第一章5―悪魔の試用
ツルギとルナは塔の外の芝生で顔を合わせた。そこは塔を取り囲む野原に広がる、下草の茂った美しい場所だった。色とりどりの花々が咲き誇り、その多くはツルギにとって見慣れないものであった。それは、彼が花に対して特別な興味を持たなかったことも一因だが、何よりもそれらの花がこの奇妙で、彼にとってはまるで魔法のような領域に自生していたからだ。
ツルギの体は、負傷からわずか1日しか経っていないにもかかわらず、ほぼ完全に回復した。
ルナが持つ『治癒』のスキルで傷そのものを癒し、包帯がなかったため草から即席で包帯を編み出す『簡易合成』、さらに傷口と包帯を浄化する『浄化』を使って手当てしたおかげだ。
訓練が始まると、ツルギは動きに集中し、剣の扱いを習得しようとしていた。彼の一つなスキルは接近戦でしか使えないため、鎖を切った後、ゴーレムに捕まらないよう素早く動く必要があったのだ。
「ブラッドスペル・ブレード!!」
ツルギはスキルを発動しようと試みたが、初戦のときと同じく空振りに終わった。ルナはツルギの異変に気づき、少し離れたところから彼の様子を観察した後、慎重に近づいて助けようとした。しかし、ツルギは自分に対する苛立ちを隠しきれていなかった。ルナが自分を信じてくれているのに、彼女の期待に応えるほどの力をまだ発揮できていないという無力感が彼を苛んでいたのだ。
「どうしたの、ツルギ?」
彼女の優しい声に、ツルギの動きが一瞬止まった。握りしめていた拳が微かに震え、肩を落とすように大きく息を吐く。その目は地面に向けられ、汗で濡れた額に不快そうな表情が浮かんでいた。
「……スキルが発動しない……」
彼の声はいつもより低く、どこか自嘲的だった。まるで自分の無力さを噛みしめるように、ツルギは再び拳を握り直し、目の前の空間に虚しく振り下ろす。その拳が風を切る音は響いたが、それ以上の何も起こらなかった。
ルナはそんなツルギの焦りを感じ取り、どうにか彼の力になれないかと考えを巡らせた。そして、短い間じっと考え込んだ後、かつて読んだスキルに関する書物の一節をふと脳裏に浮かべた。
「スキルブロックかも……」彼女はためらいがちな声で言いかけた。
「スキルブロックだって!?」
「うん、本で読んだけどルナも実際に経験したことはないんです。どうやら呪いに似た状態らしくて、スキルを自分のものと認識できなくて発動できないのです。もしこれがツルギに起こってるなら、無意識に自分の『スキル』を拒否してるのかもしれないです……」
「呪いに似てるってか……」ツルギはステータスウィンドウにあった『呪われし者』の称号を思い出しながら、つぶやいた。
「そうか……まあ、今それを気にしても仕方ないだろう。急いでるわけじゃないしな?」
「そうですっ!!」
「じゃあ、俺はスピードと耐久力のトレーニングに集中するから、塔の周りを何周か走るぞ。」
「ルナは引き続き狙いの練習をしてくれ。バリアの同じ場所を狙ってできるだけ打ち込んでみてくれ。」
「はい!」
ツルギは、自分の問題について深く考えたくなかった。フランのことも思い出したくなかった。それ以上に、自分の欠点について直視する気にもなれなかった。だからこそ、訓練に集中することで、気を紛らわせようとした。
ツルギは、ルナが【ファイア・ボルト】を放ち、何もない空間を叩く様子を見つめていた。宙に浮かぶ柔らかな焦げ跡。それを目にした瞬間、彼はふと、自分がこの結界をすり抜けられたことの奇妙さに気付いた——炎のような非物質的なものさえ通れないのに。
彼の脳裏に、初めてこの塔へ近づいた時のあの異様な感覚が蘇る。そして、今ルナのスキルの軌跡を目の当たりにして、確信した。——おそらく、自分の体そのものが結界を通り抜けたのだ、と。
好奇心に駆られたツルギは、再び結界に手を伸ばしてみた。指先が結界に触れると、まるでゼリーか何かの液体に手を入れたような感覚が広がった。
「分かった……確かにそれだ。あのエリアを通った時に感じたのはこの感覚だったな。」
少年は思った――以前も見た通り、ルナ自身だけでなく、彼女のスキルもバリアを通過できないのに、どうして自分だけはほとんど抵抗なく進むことができたのだろう? その疑問は頭の中に残りながらも、ツルギには今、もっと急ぐべき問題があった。
時は流れ、二人は日々の訓練に励むうちに、いつの間にか一週間が過ぎていた。ツルギは相変わらずスキルを発動することができず、焦りが募るばかりだった。一方で、彼の持久力と敏捷性の訓練は驚くほど順調に進んでいた。
ツルギは、自分が日本にいた頃よりもはるかに速く、そして強くなっていることを実感していた。特に、学生時代の運動不足を考えれば、その変化は顕著だった。
彼は、自分のステータスが身体能力に関係しているのではないかと推測していた。トレーニングによってステータスが向上したわけではないが、それでも新たな身体能力に適応しつつあるのを感じた。
一方、ルナは狙いの訓練に集中していた。彼女は小さな炎の矢を召喚し、塔を囲む目に見えない結界の一点を狙い撃ち続けていた。
『ファイア・ボルト』が空中を飛び、結界にかすかな焦げ跡を残す。その動作を繰り返すたびに、彼女のショットはより正確で強力になり、着実に制御が洗練されていった。SPを回復するために小休止を挟みつつ、さらに高い精度を目指して訓練を続けた。
8日目が過ぎる頃には、二人の成長は目に見えて明らかだった。ツルギは周回を重ねるにつれて持久力が向上し、集中力を保ちながら速く、長く走れるようになった。ルナもまた、自分のスキルに対する自信を深め、同じ場所を何度も正確に撃ち抜けるまでになった。
太陽が沈む頃、二人は庭の中央で息を切らしながら再会した。お互いに疲れ切っていたが、目に見える進歩を実感していた。
「どうだった?」ツルギは額の汗を拭きながら聞いた。
「少し上手くなってきたかも」ルナは微笑んで答えた。「でも、それよりツルギはどうだった?準備はできた?」
「ああ、たぶんな……でも、これはかなり厳しい戦いになるな、もうわかるよ。」ツルギも頷いたが、その表情は勝ち誇ったものではなく、どこか思慮深げだった。
「ルナはそれをよく知てる……」
「まぁ、全力を尽くそう。」ツルギは無理やり笑みを浮かべて言った。「それでうまくいかなかったら、まあ、この塔での生活に慣れるしかないだろ?」
「ルナは、それでも構わないですけど……」ルナの笑顔は、次の戦いのことを考えると少し曇った。
二人は一緒に塔に入り、外の日差しは徐々に消えていった。
※※※※※※※
ツルギは部屋の中で横になろうとしたが、日本にいた頃のような快適さは明らかになく、精神的にはさほど気にしていなかった。何しろ異世界に来たことは、彼にとって夢の実現だったのだから。しかし、この塔は特に不毛であり、中世的な生活様式に慣れるのは思った以上に厳しかった。
だが、その夜、ツルギが眠れなかった理由は、決して物理的な不快さのせいではなく、心に渦巻く不安のせいだった。異世界に来た興奮が、最初は彼の心配を隠していたものの、今こうして冷たい暗闇の中で横たわっていると、その疑念が再び顔を出してきた。
彼は、この危険と困難に満ちた世界が自分の弱さを暴露し、幻想を打ち砕き、苦い現実だけを突きつけるのではないかという恐怖を感じていた。
ツルギは固い石の床の上で何度も寝返りを打ち、下に敷かれた薄い布はほとんど安らぎを与えなかった。彼の心には、相反する考えが渦巻き、その一つ一つが彼を深い恐怖と不安へと引きずり込んでいた。
やがて疲労が限界を超え、ツルギは不安定な眠りに落ちた。暗闇が彼の意識に染み込み、彼をさらに深く引きずり込んでいった。そして気がつくと、彼は見知らぬようでどこか馴染みのある場所に立っていた。広大で何もない風景の中、血のように赤い空が広がり、乾いたひび割れた大地が足元に広がっていた。地平線はどこまでも続き、生命の気配は一切なかった。
「お帰りなさい、ダーリン~♡」
ツルギは背後を振り返った。心臓は胸の中で激しく鼓動していた。そこにいたのは、間違いなくフランだった。彼のスキルを一つ残してすべて奪った悪魔であり、数歩離れた場所に立っていた。彼女の姿が彼の目の前に立っていた、その眼には冷たい残酷さが宿っていた。
「フ、フラン!?ここはどこなんだ!?」
ツルギは戸惑いを隠せず、鋭い視線をフランに向けた。しかし、彼の動揺を楽しむかのように、フランは軽やかな足取りで彼の周囲をゆっくりと回り始める。
「そんなこと、本当に聞く必要ある?」彼女はくすっと笑い、小首をかしげながら彼を覗き込む。その仕草は戯れる猫のようで、挑発的な余裕が漂っていた。
ツルギは表情を引き締めながらも、その場から動かずに彼女の動きを目で追った。本能的にここが自分の心の中の世界だと理解していたが、それでも目の前に再びフランが立っているという事実には困惑せずにはいられなかった。
「まあ、しょうがないね~説明をあげるわ。」フランはくすくすと笑いながら、ツルギの背後へと回り込む。肩越しに顔を寄せると、わずかに息がかかるほどの距離で囁いた。
「ここは夢の領域よ、わたくしとあなたの二人だけの世界に作り直してあげたの~♡」
甘い声が耳元をくすぐる。フランは彼の前へと舞い戻り、優雅に腕を広げてくるりと回る。
「ここで受けた傷は現実の身体に影響しないけど、痛みもトラウマも――」
「すべて本物よ。むしろ、現実以上に感じるかもしれないわね。肌に痕は残らなくても、体は傷を覚えているの。そして、ここで死んだら……心が壊れるかもしれないわ。」
「どうして?どうしてそんなことをー」彼が問いかけると、フランはくるくると楽しげにステップを踏みながら彼の周りを回った。その顔には無邪気な笑みが浮かんでいるが、その瞳の奥には冷たい輝きが潜んでいた。
「その答えはね……ダーリンにチャンスをあげるためだよ~」彼女は足を止め、片手を腰に当てながら、もう片方の指を軽く振る。
「チャンスだって……?」
「えぇ、生き残るためのチャンスをあげるわ。」フランはにやりと微笑み、踵を返して彼の背後へ。「これから直面する試練――特にフレッシュゴーレムと対峙するには、もっと強くならないとね。でも、これを優しさだなんて勘違いしないで?この試練を乗り越えられるかは、あなた次第。」
フランはふわりと舞うように距離を取りながら彼の正面に立ち、いたずらっぽい瞳で彼を覗き込む。
「弱いままなら、ここで死んでわたくしも手間が省ける。でも、生き延びたら……少しは役に立つかもしれないわね~」
彼女が真紅に輝く血の剣『ブラッドスペル・ブレード』を召喚したとき、その嘲笑はさらに深まった。その刃は彼女の血で作られており、不吉なエネルギーが脈動していた。まるで生きているかのように、召喚された瞬間から空気を切り裂く鋭さを持っていた。
「さあ、準備はいい?ダーリン♡」
フランは目にも止まらぬ速さでツルギに突進した。彼女の刃は致命的な正確さで振り下ろされ、ツルギはかろうじて回避したが、刃先が腕をかすめた。
「ぐっ――!!」
痛みが彼の感覚を爆発的に襲った。それは彼が予想していた以上に強烈で、彼はよろめきながら後ずさりした。
「な、何だこれー!?かすっただけなのに、この痛さは――!」
左腕から血が滴り落ちた。彼はもう彼女と戦うには自分の『スキル』を使うしかないと分かっていたが、それがどうやって使うのか分からなかった。与えられた力、いや、押し付けられた力は、自分のものではないように感じられた。
胸の鼓動が強くなるにつれ、無力感が彼を支配していくのを感じた。
「何をそんなに怯えているの?あなたにもこのスキルがあるでしょう?さあ、無駄な時間を過ごしていないで、反撃しなさい。ここで自分すら守れないなら、フレッシュゴーレム相手に一秒も持たないわよ。」
「……もしかして、無意識にその力を拒んでいるのかも……」ルナの声が心の奥で静かに響いた。彼女の言葉は優しくも、彼の胸を締め付けるようだった。
ツルギの思考は暗闇に沈み、逃れようのない現実と向き合わざるを得なかった。
彼はかつての自分を思い出す。異世界に来た瞬間、まるで物語の主人公になったかのような錯覚に陥った。ステータス、スキル、魔物――すべてが夢にまで見た冒険の始まりに思えた。最初の敵を前にした時、心が震えたのは恐怖ではなく、昂ぶりだった。
しかし、それは幻想に過ぎなかった。
フランとの出会いが、その幻想を無残に打ち砕いた。彼女は美しく、強く、そして――無慈悲だった。ハーレムどころか、スキルさえ奪われ、逃げることすら許されなかった。思い描いていた"異世界"は、彼を"特別"にするどころか、むしろ無力さを突きつけてきた。
ツルギはルナを見た。彼女は可愛らしく、どこか儚げで、それなのにどこか彼を不安にさせる。彼女の笑顔の奥にある何かに、彼は気づいていた――自分には届かない、何かを。
俺は……弱い……
足元は砂地のように不安定で、いくら足掻いても沈んでいく。
彼は拳を握りしめ、心の奥へと潜る。そこには、閉ざされた扉があった。――彼が自分で閉じた扉。
その先には眠る力がある。しかし、それはただ待っているのではない。彼自身の恐れや迷いが絡みつき、扉の向こう側へ踏み込むことを拒んでいた。
……だが、ツルギはゆっくりと手を伸ばす。
扉の前に立ち、冷たい《取っ手》に触れた瞬間、指先にじんわりとした痛みが広がった。これは、本当に自分のものなのか――そんな疑念が頭をよぎる。しかし、もうわかっている。
今の自分は、思い描いていた主人公とは程遠い。ただの、特別でもなんでもない存在だ。だが――それでも。
目の前にあるこの力は、確かに《俺のもの》だ。
理想の自分じゃないからって、今の俺を否定するのか?そんなのは違う。たとえ『ブラッドスペル・ブレード』が完璧な力じゃなくても、俺が主人公になれる道は、まだここにあるはずだ。フランが俺を選んだ理由が、どこかにあるはずだ。
なら――
ツルギは「取っ手」を強く握りしめる。扉がわずかに軋み、重々しく開いていく感覚があった。そこに広がるのは、未知の恐怖ではなく、進むべき道だ。
彼は目を閉じ、深く息を吸った。自分の血を感じ、命の鼓動を聞く。刃を思い描き、まるで手を伸ばせば届くかのように――
やがて、指先に鋭い熱が走った。
目を開けると、彼の掌に溜まった赤い雫が渦を巻く。静かに、しかし確実に形を成していく。
それは彼の鼓動と同じ速さで脈打ち、やがて深紅の剣へと姿を変えた。
――理想の主人公じゃなくても、俺は俺の力で進むんだ。
ツルギは刃を握りしめた。
『ブラッドスペル・ブレード』が、ついに彼の意志に応えた。
ツルギは手にした武器を見つめた。驚きと安堵が彼の中に入り混じり、溢れていた。その刃は温かく、まるで生きているように感じられた。それはまさに彼の体内の血、彼の魂の延長のようだった。彼はついにこの力を受け入れ、そして手中に収めたのだ。
ほんの少し、力が抜けたような感覚があった。まるで生命力がその刃に吸い取られたかのようだった。おそらく、実際にそうだったのだろうが、ツルギは気にしなかった。ついに彼は自分のスキルを使えたのだから。
フランは彼のスキルの発動を目にし、鋭く目を細めた。そして、彼女は静かに呟いた、「ようやく気づいたのね。」彼女は微かに認めるような声で呟いた。「さあ、本当にその力を扱えるかどうか、見せてもらおうかしら。」
彼が反応する間もなく、フランは一気に間合いを詰め、血の刃を振り上げた。ツルギは本能的に武器を構え、その一撃を受け止める。
キィンッ!
血の刃同士がぶつかり合い、甲高い音が鳴り響く。衝撃が腕を痺れさせ、刃を通じて体中に震えが走る。衝撃の強さに膝が折れかけるも、ツルギはなんとか踏みとどまった。だが、次の瞬間――
「まだまだ、これからよ~♡」
フランは笑みを浮かべたまま、流れるような連撃を繰り出した。まるで舞踏のようにしなやかで、しかし正確無比な斬撃。血の刃が空を裂き、シュッ! シュッ!と鋭い音を立てる。ツルギは息を詰まらせ、必死に刃を振るって応戦する。
ギィン! キィン! ズバッ!
必死に防御するものの、フランの攻撃はわずかに軌道を変えられるだけで、すべてを防ぐことなど到底できない。血の刃がかすめるたびに、肌を切り裂く鋭い痛みが走った。
頬をかすめた一撃は、目を狙ったものだった。首元を浅く切られたのは、頸動脈を狙っていた証拠。左腕に走る細長い傷跡は、胸を外してわざと斬られたものだ。
くそ……このままじゃ――!
焦りが脳裏をよぎるも、フランの攻撃は止まらない。彼女の血の刃が寸分の狂いもなく迫り、ツルギの防御を紙一重で突破する。
手応えは、鋼の刃とは異なり、まるで水圧に切り裂かれるかのような感覚だった。鋭く、それでいて滑るように肌を削ぎ取っていく。
「躊躇しないで!」
刃を彼の左肩に振り下ろし、激痛を与えた。
「言っておくけど、わたくしは手加減なんてしないから。本気を見せなきゃ……殺しちゃうわよ?」
焼けるような痛みが駆け抜け、ツルギの表情が一瞬歪む。彼女はその僅かな隙を見逃さず、素早く体を回転させ、裸足の足でツルギの腹を鋭く蹴り飛ばした。
「敵はあなたが迷っている間、待ってくれると思う?防御ばかりじゃなく、意志を持って攻撃しなさい!その牙を見せなさい、アカバネ・ツルギ!」
猛烈な衝撃が彼の体を宙へ弾き飛ばす。数メートル先まで吹き飛ばされ、背中から地面へと叩きつけられた。肺の中の空気が一気に押し出され、喉の奥から鈍いうめき声が漏れる。
痛む体を押さえながら、ツルギはすぐに立ち上がろうとした。――俺は……まだ……
「それがあなたの全力、ダーリン?もっと期待してたのに……まさか、わたくしがあなたを過大評価してたなんて……信じられないわね。」
奥歯を強く噛み締める。そんなもん、もう……うんざりだ。
拳を地面に押し付け、ツルギは再び立ち上がる。膝は震え、視界は揺らぎた、だがしかし、それでも彼は立ち上がった。
そして――フランの目を真っすぐに見据え、刃をゆっくりと持ち上げる。
「まだ終わっちゃいねぇよ……」
彼の目に浮かぶ執念に、フランの唇が微かに持ち上がった。彼女は興味深そうに首を傾げる。
「ふふっ……そうこなくっちゃね。」
次の瞬間、フランの刃が疾風のように迫る。鋭く切り裂く空気の音が耳を打ち、ツルギの心臓が一瞬だけ強く脈打った。しかし――今の彼には見えていた。
……やっぱり、わざと隙を作ってる。
完璧に見える攻撃の中に、ほんの僅かな狂いがある。ツルギはぎりぎりのタイミングで身を翻し、刃の軌道を逸らす。目の前を赤い閃光が駆け抜け、肌をかすめる鋭い風圧が残る。
次に、彼女は間髪入れずに突進する。動きは瞬間的で、致命的な正確さを持っていた。しかし、ツルギは備えていた。
息を詰め、全力で踏み込む。真正面から迫るフランの刃を、渾身の力で受け止めた。刃と刃のぶつかる音が響き、衝撃が空気を震わせた。
ツルギは確信する。
フランは隙を作っている。ただの殺し合いではない。彼を"試して"いる――いや、"鍛えて"いるのだ。
ツルギは息を整えながら立ち位置を変えた。これまでの動きとは違い、彼の防御は単なる反射ではなくなっていた。一撃一撃を見極め、最適な回避経路を探る。
「……ッ!」
フランの攻撃がさらに激しさを増す。
シュンッ! シュンッ! キィンッ! ガキィンッ!
ツルギは紙一重でかわしながら、次々と繰り出される攻撃の流れを読んでいた。彼女の動きは鋭く、容赦がない。だが、ツルギは本能と研ぎ澄まされた集中力で、わずかなリズムの綻びを見抜き、全身を駆使して対応していく。
刃を交わしながらも、己の武器を巧みに操り、襲い来る斬撃の軌道をわずかに逸らしていく。かすり傷が腕を裂き、頬をかすめるものの、それすらも受け入れる覚悟が彼を支えていた。
彼女の猛攻に飲み込まれることなく、ツルギは研ぎ澄まされた動きで防を繰り返し、遂に彼自身の刃を反撃のために振るう
――その一閃に、これまで積み重ねた全てが込められていた。
フランが剣を交差させて受け止める。その勢いに彼女の足がわずかに後退する。ツルギはその小さな変化を見逃さなかった。
「……ふふ、少しはマシになったじゃない、ダーリン?」フランは楽しげに微笑むが、その瞳にはかすかな驚きが宿っていた。
ツルギは答えなかった。今は言葉を交わす余裕などない。ただ、剣を握る手に力を込めるだけだった。
見えちゃうぞ!フランのアタック・パターンが!
フランの攻撃は圧倒的だが、どこか"作られた"ものだった。実際の戦場のように無秩序ではなく、まるでゲームのボスのように規則性がある。これを有利に利用して戦いの流れを変えた。
彼女の刃を防ぎながらも、ツルギの視線はフランの肩や足の動きに集中していた。攻撃の合間に現れる僅かな隙を、彼は逃さなかった。
いける!
彼女の次の一撃が振り下ろされる瞬間、ツルギは地面を蹴って横へ飛ぶ。その刹那、彼の剣が計算された弧を描き、フランの脇腹を狙った。
ザッ!!
紅蓮刃が風を裂く。
しかし——
「……まだ甘いわね。」
塵の中、ツルギは目を見開き、フランが不利な位置から驚異的な技を繰り出すのを目撃した。彼女は伸ばした脚の下を腕で通し、ツルギの刃を見事に防いでいたのだ。
甲高い音が響き、彼の刃から伝わる衝撃が骨を震わせる。
ツルギが状況を把握する暇もないまま、フランは彼の剣を弾き返し、そのまま体を回転させて地面に手をつき、さらなる勢いを加えて。
彼女の足が信じられない速さで降りてきたとき、ツルギは自分が絶体絶命の状況にいることを理解した。すでに攻撃しようとして体勢を崩していた彼には、防御する手段がなかった。ただその蹴りを正面から受けるしかなく、無事であることを祈るしかなかった。
まずい——!!
重く鈍い衝撃が響き渡り、地面が震えた。空気が弾けるような衝撃と共に、ツルギの身体は容赦なく地面に叩きつけられる。
「……がっ……!!」
血の水たまりが顔の下に広がっていた。彼の右肩は完全に潰れていた。
「まったく……それは残念ですわねぇ。」その緋色の瞳は冷たく、まるで氷の刃のように彼を見下ろしていた。
フランが背を向け、静かに歩みを進める。
足音は、瓦礫の上で微かに響き、風がわずかに舞い上がる灰を運んでいく。
背後に横たわるツルギは、依然として動かない。細かな砂粒がカラカラと地面を転がる音がした。
だが、
その瞬間――
チクリ、と微細な痛みがフランの足元を刺す。
「……?」
フランの歩みが止まり、わずかに瞳が細められる。
彼女は優雅な動きで足を上げ、目を凝らしてみると、小指のつま先にわずかな切り傷ができていた。
非常に小さく浅い傷。けれど、これは彼女自身の動きによるものではなく、明らかに鋭利な刃によるものだった。
(まさか……)
その証拠に、傷の端には乾きかけた血が薄く滲んでいた。 『ブラッドスペル・ブレード』――ツルギの剣の軌跡が、確かに彼女に届いていた。
フランの表情がわずかに曇った。
一方、ツルギはクレーターの中に横たわり、自分の血がじわじわと地面に広がるのを感じていた。鉄の匂いが鼻を突き、塵と瓦礫が冷たい肌にまとわりつく。
痛みは止まることなく、容赦なく彼の意識を侵食していた。
彼は顔を歪めながら、必死に動こうとする。しかし、体は重く、肩の激痛が脳に鈍い衝撃を送り続けていた。
そんな彼に、フランはゆっくりと歩み寄る。足音は静かで、まるで死神の足取りのように響いた。
彼女の視線がツルギの体を舐めるように這う。潰れた肩、裂けた服、全身に刻まれた無数の傷……
「しぶといわね。」フランは小さく息をつき、嘲るように微笑んだ。「でも、もう限界でしょ? 体は壊れかけて、力も尽きかけている……このまま続けても、無駄よ。」
ツルギの視界はさらに霞み、意識が溶けていくような感覚に襲われる。
くそっ……立て……!
思考はまとまらず、鼓動の音だけがやけに耳に響いていた。
「もう一度チャンスをあげるわよ……」フランの声が霧の中から響いた。その声には、もはや先ほどの冷笑ではなく、ほんのわずかに興味と称賛が混じっていた。
「想像もつかないほどの力よ。最強の者ですら震え上がるような、圧倒的な力。代償は……あなたの魂、ただそれだけ。考えてごらんなさい? こんな苦しみを二度と味わわなくてもいいのよ。」
彼女の手がゆっくりとツルギの頭上へとかざされた。
「……はぁ……はぁ……」ツルギは息を荒げるだけで、言葉を紡ぐ余裕もなかった。
体は鉛のように重く、視界が渦を巻いていた。
「言いなさい、アカバネ・ツルギ。」
フランの声が、囁くように近づく。
「たった一言で、二度と弱さを恐れることはなくなるわ。」
その甘美な誘惑が耳にまとわりつく中――
ツルギは、痛む体に鞭を打ち、震える左腕を動かした。
「……っ……」
筋肉が悲鳴を上げる。それでも、彼は地面に手をつき、ゆっくりと上体を起こそうとした。
立て……立つんだ……!
泥と血にまみれた手が、小刻みに震えながらも確かに地面を押していた。
やがて、朦朧とする意識の中で、ツルギはフランを見据えた。
血に染まった目が、闇の中で僅かに光る。
「……いや……」
彼の声はかすれていたが、その瞳だけは決して揺らがなかった。
「俺は……お前の手を……ぜったい取らない……!」
フランは静かに彼を見つめ、何を思ったのか一瞬だけ微笑を消した。
だが次の瞬間、彼女はくすりと笑い、つまらなそうに肩をすくめた。
「まあまあ……こんなに長く生き延びるとは思わなかったわ。」
彼女は一歩退き、かすかな笑みを浮かべる。
「それに、わたくしを拒む力が残っているなんて……あなた、思ったより粘り強いのね。」
フランはゆっくりと一歩退き、僅かに首をかしげながら、優雅に指先を唇に添えた。
「この状態で、わたくしに一撃加えるなんて……ギリギリだけど、合格といったところかしら。」
ツルギの視界は、暗闇に包まれていく。
最後に見たのは、フランの妖艶な笑顔――それが、遠く滲んで消えていく。
「また次回ね、ダーリン~♡」
その言葉を最後に、ツルギの意識は完全に闇に落ちた。