第一章7―致命的な遭遇: 孤高の塔の守護者―第1部
翌日は寒く曇り、厚い雲が太陽を覆い隠していた。ツルギとルナは、これまでで最も大きな挑戦に立ち向かう準備を整えていた。
ツルギは自分の身体を軽くほぐしながら、驚くほど調子が良いことに気付いた。前日の苛烈な訓練の疲労や痛みは嘘のように消え、全身が力で満ちている感覚があった。
関節や筋肉が痛むどころか、むしろ前よりも強靭になったようにさえ感じる。「あいつのやり方は狂ってたけど……効果は抜群だな」と、彼は苦笑いを浮かべながら心の中で呟いた。
二人は、地下へと続く狭い螺旋階段を慎重に降りていく。階段を下りるごとに、壁が圧迫感を増してくるようだった。塔の奥深くへ進むにつれて、空気は冷たく重くなり、息苦しさが増していく。
石造りの通路では、水滴が落ちる音が微かに響き、湿った匂いが漂っていた。その匂いには単なる湿気ではなく、石に染みついた腐敗の臭いが混ざり合っていた。
やがて、二人は階段の最下部に到達した。目の前には、大きな錆びついた鉄の扉が立ちはだかっている。表面には時の流れを物語るように無数の傷や穴が刻まれていた。
ツルギが扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。錆びついた扉はきしむ音を立てながら、重々しく内側に開かれた。
その先に広がっていたのは、ルナが描いた図面以上に広大な部屋だった。天井は高く、25本の太い石柱がアーチ状に支えられている。壁際には石柱が不規則に並び、部屋の中央には障害物のない広大な空間が広がっていた。
部屋の中央からは鎖が垂れ下がり、5つの檻を吊り下げていた。それぞれの檻の中には、水晶が収められている。
その水晶から放たれる光は不気味な紫色を帯び、淡く輝きながらも部屋全体を照らしていた。紫の光が壁や床に異様な影を生み出し、部屋の雰囲気をさらに不吉で陰鬱なものにしている。
床は粗い石と金属の格子が複雑に組み合わされており、格子の一部は浅い淀み水に浸かっていた。微かな光が水面の波紋に反射し、揺らめいている。
だが、何よりも二人の注意を引いたのは、部屋の中央にそびえ立つ巨大な存在だった。
それは――肉体を寄せ集めて作られたゴーレム、《フレッシュゴーレム》。筋肉、骨、腱が不気味に融合した異形の怪物だった。
身長は通常の人間の三倍ほどもあり、その巨大な体は自らの重さに耐えきれず、わずかにかがみこんでいる。
その皮膚と呼べるものは、様々な質感と色のパッチワークのように継ぎ合わされ、黒ずんだ縫い目が粗雑に走っていた。滑らかで張り詰めた部分もあれば、ねじれた節くれだった部分もあり、そこかしこから金属片や骨片が不規則に突き出していた。
その顔は醜悪で、歪んだ肉の仮面のようなものだ。唯一の特徴と言えるのは、一対の不気味に輝く紫色の目だった。それらの目は暗闇を貫くように輝き、口のような穴からは低く唸る声が響き渡り、まるで遠雷のように部屋中に反響している。
その巨大な腕は地面を引きずり、石を擦る音を立てていた。指先は異様に大きく、ごつごつとしている。ゴーレム全体の皮膚が内側から脈打ち、生き物のように動いているかのようだ。その動きは、まるで皮膚の下で異常な生命が身悶えしているように見える。
さらに、手首、足首、背中からは鎖が伸びていた。それらの鎖は天井に消え、水晶を収めた檻と繋がっている。鎖は紫の光に照らされ、不気味な輝きを放っていた。その動きは怪物の動きを妨げることはなく、地面に触れることもないまま、ゴーレムの周囲を漂うように浮いている。
ツルギは真紅の剣をしっかりと握り、目の前の怪物を睨みつけた。これまで計画していた戦術が、この圧倒的な力を前にして脆弱に思えた。
ツルギは深く息を吸い込み、気持ちを落ち着けた。「大丈夫だよ、ルナちゃん!」 彼は自分に言い聞かせるように囁く。彼の血は戦闘への期待で熱くなり、鼓動が強まるのを感じていた。
ルナは無言のまま頷いた。何を考えているのかは分からないが、その眼差しには確かな決意が宿っている。不安を抱えながらも、戦う覚悟が固まっているようだった。
その時――ゴーレムが二人の存在に気付き、喉の奥から唸り声を発した。その声は部屋中に響き渡り、鎖が揺れ、水晶が紫の閃光を放つ。
ゴーレムはゆっくりと頭を持ち上げ、空洞の眼窩でツルギを見据えた。
ダンジョンボスの能力を見よう――!
戦いの幕が上がろうとしていた。
※※※※※※※
ツルギは既に『ブラッドスペル・ブレード』を手にし、階段を降りる途中、ルナが二度『治癒』を使って彼のHPを完全に回復させていた。これは危険な賭けだったが、ゴーレムの一撃が致命傷になる可能性を考えれば、必要な準備だった。
最初に動いたのはルナだった。彼女は入口近くにある2つのクリスタルのうち1つに向けて『ファイア・ボルト』を放つ。
炎の矢が空を切り裂き、檻の中のクリスタルへと届く直前――ゴーレムが反応する。
巨体に似合わぬ速度で跳躍したゴーレムの動きに、周囲に大きな塵の雲が立ち込めた。ツルギとルナがその動きを見守る中、怪物は炎の矢をその巨腕で弾き返した。クリスタルを守るかのように。
ゴーレムの着地で地下室全体が震え、さらに濃い砂塵が空間を覆う。破片が飛び散る中、生物の足が地面を砕く音が響き渡り、ツルギとルナの足元が揺れた。
二人は直感した――この戦いが簡単には終わらないことを。
ルナはすぐさまツルギに『速度向上』を唱えると、壁沿いに移動を始めた。同時にツルギもフレッシュゴーレムに向かって駆け出す。
砂塵のカーテンを突き破り、ツルギは一直線に突進する。加速された感覚が手足に伝わり、一歩一歩が軽く、速くなっていく。
彼の目的は明確だった。
フレッシュゴーレムをクリスタルに繋いでいる鎖を断ち切ること。それができればゴーレムを弱体化させ、再生を阻止してクリスタルを破壊するチャンスを生み出せる。
ゴーレムはグロテスクな頭をツルギに向けた。今や彼が、クリスタルにとって最大の脅威だった。
ツルギは全力で跳躍し、ゴーレムの手首とクリスタルを繋ぐ鎖を狙う。
だが――ゴーレムは脅威を感じたのか、その巨腕を骨を砕くような力で振り上げ、阻止しようとした。
ツルギはギリギリでかわし、強化された速度で空中で体をひねって避ける。ゴーレムの腕が石の床に衝突し、深いクレーターを残した。
その腕を足場に、ツルギはさらに上昇し、剣を振り下ろした。鋭い刃が鎖に叩きつけられ、その衝撃が全身に響く。
――足りなかった。
ツルギは瞬時に悟った。今の一撃では鎖を断ち切る力が不足していることを。
「今だ!」
「――はい!」
ツルギの声に応えるように、ルナが両腕を伸ばし、ゴーレムに向けて再び『ファイア・ボルト』を放つ。
だが、放たれる前にゴーレムは動いた。ツルギがその腕を足場にしているのに気づき、激しく手を振り上げ、彼を振り落とそうとしたのだ。
ツルギは咄嗟に剣を鎖に押しつけ、その反動を利用して体を蹴り飛ばし、攻撃を回避する。
ゴーレムの一撃がかすめた瞬間、巨大な手から発生した気圧がツルギの体を吹き飛ばす。
彼が地面に着地するのと同時に、ルナが放った『ファイア・ボルト』がゴーレムの肩に命中した。
ツルギに余裕はなかった。ゴーレムが即座に頭上に迫り、巨大な拳を振り下ろしてきたのだ。
「くっ――!」
ツルギは横へと跳び、間一髪でその一撃を回避する。ゴーレムの拳が地面に衝突し、舞い上がる砂塵が視界を遮る。
ツルギは素早く柱へ飛び乗り、剣を打ちつけて登攀する。視界が開けると、彼はゴーレムの背中に繋がる鎖を指さし、ルナに知らせた。
それを見たルナは頷き、鎖を狙って手のひらを向ける。
冷や汗が彼女の顔を伝い、手は震えていた。集中しようとしても、一瞬の迷いが彼女を襲う。
ルナが放った『ファイア・ボルト』はわずかにそれ、ツルギが立っていた柱に命中した。
「イや――!」
命中音とともに火花が散り、その攻撃にゴーレムが反応する。炎の方向へ巨腕を振り、柱を破壊した。
25本ある柱のうちの1本が崩れ落ちる。その上にいたツルギは、瓦礫の間を飛び越えながら地面に着地した。
彼はルナを振り返り、その緊張した表情に気づく。
「訓練の時と同じだ!ルナちゃんならできる!」
ツルギは声を張り上げ、自分の位置を示しながらゴーレムの攻撃をかわし、素早く移動する。
入り口近くにいたルナはツルギの言葉を信じるしかなかった。
震える手を押さえながら集中し、手のひらにエネルギーがみなぎるのを感じる。胸の鼓動が速くなる中、彼女は決然とうなずいた。
(もう失敗は許されない――!)
ツルギが素早く振り返ると、視線の先には構えを整えたルナの姿があった。彼女は既に準備を終え、攻撃のタイミングを見計らっている。ツルギは、彼女がスキルを放つ前に正しい位置へ移動しなければならないと悟った。
ゴーレムの拳が地面を砕き、飛び散る瓦礫をかわすようにツルギは再び跳び上がった。空中で体勢を整えながら、ゴーレムの足元に滑り込むように着地する。しゃがみ込んだ姿勢のまま頭上を見上げると、揺れる鎖が目に映った。ツルギは素早くルナに叫ぶ。
「撃って!!」
ルナの『ファイア・ボルト』が灼熱の輝きを放ちながら空を切り裂き、一直線に飛んでいく。
ツルギはその瞬間を逃さなかった。彼女がスキルを放つ直前、ゴーレムの背後にある鎖に向かって跳び、炎の矢が到達する軌道に完璧に合わせる。
『ファイア・ボルト』が鎖に命中し、爆発的な火花が散った。同時に、ツルギは『ブラッドスペル・ブレード』で鎖を叩きつける。しかし、金属の束縛はあまりにも頑強で、完全に切り裂くには至らなかった。
「つーー‼」
歯ぎしりしながら、彼は悔しさを感じた。自分の攻撃も、ルナのスキルも確かに的を射ているのに、それでも鎖は断ち切れない。
その間に、ゴーレムは異変に気づいた。後ろの鎖が攻撃されていると察した瞬間、凄まじい怒りとともに暴れだした。鎖が揺れ、ツルギの身体が激しく振り回される。
ツルギは鎖に両足でしがみつき、左手でそれを掴み、右手に握る血の刃を再び振り上げた。揺れる鎖にしがみつきながら、彼の脳裏にフランの訓練がよぎる。
だが、思い出されたのは初対面の光景だった。フランが彼の腹を『ブラッドスペル・ブレード』で貫き、「少し血を分けてあげるわ」と微笑んだ場面が、不意に蘇る。
……本当に起こったことなのか?それとも夢だったのか?
ツルギには確信が持てなかった。だが、今の自分の中に流れる熱は確かに彼女の力に違いない――
彼は左手を鎖から放し、両手で真紅に染まった刃を掴む。すると、全身の静脈が浮き上がり、目が血走った。
腹部から湧き上がる灼熱が心臓、脳、そして腕へと集中し、それが力となって押し寄せてくる。
一瞬、視界の端にフランの笑みがちらついたが、ツルギは頭を振り、意識を鎖に集中させる。自分の魂を売らない限り、この力を使い切る覚悟はある――
「おおおおおおおおお!!!」咆哮を上げながら、彼は血の刃を鎖に押し込んだ。火花が散り、金属が軋む音が響く。刃が鎖を少しずつ貫き、ついに――
「ガキィィィン!!」
耳を劈く音とともに、鎖が切れた!
切断された鎖がねじれ、ゴーレムの背後に落ちる。その瞬間、ツルギも地面に落下した。膝を折りながらも剣を握る手を離さず、立ち上がる。そして、勝利の雄叫びを上げた。
「うおおおおおおおお!!!」
その姿を見つめるルナの目に涙が浮かぶ。彼女は小さく震える声でつぶやいた。「本当に……できちゃうかも……」
だが、戦いはまだ終わらない。フレッシュゴーレムは切断された鎖に気づき、激怒してツルギを見据えた。巨大な拳を振り下ろそうとした瞬間――
辺りにガラスの砕ける音が響き渡った。
それはルナが放った『ファイア・ボルト』が、ゴーレムの守る水晶を破壊した音だった。 怒りの矛先をルナに向けたゴーレムは咆哮し、彼女の方向へ突進を開始する。
※※※※※※※
目も、指も、肺の中の空気さえも、燃えている。
痛みは感じない――いや、感じる余裕などない。
血管を駆け巡る炎が俺を動かし続ける。鼓動は早鐘のように耳朶を打つ。
ゴーレムの巨体が視界を塞ぐ。その拳がかすめるたび、死の風圧が頬を裂く。
――動け。避けろ。反応しろ。
体が勝手に動く。まるで糸で操られる人形のようだ。遠くで自分が嗤っている。
口元が歪む。……楽しいのか?
その思考が脳を掠め、笑いが喉から溢れる。声にならない。
怖いはずだ。骨が軋み、内臓が痙攣しているのに――止まれない。
ゴーレムの注意がルナへ移った。今だ!
二本目の鎖が視界に捉まる。考えるより先に足が地面を蹴る。左足首へ――
震える手で剣を握り締める。指の感覚が消えそうなほど力を込める。
一撃。それだけだ必要な――
閃光。金属が軋む。
キィィンッ!
――切れない。
歯を食いしばる。腕の血管が破裂しそうだ。視界が暗転する。鎖しか見えない。
掌の血の温もりだけが現実を繋ぐ。
刃がリンクを喰い込む。ゆっくりと、確実に――
何も要らない。考えるな。進め。
――
バキィィ―――ン!!
心臓が跳ね上がる。
鎖が切れた。
本能で体が飛ぶ。地面が砕け散る。ゴーレムの拳が俺のいた場所を叩きつける。
衝撃波が背中を押しつぶす。
――立ってる。まだ、立ってる。
ゴーレムの咆哮が響く。地響きがする。でも、遠く感じる。
耳の奥で血潮の音が鳴る。……まだ嗤っている。
瓦礫が頬を切り裂く。
また一撃が来る。身を屈め、風が首筋をかすめる。
危ない…… 動きが鈍る。四肢が鉛のように重い。
ルナのスキルが切れた……? それとも……
――
巨拳が迫る。回避不能。
まずい――
この体勢でできるのは――
――
ドン――――!!