23. 『奇蹟』の謎
やがて、大きく一つため息をついて、ミカはそれ以上の尋問を諦めた。まあいい、差し当たっては、一つ鍵を手に入れたことで良しとしよう――リドワース修道院で起こる『奇蹟』のうち、『病者の治癒』については、何となく見込みが立ったわけだ。もしこの薬草園が『奇蹟』の源で、誰もそれを仕組んだわけではないのなら、『奇蹟』は奇蹟のままでも構わない。
彼の任務は『奇蹟』を欺瞞だと糾弾することではない。教皇庁の立場としては、奇蹟など、起きるなら起きてくれた方がいいのだ。問題は、うっかりその種が明かされる危険性があるかどうかだ。
あの浅薄なアルヴァン院長の仕込みなら、まず確実に危ないが、しかしこの薬草園の管理者たちの『秘密』は、修道院ぐるみの計略ではないだろう。施療担当の修道士ですら、その気になればいくらでも量産できる『奇蹟』を利用しようとはしないのだから。
もちろん、教皇庁には正確な報告をせねばならず、そのためには、どうあってもあの子供に薬草の栽培や調合の知識について口を割らせなければならないだろうが、まあ、何とかやりようはある。一応の収穫だ。
再び鍬のところに戻って、固まった土に刃を入れながら、ミカは考えを巡らせた。
――ってことは、あとは、あの妙な薔薇の件か……。
しかし、そっちの方はどうしたものか。まさかここに延々と居座り続けて、花の観察などするわけにもいくまい。
ミカの思うところでは、そちらの『奇蹟』の方がよほど作為がありそうに思える。病が癒えるのは、結局のところ個人的な体験に帰すものだが、未来を予言してみせるというのは、かなり派手な見世物だ。大勢の人間の前でやってみせれば、人々を信じ込ませるのは容易いし、大勢が目撃したとなれば噂が広まるのも速い。修道院の評判を手っ取り早く上げるのに、かなり効果的だ。
だが実際、どんな手段でやってみせたのか。そもそもこの修道院に、是が非でも評判を上げなければならない理由はあるのだろうか。土地の名士の建立で、既にそこそこの敬意を払われている。ひどく貧しいわけでもない、どころか世俗領主にも劣らぬ土地と財がある。院長だって、よほどの野心がない限り、貴族の御曹司であった頃と変わらぬ暮らしができるはずだ。
――ベルリアが、あなたのものになるまでは。
昨夜立ち聞きした、アルヴァン院長とその兄ロードリー伯の会話は、よほどの野心と言えなくもない。この国の王女を妻として、王位に近付く算段だ。
他の対抗者と張り合うには、評判や名声はいくらあってもありすぎることはない。信仰の篤いこのベルリアで、自家の寄進で立てた修道院に奇蹟が起これば、伯爵の立場にはそれなりに有利に働くだろう。
――でも……あの院長、兄貴のために一肌脱いでやるって感じでもなさそうだけど。
果たしてアルヴァンが、明らかに不仲な兄の野心のために、そんな手の込んだことをするだろうか。昨夜の会話からうかがえる限り、指一本動かしたがらないだろう。どころか、逆に兄を陥れる策でも巡らしかねないほどに、険悪な関係に思える……。
「パトレス・ミカ!」
不意に呼ばれて、ミカははっと我に返る。見れば、いつの間にか薬草園の入り口に、見慣れた小柄な修道士が現れていた。離れた距離からでもわかるほどに目を丸くしていたユール修道士は、手を止めて顔を上げたミカの方へ、軽やかな足取りで駆け寄ってくる。
「何をなさっておいでなのですか? 一体どうして……」
「見ての通り、土を耕していますよ、フィドレス・ユール」
「ですが、司祭様がそのようなことをなさる必要はありません」
どうやらここの常識では、位階のある聖職者は畑を耕すものではないらしい。仰っていただいたら私がやりましたのに、と、ユールはひどく恐縮した様子だった。うがった見方をすれば、自分が任されている厄介な客におかしな動きをされては困るのだろうが、しかしこの素直そうな修道士には、そうした裏事情をうかがわせる表情は微塵も見えなかった。
「必要はありますよ。大地は、神がこの世界に生けとし生けるものすべてに賜った、大いなる奇蹟の最たるものではありませんか。神に仕える下僕は誰であろうと、その恩寵を理解する必要がある。アウレギオ師は『神の道』の中でそう説かれています。祈りと労働を規範とした、現在のすべての修道院の礎となる書ですね」
「え、は、はい……」
ユールは微かに顔を赤らめて視線をさまよわせる。修道士であれば内容は頭に入っているはずの書物だが、あまり一般に知られているものではない。本人の言う通り、修道院に入って間もないのならば、無理もない反応だ――アルヴァン院長が、こんな『素人』を彼の案内役につけたことに、一体どんな理由があるのだろう。
とはいえ、気の毒なユールを困らせたいわけではない。ミカは、気まずそうにしている彼ににっこり笑いかける。
「それよりも、そちらはどうなさったのですか。副院長と畑に行かれたのでは?」
「午前の割り当ては終わりました。そろそろ、正午の祈りと昼食の時間になりますから」
言われて、ミカは目を瞬いた。いつの間にそんなに時間が経ったのか。しかし改めて見上げた太陽は既に中天に達しており、ユールの言葉を裏付けている。
「ご都合がよろしければ、これから係の者が宿舎にお届けに上がりますが、どうなさいますか」
日々の営みのすべてを神に捧げる修道士たちの生活は、外部の者をおいそれと中に入れないのが原則なので、ミカが彼らと同じ席につくことはない。基本的には宛がわれた宿舎で、修道士たちと同じ食事を供される。客として扱われるせいか、いくらかは融通が利いて、望めば時間を変えたり、料理に注文を付けたりもできるらしい――厨房にしてみればいい迷惑だろうが、ここではそれは修道士の仕事ではなく、外の人間を雇って働かせていているから、そうしたことがまかり通っているのだろう。
ミカは、その辺で草取りをしていたはずの子供を探した。もう昼食だから切り上げようと声をかけたかったのだが、しかしいつの間にか、どこにも見当たらない。
「あの子のことでしたら、大丈夫ですよ。修道院の動きはよくわかっていますから。もしかしたら、先に食事に向かったのかもしれません」
「ここで働いている人々は、どこで食事をするのですか?」
「厨房の一画に、彼らのための場所があります。あまり広くはないので、それぞれ時間をずらしてやりくりしているのだと思います。彼らは修道士ほどには、厳密に時間を守る必要はありませんから」
そちらへ行ってみようかと、一瞬考える。ここに出入りする者たちから、何かしら情報が得られる可能性はある。が、とりあえず今は、止めておくことにした。覗いてみたければ、何も人々が腹を空かせて殺気立っているときでなくてもいい。
ふと、その中に、あの子がいるところを想像した。大柄な職工たちの間に、あの小さな、やせぎすな姿が、口も利かずにひっそりと紛れているところが思い浮かんだ。
多分、それなりにうまくはやっているのだろう、だが……。
ミカは再び辺りを見回す。やはり、子供の姿はどこにも見えなかった。ミカは鍬を地面に突き立てると、ユールの誘いに応じて、正午の礼拝と昼食のために聖堂の方へ引き返した。




