30. 時代遅れ
修道院へと戻る道のりは、ユールと一緒に歩いた行きの時間と比べれば、あっという間のことだった。四頭立ての軽快な馬車は、一度速度を上げればその実力を発揮して、飛ぶように走っていく。
とはいえ、車内の体感は到底『飛ぶように』などという軽やかさとは程遠い。病人がいて気が急いているということは除いても、危険なほどに揺れるのだ。街中の貧相な舗装の上でもひどいものだったが、町を出て修道院へと続く、轍のみの道ともなれば、振動はほとんど暴力だ。どこかに頭をぶつけたら死ぬのではないかと、ミカは半ば本気で思った。
そんな中ではあるが、座席に横になっている少女は、比較的安静が保たれているように見えた。きつい服を着て座っているときよりは楽になったのか、苦しそうな表情ではなくなった。しかし依然として顔色は悪いままで、息が乱れているのも変わらない。意識が朦朧としているのか、何度も目を瞬いている。あまり良くない兆候だ。
その意識を何とかつなぎとめているのは、傍らに跪いている女のようだった。片手で少女の手を握り、反対の手で汗に濡れた髪を撫で、静かに語りかけている。
その声の優しい響きに、ミカは密かに女の横顔を窺った。はっきりした目鼻立ちと意志の強そうな瞳、彼に話すときの様子からは気の強い、激しい性格が窺えるが、一方でこんな柔和な、愛情深い仕草を見せるとは、なかなか意外なことだ。
その側で、ユールもまた心配そうな顔をしていた。小石を踏んだ車体が飛び上がるたび、少女の身体がひどく揺さぶられないよう、手で出して支えている……しかしその視線が、決して女の方を向かないことにミカは気づいた。
どうやら、二人がお互いに知り合いなのは確からしい。それも、ただの顔見知り程度ではない。だが、親しいというにはあまりにも気まずそうな、この雰囲気は何なのか。
しかし、それ以上のことを知ることはできなかった。馬車が減速する。修道院の門前までたどり着いたのだ。
「ユール」
声をかけると、修道士はすぐに頷いた。皆まで言われずとも、自分のするべきことがわかったに違いない。まだ完全に止まっていない馬車から、ひらりと身軽く飛び降りる。
ややあって、外から門衛と話す声が聞こえた。修道院内へ入ろうと思うなら、そこに所属する修道士が説得してくれるのが一番いい。
やがて門が開いたのか、馬車は再び動き出す。外から人々の声がしてきた。聖堂前の広場に乗り入れたのだ。
「さあ、下りて。修道院の施療所はすぐそこだ」
御者に声をかけて馬車を止めると、ミカは女を先に下ろした。彼女は一瞬、少女の側から離れ難そうな顔をしたが、しかし彼の指示に従うことに慣れたのか、文句も言わず馬車を下りる。ミカは少女を振り向いた。
「あなたはどう、下りられ……そうじゃないか。悪い、ちょっと我慢して」
少女の体に手をかけて、抱え起こす。小さく息を呑む音がしたが、構わずそのまま抱き上げた。相手が腕の中で、緊張して固まっているのに気付いて、そっと囁く。
「急に体を起こされると辛いんだよな。わかってる、ほんとごめん。でも、もう少しだけ頑張って。すぐ楽になるから」
少し力を抜いてくれた方が安定して抱えやすいのだが、しかし少女は、すぐには気を緩めてくれなかった。どころかますます身を固くして、息を詰めて彼を見上げている。先刻までのぼんやりとした表情が消え、はっきりと自分の状況を認識しているらしいのはいいことだ。頬に微かに血色が戻ってきたのも。
施療所に足を踏み入れると、驚きのざわめきが起こった。担当の修道士たちが忙しく立ち働いている他に、治療を受けに来た一般の人々も多くいたが、皆が動きを止め、目を丸くして闖入者たちを見やる。
ミカもまた、辺りをさっと見回した。人は多いが、この少女ほど緊急の者は他にいないようだ。見知った顔がいくつか見える。
「パトレス・ミカ! どうなさったんですか」
そのうちの一つ、棚の側にいたそばかす顔の修道士が、真っ先に近付いてきた。昨日、薬草園で行き合ったあの若者だ。
「急病なんだ。どこか、空いている寝台はありませんか」
ミカが告げると、若い修道士は引き締まった表情になった。二、三歩奥へ移動して状況を確かめると、すぐにどうぞと合図をくれる。
「奥の、診察用の小部屋が空いていますから、すぐにお使いいただけます。こちらへ」
奥まった小部屋の簡素な寝台に、少女の体を横たえる。すぐに、それまで音もなくついてきていた女が寝台の反対側に回り込み、心配そうに病人の手を握る。ミカは再び状態を確かめた。脈は微かに触れる。だが明らかにおかしい。まともな打ち方ではない。
「心臓だ。軽い発作だけど、続くとまずい。ギダの実を少しとサークスを飲ませて、様子を見た方がいい」
急性の心臓の病には常道の薬草、奇をてらったことなど一つも言っていないはずだが、しかしミカの言葉を聞いた修道士はぎょっと目を見開いた。信じられないとばかりに、ミカをまじまじと見つめたが、勇気を奮い起こしたように口を開く。
「で、ですが……ですが、ギダの実は猛毒です。不用意に口にすれば、病を癒すどころか死んでしまいます」
「いや、それはそうですよ。だから、サークスが必要なんでしょう」
一方で、何を言っているのかという気持ちはミカも同じだ。
ギダの実は大昔から、心臓に効のある薬草の一つと言われていたが、歴史的に見れば救った命より死なせた命の方が多いだろう。人体に薬として用いることができる量はごく微量で、それを超えると毒となって口にした者を殺してしまう。その許容量も個人によって違うし、同じ人間でも体調によって変わることさえある。扱いが極めて難しく、利より害が大きいと、しばらく薬としては避けられていた。
それが近年、サークスという薬草と一緒に用いると、ギダの実の毒の効果を大幅に減じることがわかった。サークスも毒草は毒草なのだが、微量で死に至るような毒性の強いものではなく、普通は痛み止めとして使われることが多い。どちらも、それほど栽培、入手に苦労する薬草でもないため、今では定番の処方になっている――少なくとも、大陸の中央辺りではそうなっているはずだ。
だが、どうやらここベルリアでは、そういうことになってはいないらしい。ミカの説明に、修道士はますます呆気にとられた顔をした。
「それは……そんな処方は聞いたことがありません。ギダの実が心臓にいいというのは大昔の伝説で、人体には不適当な、悪い迷信です」
「ああそうとも、百年前はね!」
――嘘だろ!?
こんなことがあるだろうか。ギダとサークスの処方は、ミカが『久遠の塔』で学んでいたときには既に教えられていた。とうに実証されて久しかったからだ。最初に効が認められて十年やそこら経っているはずなのに、まだここには話さえ伝わっていない。
昨日、この修道士から聞いた話を思い出した。この修道院では、古い医術書がまだ金科玉条なのだ。新しい知見は何一つ入ってきていない。この地が大陸の辺境であるという以上に、その姿勢こそが新しい知識の流入を妨げているのだろう。
「わかった、じゃあせめて、薬草を融通してもらえませんか。あとは何が起きても、放っておいてもらって構わない。私が責任を持つ、あなた方には一切ご迷惑をおかけしません」
その無知がどれだけ救える命を取りこぼしてきたか、どれだけ取りこぼしていくのかは、差し当たり彼の手に負える問題ではないが、少なくとも今、ここにある一つの命が無為に失われていくのを傍観はできない。ミカはちらりと寝台を見やった。少女はぐったりと目を閉じている。自分の命運が話されているというのに、集中して聞いてもいられないのだ。
代わりにとでも言うように、寝台の側についている女が、真剣な目で彼らを見つめていた。昂然と頭を上げ、きつく唇を結んだその顔は、跪いているという体勢とは裏腹に、風格のようなものさえ感じさせる。
その燃えるような瞳を前に、修道士は更にたじろいだようだった。いよいよ困った顔になって、声を低めて言う。
「それは……その、できるだけ、お役に立てればとは思います。でも、ギダの実はあったかどうか……あれは猛毒なのです。もう何年も、使った者も、使おうと思った者もいないんです。昔の貯蔵表に名前だけはあった気がしますが、今はどこにあるのか……とうに廃棄されたかもしれません」




