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39. 急報

 その眠りが覚まされたのは、数刻後のことだ。


「――――」


 何かが聞こえて、ミカははっと目を覚ました。元々寝起きは悪くない方だが、それでも状況を把握するまでに、さらに数瞬を要した。


 辺りは真っ暗で何も見えない。気温は随分と下がって、いよいよ寒い。寝台から出たくなくて、ミカはもう一度きつく目を閉じたが、すぐにそういうわけにもいかないとわかった。


「パトレス・ミカ」


 扉を叩く音とともに、確かに誰かが彼を呼んでいる。それも押し殺した、切羽詰まった響きで。


 口の中でもごもごと悪態をつき、ミカは観念して起き上がった。せめてもの体裁に司祭服に袖を通したが、中途半端に湿った感触が気持ち悪い。


 いらいらと扉に向かう――これでたいした用じゃなかったら、目にもの見せてやる。


「パトレス・ミカ! 申し訳ありません、こんな時間に」


 だがどうやら、ちゃんとたいした用事であるらしい。扉の外にいたのは、見知った施療所の若い修道士だった。ほっとした様子で彼の名を呼ぶと、慌てて頭を下げる。


「でもすみません、緊急なんです――例の、王女殿下の侍女殿の容体が急に悪くなって。どうか、施療所までおいでください」


「……何だって」


 完璧に目が覚めた。それはまったく意外な知らせで、ミカは驚いて訊き返す。あの王女の侍女――エーリンといったか――の症状は、一過性のもので、繰り返すようなものではないと思っていたのだ。実際、その後の経過も順調だと聞いていた。


 けれど、彼が自分で様子を確かめたわけではない。彼女を施療所の世話にたくしてからも、いちいち顔を出したりすると、あのヘルマー修道士辺りは憤怒ふんぬで卒倒しそうだったからだ。


 必要があればそれも構わないが、必要もないのにこれ以上反感を買っても益はない。彼女が良く面倒を見られているのなら、敢えてかかわることもないと思っていた。


 それが、こうして彼に知らせにくるとはよほどのことだ。一体誰の判断だろう……ヘルマーは卒倒していないだろうかと、ミカはちらりと思ったが、口に出しては急ぎのことを訊いた。


「どういう状況です?」


「ひどく苦しがっておいでです。何度も吐いて。脈は安定していますが、速いです。熱もかなりあるようです」


 微かな違和感を覚えたが、ここで問い質していても意味がない。とにかく、急ぐ必要があるのは間違いないようだ。すぐに行くとミカが答えると、若い修道士は目に見えて安堵した顔になった。


「私は、これから王女殿下の滞在先に、このことをお知らせしに行くよう言われています。施療所まで、これをお持ちください」


 言って、彼は手にしていた角灯を差し出した。室内で使うものではなく、雨風で吹き消されないように特別な覆いをつけられた屋外用のものだ。若い修道士の身につけている、濡れた外套の裾からは、ぽたぽたと雫が落ちている。外はまだ雨が降っているのだ。


「わかりました。私はここから直接(うかが)いましょう」


 正直に言えば、再び土砂降りの雨の下に出て行くという考えには、まったく気をそそられないが、用意があるのはありがたい。ミカが礼を言って明かりを受け取ると、修道士は素早く一礼して、通路を小走りで去っていった。


 舌打ちを押し殺して、ミカは外套を着込んだ。


 ――う、服が生乾きだと気持ち悪ぃ。ああ、やだやだ。


 宿泊棟から外に出ると、辺りは真の闇だった。何も見えない、角灯の明かりがほんの一歩先を照らすだけだ。


 雨音に支配された静寂の中、ミカは雨を避けて俯き、足早に進んだ。ここに何日か滞在して、場所を把握した後で良かった。そうでなければ、方向もわからない闇に呑まれて、ほんの少し先の施療所に辿り着くこともできなかっただろう。本当に、建物の影さえ見えないのだ。


 そういえば、その上この時間、施療所の昼間の出入り口は閉ざされているはずだ。夜間は薬の調合をする区画が無人になり、急病人があったときのために、奥の区画の扉だけが開けられている。薬草園の側の……。


 どん、と衝撃があったのは、まったくの突然だった。暗闇で、何かにぶつかった――いや、ぶつかられたのか。しかし、それを確かめることはできない。


 次の瞬間、全身の神経が焼き切られるような感覚に襲われて、ミカはたまらず悲鳴を上げる。が、その声が聞こえない。代わりに喉から漏れたのは、ごぼごぼという濁った液体の音だ。何かが喉にせり上がって、息を塞ぐ。不快を催す、生臭い鉄の匂い。


 水を跳ね上げる音がして、闇のかたまりが離れる。途端、自分の体が大きく傾くのがわかったが、しかしそれを立て直す術はない。何もできない、力を入れるとはどうやるものだったか思い出せない。


 彼の手から滑り落ちた角灯は、石畳に転がってもまだ光を保っていた。そのささやかな明かりの中に倒れ込みながら、ミカはついにそれを目にする。この場にあっては、あまりにも異質なその輝き。


 ――銀。


 炎の暖かみのある光にも屈しない、冴え冴えとした銀色の刃。それが彼の胸に、まっすぐに突き立っている。


 だが、その光もすぐに消えてしまった。暗闇の中を、深く深く落ちていく。何もない、どこへも辿り着かない――ただ、雨音だけを連れて。








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