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28. 物乞いと修道士

「あの……パトレス・ミカ、一つよろしいですか」


「なんでしょうか、フィドレス・ユール」


「さっきの……宿の前の男は、評判の良くない人間です。ああして、物乞いのふりをして座っていますが。本当はどこも体は悪くないのです。人から恵んでもらったお金は、全部その日のうちに酒に変えて飲んでしまう。先程、あなたが善意でお渡しになったお金もです」


 やはり見つかっていたらしい。少し離れたところにいたというのに、ユールはなかなか目がいいようだ。


 とはいえ、『善意』などと言うところをみると、彼らのやり取りまでは気づかなかったのだろう。ミカは肩を竦めた。


「それは、まあそういうこともあるでしょうね。渡したお金は、既に彼のものです。私が使い道をどうこう言えるものではありませんよ」


 そう答えると、ユールは呆気にとられた顔をした。目を丸くして彼を見返すと、でも、と更に言う。


「それは堕落です、そうではありませんか? 皆、彼を気の毒に思って、少しでも役に立てばという気持ちをもって、彼にお金を渡しているんです。それをそのように使うのは、彼のためにならないばかりか、他人の善意も無視することです」


「金を役立ててほしいということであれば、十分に役立てているでしょう。一日の終わりに、気持ちよく酒を飲むのが彼の幸せだというのなら、そうするのがいい。別に変わったことではない、そういう人間は多くいますよ。あなたは修道士ですから、そういうことに喜びを見出すことはないでしょうが、たとえば一日きつい労働をした農夫の日々の楽しみが、酒場で一杯の麦酒を呷ることだったとして、それは堕落と呼べる罪でしょうか」


「そ、それは……それは話が違います。世の中の大勢の人が、適度な酒の楽しみを味わうのは、必ずしも悪いことではない……私自身は、それほど楽しくはなれませんが、理解はできます。ですが、それは労働の対価です。正しく働く者が受けるべき喜びです」


「あの男だって働いていますよ。日がな一日あそこに座って、できるだけ人の同情を引くように様々な工夫を考案して、見知らぬ人々に臆せず声をかけ続ける。あなたもやってみるとおわかりになると思いますが、他人に慈悲を乞うというのは、最初は恐ろしく勇気のいることです。たとえ慣れてきたとしても、やはり罵声を浴びもすれば、腹いせに殴られたり蹴られたりすることもある。決して楽な商売ではない」


「商売……ですか?」


 唖然としすぎて、ユールは他に言葉が出てこない様子だった。開いた口が塞がらないその顔に、ミカは笑みを浮かべて応える。


「金銭のやり取りが発生するものは、何でも商売ですよ。取引しているものが実体のある物でも、同情心や優越感でも同じです。彼は私に……ちょっとした親切をしてくれた。だから、その対価を受け取った。それだけのことです」


 ――つっても、半銀貨……あーくそ。


 とはいえ、致し方ない支出であった。人手に渡るよりはもちろん取り戻した方がいいからだ。


 このサイコロはその昔、今は『久遠の塔』で研究をしている彼の同輩がこしらえたものだ。何をどうやっても神聖言語を正しく唱えられない彼を『稀な実験体』だと言ってあれこれやらせた上、面白がってこんなものまで作った。ただふればただのサイコロ、しかし特定の聖句を正しい音で唱えると、任意の目を出すことができるのだ。


 おかげかどうか、この装置に使われている聖句は他のものより成功率が上がったが、半分近くは失敗する……それでも、博打には十分な勝率なので、便利に使っていたのだ。ないと困る……それに、可能性はかなり低いとはいえ、何かの間違いでこの仕掛けが世にばれた場合、うっかり聖遺物扱いされて教皇庁に連絡されないとも限らない。それは大変にまずい。たとえこの半銀貨は、彼の身銭を切らねばならなかったとしても、それだけのことはあったのだ……多分。


「酒を飲むことについて言えば、手持ちが尽きるほど飲みつくしてしまうのは、それはもちろんいいことではないでしょうが、それも実直な農夫であろうが物乞いであろうが同じです。誰であっても、そういう振舞いは本人のために良くない。ですが、そんなことは誰でも知っているのです。知っていて、なおもそうして飲みたい理由がある。本人が困っていて助けを必要としているなら別ですが、そうでないなら、その理由は他人の測れるものではありません。皆、それぞれに意志がある。それぞれに魂を持つ、同じ人間なのです」


 ユールは何も言わなかった。何か言いたげに口を開きかけては、しかし何も思いつかずに口を閉ざす。しかしそうしてパクパクしているところで、ちょっと振り返ったミカと目が合うと、顔を赤らめて黙り込んだ。肩を落とし、いくらかしょげた様子である。


 なんとまあ、と、ミカは呆れと感嘆が半々くらいの気持ちで思った。この新米修道士は、この程度の道理を考えたことがなかったのだ。


 考えたことがない、つまり意識に上らせたことがない。路上の物乞いがどうしてそんなことをしているのか、どうして世の中がこうなのかと、思ったことがほとんどないに違いない。


 ものを考えない人間はいくらでもいるが、しかし一方で、ユールのこの反応はいささか度が過ぎている。町を行く人の大半は物乞いを嫌う、でなければ目を背けたがる。何故なら心の奥底で、自分と彼に違いがないことを知っているからだ。


 そこに座って惨めな形でいるのが自分かもしれないと思うからこそ軽蔑する。働かないのが悪い、品行正しくないのが悪い、当然の報いだと罵ることで、自分は違うと思いたがる。彼が不幸なのは理由のあることで、その理由のない自分は安全だと信じたいのだ。


 だが、ユールはおそらく、それさえも考えたことがない。ミカの言葉に驚き、恥じ入りこそすれ、反発する気配がないのが証拠だ。


 これほどの世間知らずにお目にかかるのは珍しい。ごく若い頃から修道院で育ったという人間であればまだしも、ついこの間まで外の世界で生きていた者としては、かなり奇妙だ。


 ――もしかして、とんでもねえいいところの坊ちゃんなんかよ。


 もちろん、貧しい庶民の出などでないことはわかっていた。アルヴァンのような俗物が院長をやっている修道院に入ろうと思うなら、それなりに金を積まなければならないだろうし、ユール自身の立ち居振る舞いも洗練されたものだ。


 幼い頃から教育を受ける階層の出自なのは明らかだったが、しかしそれも、想像よりかなり上なのではないだろうか。大の男がこれほどに、市井のことに無頓着で生きていられるくらいに。


 ――それが何で修道士なんだよ……。金持ちなんだろ、金持ちに悩みなんかねえよ。さっさと俗世に戻って金で解決しろ。それで俺にも金くれ。


 脳裏では、まだ先刻の半銀貨が、チャリンチャリンと名残惜しげな音を立てている。客観的に見て大金というわけではない、せいぜいが酒場の食事に酒が大杯で二、三杯というところだが、それでも腹立たしい。あの男は、稼げるイカサマ道具を我が物にしようとサイコロを探し、しかしそれが期待外れの代物だったから、彼に返しただけなのだ。相手のゴミを引き取って、しかも金を払わされるなんて……。


「パトレス・ミカ」


 鋭い呼び声で、ミカの思考ははたと止まった。ユールが彼の左腕に手をかけて、思いがけない強い力でぐいと傍らに引き寄せる。我に返ったミカと目が合うと、すみません、と謝る。


「ですが、その、危ないので……何か来ます」


「何か?」


 答えは、ユールを待つまでもなくすぐにわかった。通りの向こうから、ざわめきが上がる。粗雑に敷かれた石畳が軋む音、何かが近づいてくる――馬車だ。








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