25. ポンコツ司祭の神聖言語
修道院の中央の広場には、ほとんど人の姿はなかった。動ける修道士たちは畑へ向かい、そうでない者たちは建物に引っ込んで、割り当てられた己の仕事をこなしているはずだ。
老人が数人連れ立って、足を庇う歩き方で聖堂へ向かうのが見えた。どこからか入り込んできた野良犬に、石畳の合間を啄んでいた小鳥たちがぱっと飛び上がる。穏やかで眠たげな、平和な午後だ。
ふと思いついて、ミカは聖堂の裏手に足を向けた。例の奇蹟の薔薇がある場所の、さらに奥に、墓地があると聞いた気がする。そこにはまだ行っていない。面白い見物というわけではないだろうが、一応見ておいて悪いことはあるまい。
舗装の途切れた小道を進む。ここには本当に人の気配がない。午後になると、小道には木や建物の影が落ちかかり肌寒く感じるほどだが、それでも散歩にはいい場所だ。穏やかな風が吹き、どこかで木の葉が音を立てる……。
しかしその音が、風の吹き方とは無関係に起こっていることに気付き、ミカは足を止めた。辺りを見回す。がさがさと葉をかき分ける規則的な音が、確かに聞こえる。どこからだ。
――あの薔薇だ。
小道を逸れ、聖堂の裏へ回り込む。例の薔薇は、今や聖堂の陰になって日差しの恩恵からは外れているものの、確かにそこにあった。その脇に、見る者が不安になるような粗末な作りの梯子がかかっている。それに上って、薔薇の枝に手を伸ばしているのは……。
「おい! 何してんだ?」
声をかけると、子供はちらりと彼を振り向いた。しかし作業の手は止めない。繁った葉の間に手を突っ込んで、何やら探っている。同時にいくらか葉も落ちてきた。これはどうやら、多すぎる葉をむしって風通しを良くしているようだ。
やがて仕事が一通り終わったのか、子供は梯子を下りてきた。ミカがまだそこに立っているのに気付くと、すたすたと歩いて近づいてくる。彼の前まで来ると、握っていた手を開いてみせた。
「うお。何だ、虫?」
掌の中には、芋虫や変な色の甲虫などが数匹いた。何も悲鳴を上げるほど恐ろしいというのではないが、突然目にして気持ちがいいものでもない。
ついぎょっとしてしまったミカを通り過ぎて、子供は近くの岩の上のくぼみに虫たちを放り込んだ。すぐさま一羽の小鳥が飛んできて、丸々とした芋虫を咥えてまた飛び去る。なるほど、うまくできている。
「……って、おい! ちょっと待てよ」
再び通り過ぎかける子供を呼び止める。まだ何か用があるのかと言いたげな顔をする相手に、ミカは強い口調で言った。
「手、出せ。見せてみろ」
「…………?」
「いや、虫じゃねえよ! 要るかよあんなもん」
微かに首を傾げた子供に、すぐさま言い返す。何となく、この子の考えていることが読み取れるようになってきた。
改めて虫を捕まえに行かれる前に、ミカは急いで子供の手を取る。土仕事で黒ずんだ小さな手には、案の定、赤い血の筋がいくつも走っている。
「……あんなところに素手を突っ込む奴があるかよ。何、いつもこんなことやってんの?」
答えは明白だった。手のひらの皮膚は厚く、固く強張って、ところどころに剥けた痕がある。薔薇の鋭い棘の前に、人間の手はあまりに無力だ。
薔薇は、今日では教会以外の場所で育てることが禁止されている。その花は気の病に、果実は多くの病に効くとされ、薬の一種として教会に管理されるのが望ましいというのが表向きの理由だが、実際には揉め事の種だからだ。
人はその香りに心を奪われると、際限なく富をつぎ込んでそれを得ようとする。となると高価に取引され、麦や野菜の耕地を潰して薔薇を植える者も現れる。領主や豪商が、飢饉が来ても薔薇の農地を囲い込んだことが人々の怨嗟を生み、大きな争乱になったことも一度や二度ではない。
花としても美しく観賞価値があるが、虫や病気が付きやすく手がかかるので、地位の象徴として扱われることも多かった。上流階級が自身の身分をひけらかす一方で、下の者がそれを育てるのは労働力の浪費だと攻撃する。とにかく、どの方面にも揉める花なのだ。
様々な経緯を得て、今では地付きの雑草として扱われる一部の種を除いて、薔薇は教会や修道院の中でしか見られない花となった。外で育てていたり、種子や香油を取引しているのが見つかると罰せられる。教会においても薬用として利用されることになっているから、薬草園の世話をしているこの子が、同じようにこの薔薇の世話もしているのだろう。
それにしても、と、ミカは改めてその手を見つめた。彼の掌にすっぽり収まってしまうほどの小さな手は、しかし固く筋張って、柔らかな幼さをどこにも残していない。日に焼け、土にまみれ、何年も酷使されてきた手だ。その上、こうも無造作に血にまみれているのは、何とも痛々しい眺めだ。
――くそ、ここ修道院だろ。このくらい、誰かぱっと治せる奴いるだろうが。
しかしそれが正確には誰なのか、ミカにはよくわからなかった。治癒の祈りを唱えるには、神聖言語が身についていなくてはならない。
位階を持っている副院長はまず間違いないが、確か午後も遠くの耕地へ向かったはずだ。他の修道士のことはわからない……おそらく勉強には全く熱心でないであろうアルヴァン院長にできないことは、ほぼ確信しているが、そんなことは何の役にも立たない。
――仕方がない。
一つ、息をつく。傷だらけの手に、自分の手を重ねて、ミカは祈りの言葉を口にした。
「《世に遍し輝ける至高の光、我が尽きせぬ清き泉、来たれ聖霊、魂の宗主、虚なる地の器に、高き恵みを満たし給え》」
一瞬のためらいの後、恐る恐るその手をどかしてみる。再び現れた小さな手からは、傷はあらかた消えていた。少なくとも、血が流れ出ている傷口は見えない。ミカは目を見開いて、快哉を上げる。
「おお、やった! すげーうまくいった! おまえ、めちゃくちゃついてるぞ。俺の神聖言語の詠唱がうまくいくことなんか、滅多にないんだからな!」
「…………」
子供は、ぽかんとして彼を見上げていた。目だけでなく口まで丸く開けて、心底度肝を抜かれたという顔だ。これまで、ほとんど感情というものが見えなかった相手の思いがけず率直な表情に、ミカもまた驚き、次いでわずかに鼻白んだ。
「何だよ、その顔は。司祭だからって、皆が皆、祈りが得意ってわけじゃねえんだからな。ただ唱えればいいなんて言うけど、結構個人差があるんだよ。できる奴とできない奴がいるの、しょうがねえの」
とはいえ、彼ほどできない部類もそうないのだが。『久遠の塔』の教師には、すっかりさじを投げられて、才能のなさで『塔』の歴史に残ると言われていたほどだ。




