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20. 楽園

 ――しくじった。


 次の朝までに、ミカはそう結論付けざるを得なかった。あれは全くの失敗だった――あの子供を手荒に脅したことは。


 ――あんなガキに、何を見られたってよかったんだ。


 実際に何を見られたのかはわからないが、単にミカが院長宿舎から出て行くところを見られただけなら、何の不都合もなかったのだ。下働きの子供にとっては、院長とその客人の間のことなどは、何一つ与り知らぬことに違いない。怪しむこともなかっただろう。


 もし鍵を弄っているところを見られたのだとしても、それでも問題はなかった。結局のところ、教皇庁付特任司祭を相手に、農民の小僧風情が一体何を言えるというのだ。あの子供が何を言おうと、耳を貸す者はいないだろう。もしあまりにも邪魔になれば、そのときに何とでもできたはずだし、それで十分間に合った。


 だが、あんな風に脅しつければ、彼の方から何か疚しいことがあると白状したようなものだ。あまりにも思慮のない行動――もちろん、何も考えていなかったからだ。何か異変を感じると、とっさに先手を取ろうとしてしまうのは、身に染みついて拭い落とせない古い本能のようなものだ。


 ――でも、まあ……今更、なかったことにもできねえし。


 やってしまったことは、やってしまったことだ。あの子供の口を封じなければならない。さらに脅しつけるか、必要なら小金を掴ませるか、何か効果のある方策を考えなければ。


「今日は、もう結構ですよ、フィドレス・ユール」


 朝、再び宿泊棟に現れたユール修道士の案内を、ミカはそう言ってやんわりと断った。


「昨日は長くお手を煩わせてしまって、申し訳ないことをしました。これ以上、あなたの修道士としての務めを邪魔することはできません」


「そのようなお気遣いをいただくには及びません。アルヴァン院長からは、あなたの御用を務めている間は、他の日課は免除されているんです。神の奇蹟を明らかにすることは、何にもまして神聖な義務であるからと」


 依然、ミカの動きを監視したいというアルヴァンの意図は明白だが、しかしそれを告げるユールは、至極真面目な面持ちだった。


 果たしてこの新米修道士は、どこまで自分の任務を理解しているのだろうかとミカは思った。もし、修道院に都合の悪いことに近づけないようにしろと直接指示されてこの態度なら、大した役者と言うべきだが、どうもそういう様子ではない。


 そもそも、はっきりとそう指示するなら、新米ではなく、もっと内情に通じた者に監視役を命じただろう。院長の思惑はともかく、ユール自身は本心から、彼を手助けしたいと思っているように見える。


 とはいえ、今日のところはその厚意が困る。ミカは重ねて言った。


「ですが、本当にいらしていただく必要はないのです。昨日案内していただいたおかげで、今日はどこへ行けばいいのかわかりますから。実はこれから、フィドレス・ヘルマーのところへ伺おうと思っているのです」


「施療所ですか?」


「ええ。昨日見せていただいた薬草類は、実に素晴らしかったので、もしできることでしたら、もう少しお話を伺いたいのです。ただお伺いするだけでは申し訳ないですし、後学のために、しばらく何かお手伝いさせていただきたいとも思っています。フィドレス・ヘルマーはよろしくご指導くださると思いますし、だから本当に、いらしていただく必要はないのですよ」


 暗に、先輩修道士の管理下に入ると言ってやる。ミカの見たところ、あの施療部門の修道士は、縄張り意識の強い性質のようだ。自分の専門分野に他の人間が入ってくるのを喜ばない。撥ね付けがたい客であるミカはまだしも、新入り修道士のユールなどには、露骨に嫌な顔をして追い返すだろう。


 そのことに気づいているのか、あるいは単にミカの動きがわかって納得したからか、ユールはそれ以上、同行を主張してはこなかった。


「そうですか……わかりました。では、私はイアルト副院長に従って、南の耕地へ行ってきます。お昼に戻ってきますから、何かお役に立てることがありましたら、そのときにお知らせください」


 生真面目に言うユールに、にっこり笑って別れると、ミカは自分の言葉通り施療所へと向かった。だがもちろん、真の目的地はそこではない。


「パトレス・ミカ、今日は一体……」


 一日の仕事のための準備を終え、訪れる患者を待ち受けている施療院では、案の定、ヘルマー修道士は落ち着かない様子だった。朝の挨拶もなく、探るような視線を向けてくる修道士に、ミカは安心させるように微笑むと、無邪気な口調で言った。


「何度もお邪魔して申し訳ありません。でも今日は、あれこれとお尋ねしてお手間を取らせることはありません。薬草園に入れていただければ」


「薬草園? 昨日、ご案内申し上げたと思いますが」


「はい、ありがとうございました。素晴らしい場所で、興味が尽きません。先日、フィドレス・ヘルマーが仰った通り、土が良いのでしょう。もう少し仔細に調べることができれば、貴重な薬草を育てるための重要な情報になるかもしれません」


「我々は、何も特別なことはしていない」


 ヘルマーは、なおも渋る気配だった。しかしそこに、別の若い修道士が急いでやってくる。本日最初の患者は腹痛を訴える男で、早急にヘルマーの診療が必要だと言う。ミカはなおも丁寧な口調で――聞いている方が焦れ焦れするような口調で――続ける。


「ええ、もちろん、そうお思いかと思います。ですが成功の秘訣というものは、案外、成功なさっている本人は気づかないことが多いものです。薬草は一般的に頑健な植物で、一旦根付けばそれほど手間はかかりませんが、根付かせるのが難しい。もしこの地上の多くの場所で、多くの種類の薬草を育てることができるようになれば、それこそはまさに神の恩寵、この地に満ちる福音にも等しき聖なる御業です。そもそも福音とは、単に神の法というわけではなく……」


「ああ、ああ、わかりました! ご自由に行かれればよろしい!」


 案の定、患者を待たせて気が急いているヘルマーは、皆まで聞かずにそう言うと、慌ただしく行ってしまった。その後ろ姿を笑顔で見送って、ミカもまた薬草園へ向かう。


 すっかり上った太陽に燦々と照らされて、その日も、薬草園の緑は生き生きと輝いて見えた。まだ春先のこと、ようやく芽吹いたばかりの畝もあれば、すでに大きく葉を広げて、花まで咲かせているものもある。どの株も、この素晴らしい陽光を心行くまで浴びたいと、懸命に天を目指している。


 辺りを見回したミカは、しかし、目的の人物の姿が見当たらないことに気づく。あの子供、昨日は土にまみれて畝の間に座り込んでいた少年が見つからない。


 ――ちっ……。まあいい、そのうち来るだろ。


 考えようによっては、時間ができたともいえる。あの子供を懐柔するか脅迫するか、いずれにしてもいくつか方策を考えておかなければならない。それにこれからの、彼の『調査』の方向についても。


 再び視線を巡らせて、ミカは薬草園の端にある一本の木に目を付けた。おそらくは植えられたものではなく、自然に長くそこにあるのだろう。堂々とした佇まいだが、枝は程よく落とされ、人の手が入っていることがうかがえる。


 瑞々しい若葉を揺らして、風と光が通り抜ける木の下に腰を下ろし、ミカは大きく伸びをした。思った通り、随分と居心地のいい場所だ。


 大きく息を吸い込むと、さわやかな風の中に独特の香りを感じる。土と緑の香り。頭の芯に響く、けれど酒や、ある種の薬などとは全然違う――楽園の香りだ。


 生まれ育った場所には、土も緑もなかった。冷たい石や砂利、あるいは粘つく泥や汚水の溜まりがあるばかりで、日の当たらない石壁に張り付く苔以外には、およそ何かが育つような場所ではなかった。


 豊かな土の香り、風の中に閃く緑の輝き、太陽の光にさえ匂いがあることを知ったのは、養父に引き取られてからのことだ。彼の人生では比較的最近に知った感覚で、そのせいかどうか、ミカは未だにこうしたものに驚嘆せずにはいられない。


 高く晴れた空は輝きわたり、見上げるどんな小さな双葉にも惜しげもなく光を注ぐ。しかし植物ならぬ人の身には、緑を透かして落ちてくる光の陽だまりがちょうどいい。


 こんな気持ちになるのは何年ぶりだろう。養父の教会を出たのは十三のときで、それからはほとんど聖都スハイラスの石造りの街の中で暮らしてきた。もちろん聖都には、長い歴史の中で作られた名園が数多くあるし、教会はどこでも、たとえ小さくても薬草のための場所を設けている。


 しかしこの薬草園は、彼がこれまで訪れたどんな場所とも違うように思えた。敷地の境界を示すものは、簡素な柵か、自然に生えた木々だけしか見当たらない開けた場所なのに、同時に何故か、囲まれているとも感じる。と言っても、閉鎖的というのではない。美しく穏やかで、何からも守られている。修道院の、他のどの場所とも違う――外の世界の、どの場所とも違う。


 どこかで甲高く小鳥が囀る。木漏れ日さえも眩しくなってきて、ミカは知らず目を閉じた。柔らかな風の気配がより一層心地よくて、ますます力が抜ける。


 強いて言えば、養父の教会の畑にいるときの感じに似ているのかもしれない。でも、あそこにいたら、こんな風に木陰でのんびりというわけにはいかない。何か道具を手にした養父が現れて、あっちを耕せだとか、壊れた柵を直せだとか、小枝を集めて薪を割っておけだとか、ありとあらゆる用事を即座に思いついて、言いつけてくるに違いないのだ……。


 と、突然、何かが体の上に覆いかぶさってくる。ミカはぎょっとして目を開けた。


 彼の上には、小さな顔が浮いている。おそらくはもう一仕事してきた後なのであろう、頬に土汚れを付けた子供が、ミカの側に立って、黙って彼を見下ろしていた。相変わらず、その顔に表情らしい表情は浮かんでいない。


 しかし、その瞳には不思議な輝きがあった。少なくとも怯えている様子ではない。物珍しそうな、驚いたような――何故か、少しばかりは感嘆したような眼差しで、じっと彼を見ている。


「おまえ……!」




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