38. 土砂降り
昼食を済ませ、サナンと別れた後、空模様はいよいよ崩れてきたようだった。
ミカが再び書庫へ戻って文書を繰っている間に、辺りには、雨粒が石壁に打ちつける音が満ちてくる。無数の雫が弾ける音は、水音というよりは、何かもっと別のもののように思える。音として耳から入り、やがて五感を侵食していく、白い靄のようだ。
やがてそれが雨音のせいだけではなく、ついに集中力が切れはじめた兆候なのだと悟って、ミカはようやく諦めた。一旦書面から目を上げると、どうして今まで文字を追えていたのかわからなくなるほどに、辺りはすっかり暗くなっている。
いつの間にか交代したらしい管理当番の修道士に軽く会釈をして、ミカは書庫を後にした。卓の上に置かれた、既に火を入れられている角灯が、ほっとするような色の光で近くを照らしている。
午後に彼が得た知見は、さして特筆するようなものではなかった。この地の特性や来歴――昔は、あまり地味のいい土地ではなかったらしい。茨や雑草だけが生い茂る粘土質の土で、作物を育てるのは向かないとされていた。サナンの、薬草園はもとより菜園も、あれでたいしたものなのだ――、ロードリー伯爵家の由来や系図――ロードリー伯爵とアルヴァン院長は、正真正銘の兄弟であるらしい。ただし、歳が十以上違う。跡継ぎとして厳格に育てられた長男と、遅くにできて甘やかされた末っ子、よくある話だ――などが見つかりなかなか興味深かったが、だからどうという話でもない。
聖ルージェナその人がこの地を訪れ、奇蹟を行ったとする伝承がいくつかあるにはあったが、それらは書かれた時代が新しく、真実というよりは、建設された修道院に箔をつける目的だったのではないかと思われる。そもそも、聖ルージェナはベルリア中を回っているから、主要な街道沿いの町はどこでも『聖女のおみ足が触れた町』と申し立てて間違いはない。実際に修道院が建つこの土地で、聖女が奇蹟を起こしたと断定できる証拠はない。
僧房を出ようとして、ミカは少しためらった。雨は本降りになっていて、石畳に溢れるほどだ。ここから、ミカの滞在している宿泊棟へ戻るためには聖堂前広場を突っ切らなければならないが、屋根のある通路などない。そして雨具もない。
「司祭様」
不意に声をかけられて、振り返る。通路の奥から、修道士が二人歩いてくるところだった。一人は、背は低めだががっしりとした体つきで、もう一人は、細身で長身だがいくらか猫背の年配だ。どちらも知らない顔である。
「これから、宿泊棟へお戻りですか?」
年配の男の方が尋ねてきた。ミカが頷くと、もう一人が続けて言う。
「この雨では大変でしょう。雨具はお持ちですか」
「いえ。でも、広場を走って横切れば……」
「いやいや、それは止めておかれた方がよろしい。よろしければ、雨除けの外套をお持ちしますよ」
「ああ、それはありがたいですが、そのようなお手数をおかけするのは」
「どうぞご遠慮なく。お客人用の備えがあるのです。ちょっとお待ちいただけますか、取ってきましょう」
言うなり、背の低い方の男が、素早くどこかへ消えた。体型や動きから見るに、どたどたと豪快な足音がしそうなものだが、ほとんど耳障りな音を立てず移動するのは、静寂を良しとする修道院の生活が身に染みついている証だ。ミカは、残った方の年配の修道士に軽く頭を下げた。
「声をかけてくださって、ありがとうございます、助かります」
「我々も雨に降られて、今日は仕事にならんと引き返してきたところなのです。さっきまではまだよかったが、これほどの降り方になると、いくらお若い方の足でも、向こうに着くまでにはずぶ濡れですよ。それに、聖堂前広場の石畳はすり減っておりますからな。雨の日は滑って危ないのです」
やがて、もう一人が外套を持って戻ってくる。ミカは丁重に礼を言って受け取ると、外套を羽織って雨の中に進み出た。
雨天用の外套は、思ったよりは上等だった。蠟引きの厚手の生地で仕立ててある。普通程度の雨であれば何の問題もなかっただろうが、しかしこのときの降り方は異常だった。目深にかぶったフードの縁から、あるいは首回りや袖口から、容赦なく水が染み込んでくる。
ようやく宿泊棟の自分の部屋へ辿り着いたときには、ずぶ濡れとは言わないまでも、体中が冷え切ってしまっていた。不機嫌に唸りながら、ミカは外套から水を払い、ぐしゅぐしゅと濡れた音を立てる靴を蹴飛ばす。外套があっても、靴やズボンを守る役には立たなかったわけだ……もちろん、外套がなければ、全身がこの有様だったわけだから、ありがたいには違いないが、今、湿って不快を感じるのはどうしようもない。
濡れた上着を脱いで放り出す。ミカは体を震わせて、ため息をついた。もう、すっかり何もかも嫌になってしまった。考えるのも、今日は終わりにしよう。
水に濡れるのは大嫌いだ。まあ、好きな人間よりは嫌いな人間の方が多いだろうが、その中でも特に嫌いな方だという自負がある。古い地下水路はあちこち水漏れがしていて、しかも時々、前触れもなく派手に壊れ、辺り一面水浸しにしたものだ。暗く湿気った場所だから、一度濡れると乾かない。もう、普通の人間の一生分は濡れ鼠でいたはずだ。これ以上はごめんだ。
夕食を済ませると、すぐに寝台に潜り込んだ。火の気のない部屋は、春の夜とはいえまだ寒い。まして、濡れた後では我慢できないほどだ。毛布の下で、何とか暖を見つけると、眠りはすぐに訪れた。




