40. 雨の夢
どこかで、水が漏れる音がする。ぴちゃん、ぴちゃんと落ちていく。微かな音、けれど永遠に止むことはない。一定の拍子で続くその音が、脳裏の全てを侵食し、狂おしい気分に駆り立てる。
一体、この雨はいつ止むのだろう。
全身が濡れている。身体を流れ落ちる水がすべての温度を奪っていく。もうこれ以上凍えようがないと思うのに、それでも水は止まらない。冷たい、寒い――体の内側まで、水が入り込んでくる。降り止まない雨が、すべてを氷に変えてしまうまで。
太陽の温もりが感じられない、地面の下は死の世界だ。水の流れる音と雫の音、あとは闇ばかりの水路に、太陽の光は差し込んでこない。ただ濡れて、凍えて、飢えて死ぬだけだ。
濡れるのは大嫌いだ。凍えるように寒くて、耐えられない。
雨はいつ止むのだろう。せめてこの雨が、止んでくれさえしたら……。
「――――」
不意に、目の前に顔が現れた。日に焼けた、どこか幼い丸みを帯びた顔。水路の中では見たことのない顔だ。新入りなのだろうか。口を動かして何かを言っているようだが、判然としない。困りごとがあるようにも見える。どうしてもっとはっきり言わないのだろう。もっとちゃんと話してくれたら、何か手を貸せるかもしれないのに。
何かが顔に当たった。目の粗い、けれどぱりっと乾いた布の感触。肌の上を滑るたび、冷たい雫が消えていく。凍えた体に、微かな熱が流れ込んでくる。凍りついた臓器を解かす、太陽の輝き。
少しざらついた、けれど柔らかい重みが体を包む。首元に折り込まれた毛布は埃っぽい匂いがしたが、同時に甘美な刺激でもあった。太陽の匂いだ。乾いて暖かい、生きた世界の匂いだ。
雨の音が遠のいた。再び闇に包まれても、今度はそれほどひどい気分ではなかった。乾いたところは安全だからだ。きっと、すぐに太陽が昇る。冷たい手足を温めて、この氷を解かしてくれる。
……それから、いくらか経ったに違いない。気が付けば、まだあたりは暗かった。しかし完全な闇ではない。どこも明るいわけではないが、暗闇に慣れた目には、辺りのものの輪郭がぼんやりと浮かんで見える。
荒く組まれた丸太の梁を、その下の板壁が支えている。どこからか、微かに隙間風が吹き込んでくるのが感じられた。左右の空間はほとんどない。狭くて暗い、粗末な納屋だ。
狭苦しい空間に、しかし彼は一人ではなかった。視界に、丸い顔が現れる。彼の体と壁の間の狭い隙間に、苦もなく座っている痩せっぽちの子供が、上から彼を覗き込んだのだ。さっきの新入りの顔だ……いや違う、知っている。
「――サナン?」
呟いて――ミカはようやく目を覚ました。
実際には、ほとんど声は出なかった。喉に力が入らないから、息を音にすることができない。そもそも、息をしている感覚もはっきりしない。苦しくはないから、もちろん呼吸をしているに違いないのだが、自分でそれがよくわからない。
しかし、そんな囁きとも言えないほどの呼びかけでも、相手には伝わったものらしい。子供ははっと彼を見つめ、何か言いかけるように口を開く。が、次の瞬間、何かに気付いたように、ぱっとそれを閉じた。
唇の前に、指を一本立ててみせる。黙っていろと合図を寄越すと、少年はしなやかな動きで立ち上がり、ミカの脚の方にある戸板を外して音もなく消えた。そこが開くとは気づかなかった。見た感じでは大きな板壁で、出入り口などありそうにない。
薄暗い中に一人取り残されると、再び瞼が重くなる。意識の底の方では、何かが喚き立てている感じがあったが、とにかく目を開けていられない。闇の重さにあっさりと降伏して、そのまま沈みかけたとき。
「――――」
外から声がする――男の声だ。何か不機嫌に、喧嘩腰に怒鳴っているようだ。何を言っているのかはよく聞き取れないが、不穏な気配は感じ取れる。乱暴な足音が、どかどかと床を踏みしめて歩き回っている。
本能的に危険を感じる。逃げなければ、でなくとも、逃げられる体勢でいなければ。体を起こし……かけて、そこでミカはぎょっとした。体が動かない。本当に、まったく動かないのだ。
――……何だこれ!?
「だから止めておけばよかったのだ、あの若造に知らせるなど! 我々で十分対処できたのに、結局、余計に厄介な……」
乱暴な侵入者は、板壁の向こう側を苛立った様子で数度往復したが、おそらくそれほど周囲に注意を払っていなかったらしい。何やら憎々しげに怒鳴りながら、やがて足音は遠くなった。やがて、辺りには再び静寂が戻る。
「…………」
だが、これで完全に目が覚めた。全身から冷たい汗が噴き出すのを感じながら、ミカはきつく歯を食いしばる――少なくとも、歯を食いしばれる力はある。いいことだ。
だが、他はどうだろう。手も足も、ひどく冷たくて重い。まるで鉛の枷を嵌められて、地面に縫い留められているかのようだ。身動きがとれない、指の一本すら上がらない。
腹の底から湧き上がってきた恐怖に、ほとんど半狂乱で力をこめたら、指先がピクリと動く感覚がした。よかった――でも、それだけだ。
微かな音がして、壁の戸板が動く。戻ってきたサナンは、やはり猫を思わせる動きで音も立てずに入ってくると、先程と同じ位置に座り込んだ。気遣わしげに彼を覗き込み、目が合うと、小さな声で言った。
「もういった」
「……かない」
「?」
「動かない……体が」
意識の隅の冷静な部分が、何を言っているのかと嘲笑う。そんなこと、この子供に言ったってどうしようもない。自分で何とかするしかないのだ。指先が動くのなら、神経は死んでいない……でも、本当にそうだろうか。もしこのまま、起き上がれもしなかったら……。
ふと、手に何かが触れた。熱い――もしこんな状態でなければ、思わず手を引っ込めただろうほどの温度。
「つめたい」
サナンは両手で彼の左手を包み込むと、そっと解すように力を込めて撫でさすった。痛みにも近い、灼熱の感覚に思わず呻く――が、数瞬のうちに、それは穏やかな刺激に変わった。熱が皮膚からしみ込んで、凍った血を解かしていくにつれて、次第に感覚が戻ってくる。あまりの心地よさに、知らず目を閉じかけたミカだが、しかし続くサナンの言葉にはっとする。
「あめ、たくさんぬれたから、つめたい。うごかない」
靄のかかった記憶が、途端に鮮明になる。一歩先も見えない闇夜、角灯の明かりに照らされた雨粒の煌めく線。呼ばれて、施療所へ向かうところで何かにぶつかった。灼けつくような衝撃。あの、銀色の――刃。
ミカは改めて辺りの様子を確かめた。施療所ではない、彼の滞在していた宿泊棟でもない、巡礼用の大部屋とも違う。まったく知らない場所。
「ここ、どこ……?」
「いえ」
「家って……おまえの?」
サナンは小さく頷いた。思えば、この子がどこで暮らしているのか、訪ねてみたことはなかった。修道院内ではない、どこか別のところに住んでいたはずだ。確か、掘立小屋がどうとか……。
その答えを示すかのように、突然、鐘の音が響いた。修道院が夜明けの祈りの時を告げる鐘だ。十分に大きい、けれどミカの滞在している部屋で聞くよりは少し小さく聞こえる。いくらか距離があるようだ。
音に応じて、サナンが再びすっと立ち上がった。修道院で働く者にとっても、一日の労働のはじまりを告げる音なのだ。後ろ髪を引かれるような目で彼を見るので、ミカは何とか笑みのようなものを浮かべて言った。
「行けよ……サボってるって、どやされんぞ……」
「…………」
「俺は……もうちょっと、いてもいいか……。動けるまで……」
まあ、悪いと言われても、ここにいるしかないのだが。たったそれだけ言うので、もう精一杯だ。力尽きて黙った彼を、サナンはじっと眺めていたが、やがて何かを決意した顔で呟いた。
「まってて」
問い返す間もなかった。サナンはするりと納屋を抜け出し、戸板が音もなく閉められる。
ミカは息をついて目を閉じた。どうやら彼は何かを待っていなければならないらしいが、とてもそんなことはできそうにない。
目を閉じるなりまっすぐに、ミカは再び眠りの闇へ落ち込んでいった。




