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29. 緊急事態

 角を曲がって姿を現したそれは、かなり立派なものだった。四頭立ての馬は揃いの黒鹿毛で、一目で手入れのいい良馬とわかる。車体には派手な装飾はなく、ぱっと見は地味に見えるが、全体に曲線が使われた優美な作りだ。


 一見すれば、良家の奥方が、あまり格式張らない気安い用事のために、近場を乗り回すためのもののように見えたたが、しかしその動きはとても呑気なそぞろ歩きという様子ではない。細めの車輪を軋ませて、馬車は貧相な石畳の上を、可能な限りの速度で走り抜けていく。


 ――何だ?


 馬車の進路から慌てて飛び退いた他の人々と同様に、ミカも目を瞬いて、去り行くその姿を見送る。優雅な馬車をあんなに駆り立てて、一体どこへ行こうというのか。


 だがそうして見ている先で、馬車が突然止まったのはなおも驚いた。訓練された馬たちはさお立ちにこそならなかったが、前触れなく足を止められて不満のいななきを漏らす。引かれていた車体もすぐには止まれなかったが、その車輪が完全に止まり切る前に、内側から勢いよく扉が開いた。


 出てきたのは、若い女だ。馬車から飛び降りるように出てくると、どよめく周囲を意にも介さず、長い髪を振り乱して辺りを見回す。と、そこで、女はこちらに目を留めた――まっすぐに、呆気に取られているミカの上に。


「司祭様!」


 女が叫び、駆け寄ってくる。細かな刺繍で飾られたドレスの裾が、石畳を払って土埃に塗れるのにも構う様子はない。


「ああ、良かった! あなた、この町の教会の司祭様?」


 間近で見ると、女は随分な美人だった。歳はミカと同じくらいか。小ぶりな顔にすっと通った鼻筋、きりっとした眦は、ともすればきつい印象を与えるが、滑らかな頬の優しい曲線と、艶めいた形のいい唇が、それを程よく和らげている。


 すらりとした身体に、飾り気のないドレスをまとっている。仕立てのいいそれは彼女に見事に合っていて、豊満な胸と細い腰の完璧な曲線を、奥ゆかしく、しかしはっきりと現わしていた。落ち着いた光沢のある褐色の髪は、彼女の慌てぶりに少し乱れていたが、それさえもその美貌を引き立てるようだ。


「いいえ、申し訳ありませんが違います。私はここを訪れているだけで――」


「でも、とにかく司祭なのよね?」


 ミカの答えを皆まで聞かず、女は焦れたように言った。鮮やかな緑の瞳に、憤りの輝きが閃く。自分の望みが常に即座に叶えられることを当然と思う人間の眼差しだが、今はそれよりも大きな感情が、その目を覆っている。不安、焦燥、何よりも――恐怖。


「お願い、どうか助けて。私の連れが病気なの。ひどく具合が悪くて」


 教会は神の法を掲げて叡智を尊び、人々の暮らしを支えるものだ。そしてその観点から、医術は極めて重要な知識であり、位階を持つ者は当然それを期待される。


 これが大怪我であったなら、急いで最寄りの教区司祭を探せと言うしかないミカだが、病気というなら多少は手を貸す余地があるかもしれない。


「急病ですか。馬車の中?」


「そう。急に気分が悪いって言い出したの。それも、だんだん悪くなってるみたい。もし……」


 必死に言い募りかけた女は、しかしそこで息を呑んだ。言いかけた言葉を途切れさせたまま、目を見開いて立ち竦む。


 突然の変化に、彼女にも何事かあるのかと思いかけたミカだが、すぐにそうではないとわかった。女の目は、ただ一点を見つめている――ミカの傍らに立つ、やはり同じく目を見開いて固まっているユールを。


「――では、馬車にうかがっても?」


 意外な成り行きだが、しかし今はそれを観察している場合ではないだろう。ミカがそう言うと、女は我に返ったらしく、慌てて答えた。


「え、ええ、もちろんよ! こちらへいらして」


 馬車の中には、少女が一人座っていた。まだ十代を出てはいないだろう。壁にぐったりと寄り掛かり、浅い息をしている。細いおもてには血の気というものが全くなく、青みがかった白い肌に苦悶の汗が浮いていた。


 贅沢な作りのおかげで、車内が見た目より広かったのは幸いだ。おかげで苦もなく馬車に乗り込んで、ミカは少女の側に膝をついた。


「やあ、はじめまして、お嬢さん。急に驚かせてすみません。具合が良くないと聞いたのだけれど、どんな感じが教えてもらえますか」


 手を伸ばして頬に触れ、視線を合わせる。少女は息を呑んで、まじまじとミカを見つめた。どうやら息が苦しいよりも、突然の驚きの方が勝ったらしい。


 焦点の虚ろだった瞳に、確かに自分が映っているのを見て、ミカはにっこり笑ってみせた。その程度に意識がはっきりしていれば、とりあえずはましな方だ。


「ああ、辛いなら、無理に話さなくて大丈夫。少し触れてもいいですか。楽にして、力を抜いて」


 少女を安心させるように声をかけながら、状況を確かめる。呼吸が極端に浅くて速いが、咳をする風ではない。服に少し汚れがついているのは、何か吐き戻したのだろう。悪い食べ物にでも当たったのだろうか。でもそれなら、これだけですむはずがない。少し熱があるようなのに、手がひどく冷たい。


 手首に触れて、ミカは微かに眉をひそめる。次いで首筋に手をやるが、やはり同じだ――脈に触れない。恐ろしく弱い。


 ――これか。


「ちょっと失礼」


 声をかけるなり、少女の襟元を素早くくつろげる。身体を抱き寄せるようにして、背中側の留め具を外していった。それにしても、どうして女は、こうも身体を締め上げるものばかり身につけたがるのだろう。身に付きすぎた肉をどれだけきつく締めつけても、細く見えるかと言えば誤差の範囲だし、そもそもこんな年頃の痩せた少女には、締めるほどの肉もないのに。


「あ、あなた、何をしているの!」


 背後から、女の叫び声が上がる。動転した非難に、何って、とミカは手を止めずに答えた。


「服を緩めているんですよ。ご心配なく、女性の服の脱がせ方くらいはよく心得ていますから」


「なっ……!」


「それより、そっちに座ってくれませんか。狭いですが、彼女は横になった方がいい。あなたはそこで、足置き台になってください」


 しかしこの指示は、意外なところから抗議された。女はたちまち口を閉ざし、すぐに言われた通りにしたのだが、病人の方が嫌がったのだ。


「そんな……そんな、できませ……足だなんて……!」


「馬鹿ね、エーリン! 今はそんなことを言っている場合じゃないのよ。言われた通りになさい」


「いや……で、できません……」


 少女は頑なにそう言って、弱々しく頭を振った。その瞳に、苦痛とはまた違う涙が浮かんでくる。説得が功を奏しないと見て、ミカは馬車の外に向かって声をかけた。


「ユール!」


「! は、はい」


 扉の外で、呆然としていた若い修道士は、呼ばれてはっとしたようだ。慌てて応じる彼に、手で合図して馬車に乗り込ませる。


「ここに座って、彼女の足を支えていてくれ。横になったとき、胸より高い位置になっているように。あなたはこっちに来て。彼女を寝かせて、そう、手を握っていてください。そうすれば安心できるだろうから」


 後半は、女に向けての言葉だ。一度に命じられた二人は、一瞬視線を交わしたようだったが、しかし何も言わずに、すぐに与えられた役目を果たしにかかった。


 女が宥める声音で何事か話しかけるのを背に聞きながら、ミカは扉から身を乗り出す。同じく心配顔を突き出して後ろを気にしている御者を見つけると、声を上げて告げた。


「このまま、通りをまっすぐ進めば街を抜けられる。リドワース修道院まで、この馬車ならいくらもかからない。急げば十分間に合う――さあ、早く!」









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