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26. 奇蹟と聖女

 神聖言語は、純粋な音である。正しい高さ、正しい律、正しい流れて発音すれば、理論上は誰でも祈りの効果を得ることができる。位階があろうがなかろうが、信仰があるかないかすら関係ない。


 ただ、人間が決まった音を正確に発せるようになるにはそれなりの訓練が必要で、しかもその先はやはり才能だ。生まれつきの声や耳、感覚の良さが大きく影響するらしく、同じ聖句を唱えても、その効果は人によって何倍も違うということもある。


 そしてその才能が、ミカにはない。何年訓練しても、今のような一番簡単な治癒の祈りが、ときどき気まぐれに成功する程度にしかならなかった。これは聖職者として、実に由々しき問題である。


 司祭の行う治癒の祈りは、人々の生活に欠かせないものだ。何か不測の事態が起きて、重傷を負うことになったとしても、教会へ行きさえすれば生きる見込みがあるという思いは、人々の信仰と、教会へ寄せる信頼に大きな役割を果たしている。


 その期待に応えられない者が、教区に派遣されることはない――つまり、そこそこ穏やかな教区を任地に与えられて悠々自適に暮らすなどということは、ミカにはまずあり得ないのだ。


 ――まさか、こんなこととは思わねえじゃん……。


 己の祈りの才能が絶無であることに気付かされたのは、当然だが『塔』に入った後だ。そのときから、聖職者として見込みはないと言われていたし、自分でもそう思っていた。


 それでも『塔』を出なかったのは、奨学金の支給が続いていたからだ。成績さえ維持できていれば、日々安酒場で飲み暮らせるだけの金が手に入るというのは悪くない話だったし、学問も嫌いではなかった。どうせ在野の司祭として役に立たないのだから、『塔』に残れと言われたことも再三あるから、学問に向いていなくもなかったのだろう。ずっと『塔』にいるのはさすがに飽きると思って、受けはしなかったが。


 彼の目の前で、子供はなおも仰天した表情のまま、ゆっくり手を握ったり広げたりしている。確かに傷はふさがっているが、しかしまだいくらか、傷跡が筋のように残っている。まあ、自分の祈りでは成功したとしてもこんなものだと、諦め半分思うミカを、子供は驚嘆の眼差しで見つめると、珍しく自分から口を開いた。


「……きせき?」


「んあ? 何て?」


「これ、きせき?」


「は? いやいや、んなわけねえよ! これはただの治癒の祈り、そこら中でやってんだろ……って、あー、もしかしておまえ、見たことねえ?」


 問い返すと、子供はふるふると首を振った。今までのぼんやりとした反応から考えれば、だいぶ熱心な仕草である。よほど面白かったのだろうか。長く修道院の敷地に暮らしているというのに、これほどありふれた祈りが行われるところを見たことがないというのは不思議だが、これまで自身が大きな怪我をすることがなかったのなら、案外そういうものなのかもしれない。


「これは奇蹟なんてもんじゃねえよ。ある聖句を唱えれば、それに対応する何かが起きる。何でかっていうのはまだよくわかってねえけど、必ず起きるというのはわかってる。誰が唱えても、基本的には同じだ。聖句に対応して、起こるべきことが起きる――奇蹟っていうのは、そうじゃないやつのことだ」


 だから、理屈が解明されれば、その『奇蹟』は奇蹟ではなくなる。神聖言語自体、大昔は奇蹟そのものだった。それを体系化した偉大な先人があったから、今日では日々の祈りとして便利に使われているのだ。


 多くの『奇蹟』は、時間さえあれば、偶発的な現象ではなく、この世の理として解明できると言われている。しかし、神聖言語のような世界そのものに由来する奇蹟はともかく、人に由来するものは、その時間が圧倒的に足りない。


「それに、『奇蹟』を起こせる人間は女だけだ。『聖女』ってやつだ」


 歴史上、今は奇蹟ではなくなった神聖言語関連のものを除けば、『奇蹟』の力を宿した人間はほとんどが女性だ。理由ははっきりしていない……が、自明であるような気もする。その身の内に全く新たな命を作り、外界へ生み出す性が、より神秘に近いのは当然ではないか?


「ここにも、祀っている聖女がいるだろ。聖ルージェナか。いろいろ伝説があるけど、教会に残っている記録によれば、水を操る力のあった聖女だ。だから、川の氾濫を押し留めることができたし、逆に敵軍を水浸しにもできた。水の流れを察知して、どこを掘れば水が湧くかもよくわかったから、ベルリアには聖女の名が残る井戸がたくさんある」


『聖女』の能力は、特定の何か一つのことだけに関してのみ発現する。聖ルージェナは水の聖女で、歴代の聖女の中でも強い力を持っていたが、この水に干渉する力というのは、歴史上繰り返し現れる比較的よくある種類だ。


 他にも文献に現れるものでは、火を操るものや、風を制御するものなどが多いが、これらは現象としてわかりやすく、人の記憶にも残りやすいので、大きく伝えられがちとも言える。もっと地味で人目につかない力もあり、しかしそれらも確かに世の理を超えた聖女の奇蹟だ。


 今の世にも聖女はいる。しかしその名をはじめ、その力の詳細も、教皇庁の極秘事項で一般には知られていない。過去、聖女の力を巡っては何度も争いが起きており、教皇庁は彼女たちを外界とは接点のないところで、厳重に保護――あるいは監視――しているという。教皇庁の抱える、また別の『揉め事の種』だ。


 ミカはふと、再び『奇蹟の薔薇』に目をやった。『薔薇』が『奇蹟』を現すなんて、揉め事の二乗ではないか。唯一の慰めは、ここは修道院で、『聖女』はいないということくらいか。特に慰められもしないが。


 ミカの話を理解したのかどうなのか、子供はまた俯いて、手を眺めている。すっかり乾いた土汚れを、手をこすり合わせて落とすのを見て、ミカははたと当初の目的を思い出した。あまりにも珍しく治癒の祈りが成功したものだから自分でもびっくりして、すっかり忘れかけていた。


「そうだ、もっかい手ぇ出せ。いいものやるから」


 言うと、子供は目を瞬いた。が、従順に両手を差し出す。ミカは携えてきた包みをぽんと置いた。抱えるというほどではないが、子供の小さな手には余るほどの大きさだ。何事かと目で問う相手に、顎をしゃくってみせる。


「やるよ、昼飯だ。どうせまだ食ってねえんだろう」


 大きいパンの塊に、野鳥の薄切り肉と豆のペーストが挟まっている。やはり大きな塊のチーズに堅焼きのビスケットがいくらか、丸々としたリンゴもあれば、午前中の労働の疲れと空腹を補うことができるだろう。


「ガキのくせに、そんな真面目に働く奴があるかよ。仕事なんか後回しでいいから、食事時になったら何か腹に入れとけ。食わなきゃ大きくならないんだからな、だからそんなチビのまんまなんだ」


 思わずしかめっ面になって、ミカはじろじろと子供を観察した。昨日から、どうもこの子の体格が気に入らない。それほど背が高くもないのに、ひょろりと細長く痩せぎすで、てきぱきとした動きがなければ、どこか病気でもあるのかと思ってしまうほどだ。


 先刻、ミカが自身で体験したように、毎日あれだけの農作業をこなしているなら、もっと肉付きが良くてもいいはずだ。なのに腕は、掴めば指が回るほど細いし、触った感じも物足りない。きっと栄養が足りないせいだ。この年頃の少年は成長するものなのだ、もっと食べさせなくては……。


 しかし次の瞬間、子供が大きく身をよじって、ミカは我に返った。半ば無意識に相手の二の腕を掴んでいたのだ。ミカが手を放すより先に、子供はそれを振り解くと、じりじりと後じさる。


「ああ! 悪ぃ、つい」


「…………」


 ミカは両手を上げて見せたが、既に時遅しだ。子供は警戒するように彼から距離を取ると、ついには身を翻す。


 駆け去る後ろ姿に向かって、ミカは急いで続けた。


「昨日も、悪かった。そういうつもりじゃなかったんだ……もう、おまえにひどいことはしない。約束する」


 すでに、この少年に昨夜の一件を知られたことは、問題とは思わなくなっていた。彼が誰かに話をするとは思えない――ここにいる誰もが、この子を呪われた子供だと思っている。そうでなくても、知恵の足りない、言葉の出ない薄のろだと見なしている。


 その一方で、そうした子供が保護者を失って、毎日ちゃんとした食事を取れているかさえ気にかけていない。一体、この子が誰に話をするというのか。


 ミカの言葉に、子供は一瞬足を止めそうに見えた。しかし、結局は振り向きもせず、小道の向こうへ消えていった。












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