27. 町の賑わい
修道院から徒歩で半刻ほど行ったところにあるシャフェールの町は、数日前にミカが訪れたときよりも活気づいていた。通り沿いの小奇麗な店の前を、途切れることなく人が行き交う。
離れた農場から来たらしい荷車が、通りのあちこちに停められていて、搾りたてのミルクだとか野菜だとかを売っている。その周りには素朴な姿の女たちが籠を手に群れ集って、花の在りかを伝え合う蜜蜂のように、彼女たちには重要であるらしい噂話のようなものを喚き立てていた。
通りの奥からは、様々な音が聞こえてくる。金属を打つ音、水が流れる音、何かを砕く音、職人たちの工房が立てる音は、どれも力強く確信に満ちた拍子を刻んで、街そのものに命を吹き込んでいるように思われる。
「どうかされましたか?」
隣を歩くユール修道士に尋ねられ、ミカはそちらに注意を戻した。軽く微笑んで、いえ、と応じる。
「随分、賑やかなものだと思って。先日ここを通ったときには、もっとひっそりとしていたものですから」
言いながら、しかしミカには理由の想像がついていた。あの傭兵どもが、ついに街を去ったに違いない。
ミカにとってもありがたいことだ。大陸において、スワドの神に仕える司祭の法衣は、鎖帷子より身を守る効果の高い防具ではあるが、頭に血が上ったならず者と出くわしたいと望んでいるわけではない。
――しかし、どこに行ったんだ。ロードリー伯のところか?
連中からすり取った、封蝋付きの手紙のことを思い出した。彼らは、手紙が消えたことに気付いただろうか……。
「ああ、そうですね、そう仰られると」
ミカの言葉を受けて、ユールははじめてそのことに気付いたようだった。改めて、辺りの様子を見回す。
しかし次の瞬間、途端にその表情が曇る。急に何かに思い当たった様子で、密かに視線を落とした――本人は、『密かに』と思っているに違いないが、しかし見落とす方が難しいほどのあからさまな消沈。
「フィドレス・ユール、どうかしましたか?」
「い、いいえ」
顔を上げて、ユールは素早くそう答える。しかし、ミカが視線を逸らさず見つめていると、落ち着かない様子になって、やがて渋々口を開いた。
「その……本当に、何でもないんです。ただ……町の皆が活気づいているのは、多分、近く大きな出来事があるからです。あの、結婚式が」
ロードリー伯の二度目の結婚が、リドワース修道院の聖堂で行われる。土地の領主の祝い事であるから、町も祝意を表すし、それでなくても大勢の人間がやってくるから、商売にも好機だ。
まして、嫁いでくる花嫁は……。
「ああ、ベルリアの王女殿下がおいでになるとか。それは皆、一目でもお目にかかりたいと思うでしょうね」
それもこのような、王都から離れた場所であれば尚更だ。王族などという破格の見世物が現れるなど、およそあり得ないことである。その、およそあり得ないことが起きるということこそ、このベルリアと王家の苦難の現れではあるのだが、そんなことは庶民の好奇心にはまるで関係のないことだ。
ユールは、王女を間近で見られるかもしれないという稀なる機会を、喜んでいるようには見えなかった。どころか、その若々しい柔和な顔には、似つかわしくない暗い陰が落ちている。ベルリアの未来を憂いているのか――しかし俗世を捨てた一介の修道士が、国の未来にそれほど思いを致すことがあるだろうか。
しかし、ミカがそれを問い質すより早く、その表情はかき消えてしまった。再び顔を上げ、今度はすっかりいつもの人懐こい表情に戻ると、ユールは行く先を指し示す。
「ああ、この先です、パトレス・ミカ。革職人のマスター・カシッドの工房です」
今日は修道院を出て、近くの町に用事があると告げると、ユールは当たり前のようについてきた。既にもう、ミカにも追い払おうとか撒こうとかいう気はない。ユール自身は相変わらず、心から彼の手助けをしたいと思っているように見えたし、たとえそうでなくても、今日の行き先は知られても何ら問題はない。
店舗の二階に住宅、奥に工房という、この辺りでは一般的な建物に入る。客を迎えたのは、ふくよかな体格に似ずしゃきしゃきと喋る、いかにも働き者といった中年の女で、職人の妻であるらしい。用向きを伝えると、手早く在庫をひっくり返して目的に適う品を探し出してくれたので、ミカはほっとして礼を言った。ベルリアに長く滞在する予定ではないから、一から作り出すので時間がかかると言われたら、少し困るところだった。
「旦那様、もし、そちらを行かれる旦那様」
そう呼ぶ声が聞こえてきたのは、店を出て、町の大通りを戻りはじめたときだ。見れば、見覚えのある姿恰好の男が、フードを目深にかぶって路上に座り込んでいる。
ミカは足を止めて、そこが先日ごろつきどもと揉めた酒場の前であることに気が付いた。あのときの物乞いだ。
「ああ、我が友、我が親愛なる同胞よ。今日もあなたに、我らが尊き主のお恵みがあらんことを」
わざと仰々しく言ったのは、調子を合わせろという合図だ。男に向かって、軽くユールの方に頭を振って見せると、フードの下に微かに見える口元が、にっと歪んで見えた。そんなことは百も承知だと言わんばかりだ。
そのユールは、ミカが止まったことに気付かずに少し先まで進んでしまってから、驚いた様子で振り返ったところだった。町を歩く者にとって、物乞いの呼び声などは、他の町の騒音と同じく、意識せず耳から抜けていくものだ。
「旦那様、尊き神に仕えるお方、神はこの哀れな年寄りを使って、あなたに恩寵を示された。どうぞこちらへいらしてください」
ミカが近づくと、男はそっと手を差し出した。ぼろ切れに包まれてはいたが、隙間から中身がちらりと見えて、ミカは目を見開いた――あのときの騒動でなくしたイカサマのサイコロだ。
「拾っといてやったぞ」
フードの下、近づいたミカにしか聞こえない声で物乞いが呟いた。
「しかしそいつ、どういう仕組みだよ。全然、いい目なんか出ねえぞ」
「言っただろう、玩具だって。それも、気難しい玩具なんだよ」
こちらも声を低めて応えると、ミカは笑みを閃かせた。二度と戻ってこないものととうに諦めていたが、戻ってくるならそれは助かる。
受け取ろうと手を伸ばしたら、しかし男は素早く拳を握り込んでしまった。意味ありげな目で見上げてくる。
密かに舌打ちしつつ、ミカは素早く銅貨を取り出して見せる。しかし拳は開かない。二枚目を見せても微動だにしない。立ち去る覚悟を決めて半銀貨を出すと、男はようやく拳を開いて恭しく言った。
「ああ慈悲深い旦那様、おありがとうございます。あなたのために祈ります」
「神は常に見ておられますよ。善きことも悪きことも、すべては大いなる理の中にある。神の法は、すべての心正しき者の側にあるのです」
――クソが、吹っ掛けすぎだろ! 俺が使わない限り、ただのボロいサイコロだっての。呪われろ、この業突くジジイが。
だが、正面切って言い争えないのでは仕方がない。ミカに弱みがあるのが悪いのだし、それはお互いにわかっている。男は深く頭を垂れ、二、三度咳をした。多分、笑いをこらえたのだろう。
立ち去ろうと振り返ると、ユールが側まで戻ってきていた。何やら妙な顔をして彼を見つめている。この後ろ暗い取引がばれたのだろうかと、ミカは気まずく思ったが、やがてその心配はないとわかった。少し離れたところまで行ってから、ユールは言いにくそうに口を開いたのだ。
「あの……パトレス・ミカ、一つよろしいですか」




