撫でられるのだって……。
――…………!?
今、一体何を考えたか。ぎょっとして、ミカは取り留めのない思考から我に返った。とっさに全てなかったことにして忘れようとしたが、しかしそうすればするほどに、その感触はまざまざと蘇ってくる。日々の労働でざらついた皮膚の下の、思いがけない柔らかさ。あの手にもっと触れていれば……。
――だから、何なんだ!? 待ってくれ、あれはサナンだぞ。ガキなんて女でも無理なのに、男なんか絶対にあり得ん。あと、何で手? 俺そういう性癖あった? ねえよ! 何だよ!
ほとほと嫌になってきて、ミカは不満の呻きを漏らした。頭を抱えて毛布の下に潜り込みたいが、体が動かないからそれもできない。
苛立ちに耐え兼ね、がむしゃらに身をよじっていると、ガン、と何かが何かにぶつかった。突然、動きを取り戻した左手が、すぐ側の板壁に当たったのだ――先刻、サナンがずっと撫でてくれていた方の手。
「……おお」
一瞬前までのくさくさした気分は即座に吹っ飛んで、ミカは目を丸くした。動くようになった左手を目の前に持ってきて、見知らぬ物体のように眺める。
実際、それはひどくよそよそしく見えた。まだ、彼の一部と言う感じがしない……だが、確かに思い通りに動く。指を握って拳を作ることもできるし、逆に一本二本と立てることもできる。
左手だけではない。気が付けば、次第に体が温まってきている。指先や足先にチリチリと刺激を感じるのは、いい兆候だろうか。少なくとも、まだそれらはそこに存在していて、彼の命令を聞く気がありそうだ。
ミカは大きく息をついて、今度は右手に意識を集中しはじめた。両腕に力が入れば、次は体を起こせる。身体を起こせたら、その次は立ち上がって、辺りの様子を見られる。とにかく、何がどうなっているのか確かめなければ。
……彼が何とかその目標を達成したのは、もう外がすっかり明るくなってしまってからのことだった。窓のない暗い納屋の中だが、隙間風の入る板と板の間から、外の光が差し込んでくる。上体を起こして座り、ミカは改めて辺りを見回した。
その場所は、本当に狭い空間だった。彼がひとり、何とか横になれるだけの広さしかない。彼の下に寝藁が敷かれているのは、少しでも居心地よくしてやろうという心遣いだったのだろう、普段からここに敷かれているわけではなさそうだ。
身体を起こしてはじめて、いくつかのことに気が付いた。まず、自分が何も身につけてはいないということ――服は上から下まで、全部はぎとられてしまったらしい。先程のサナンの口ぶりから考えて、おそらく雨に打たれてずぶ濡れになってしまったのだろう。
隠すものはないとはいえ、自分の知らないうちに勝手に裸に剥かれるというのはあまり快いことではなかったが、しかし代わりに彼の上に着せかけられていたものを見れば、それを責める気持ちは持てそうになかった。擦り切れて薄くなった古い毛布が数枚、目の粗い織物や粗末な上着、薄い夏服に至るまでありとあらゆる布地が、隙間風から庇うように彼の体を包んでいたのだ。家中をひっくり返して、布なら何でもすべてかき集めてきたという様子に見える。
――なんか……だいぶ世話になってんな? これ。
だが一体、どうしてこんなことになったのか、ミカには全く覚えがない。ここまで自力で歩いてきた記憶もないから、サナンが運んできたということなのか。あんな小柄な子供がどうやって、と思う以上にわからないのは、あのとき何が起きたのかということだ。
闇の中、雨の向こうに何かが待ち受けていた。それは狙いすまして彼にぶつかり、刺し貫いたのだ――あの銀色の刃、痛みという言葉では足りない、灼けつくような感覚。
突然、ありありと蘇ってきた記憶に、ミカははっとして胸に手をやった。だが今、そこには何の痛みもない。血も流れていなければ、押しても痛くない。
けれど肌に滑らせた指先に、奇妙に盛り上がったものが触れて、ミカは視線を落として覗き込む。納屋の暗がりでは、はっきりとは見えないが……。
――傷痕。
それほど幅のない線が、傷口を覆うように盛り上がった肉となって、左胸に印のように残っている。鎖骨の下――肋骨の隙間を縫って、正確に、心臓の上に。
――これ……俺、死んでねえ? えっ俺まさか死んでんの、今?
ぞっとして、思わず自分の脈を探してしまう。もちろん、彼は死んではいなかった。鼓動は常と変わらず、規則正しく打っている。死ぬほど体の調子が悪いには違いないが、何にせよ死んではいない。
一瞬の馬鹿げた恐慌に頭を振って、ミカはため息をついた。とにかく、ここから出なくてはならない。状況を確認するにしても、考えを巡らすにしても、闇の中というのはあまり具合が良くない。もっと明るいところへ行かなければ。
手が届く範囲に、彼の服は見当たらなかった。だが寝床で着せかけられていた服の中に、大きめのものがいくつか混ざっている。大人の男のもので、サナンにはだいぶ大きいだろうから、おそらく亡くなったという祖父のものだろう。
形見と思うと気が引けないこともなかったが、背に腹は代えらない。ミカは農夫の服を拝借することにした。元の持ち主はそれほど大きい男ではなかったらしく、丈がだいぶ足りないが、それでも全裸よりははるかにましだ。
古着だけではいささか寒かったので、上から毛布を巻き付けて、ミカは側の壁を支えに体を持ち上げた。足は手よりも更に言うことを聞かず、彼自身の重さを支えるだけでも耐え兼ねてぶるぶると震えたが、何度かの失敗の末にようやく己の運命を受け入れたようだ。歩くというよりは、ほとんど壁に縋るようにして、納屋の外へ出る。




