第一章4―塔の中の少女―第2部
ツルギは壁にもたれかかり、腕を軽く組んでルナを見つめた。彼の目には、目の前の少女がずっと一人でこの塔にいたことへの同情が滲んでいる。ルナは彼の視線に気づいているはずだったが、気づかないふりをして膝の上の羽ペンを指先でくるくると弄んでいた。
その仕草がどこか恥ずかしげに見えて、ツルギは静かに口を開いた。
「もし俺にできることがあれば、遠慮なく言ってくれよ!」
ツルギの声は優しかったが、どこか不器用でもあった。彼は彼女を気遣うつもりだったが、どう接すればいいのか模索しているようにも見える。
「ありがとう……それを聞けて嬉しいです……ルナも、できる限りツルギを助けます……」
ルナはゆっくりと視線を上げた。ツルギの瞳を一瞬だけ見て、すぐにまたノートへと目を落とす。その仕草は、恥ずかしさとも警戒とも取れる曖昧なものだった。
「この土地は初めてなんですよね?いろいろ知ることがあるです……」
「焦るなよ。それより先に、風呂に入れる場所とか、食べ物と水がある場所を教えてくれたら助かるんだけど。」
「あぁ、そうだ!人間には必要なんですね……」ルナは、突然何かを思い出したようにぱっと顔を上げると、ツルギを見つめて目をぱちぱちと瞬かせた。「……気づかなくてごめんなさいです!」
「ーーえっ……?ルナちゃん?」
ツルギは言葉を失い、目を丸くする。ルナの無邪気な見た目に惑わされているのではないかと、一瞬眉をひそめたが、彼女が笑いをこらえきれずを見て、彼は思わずため息をついた。
「えへへ、前にツルギが魔族だって思わせた仕返しです!」ルナは舌をちょこんと出し、小さく笑った。
その笑顔を見て、ツルギは彼女と出会ったばかりの時のことを思い出した。ほんの少し前の彼女は、何かに怯え、まるで閉じこもっていた。しかし、短い時間しか経っていないのに、こうして冗談を言えるほど彼に対して心を開き始めているのがわかる。
ツルギは、ルナの変化を不思議に思いながらも、肩の力が抜けるのを感じた。冗談を言えるほど打ち解けた様子を見て、これなら少しは聞きやすいだろうと考える。
あの時は、「……ずっと一人だった?」と尋ねただけで涙を流されてしまった。けれど、今ならもう少し踏み込んでも大丈夫かもしれない。
「ルナちゃん……」
彼の真剣な口調に、ルナはぴたりと動きを止めた。何か重大な話を切り出そうとしているのが明らかだったからだ。ノートに視線を落としたまま、彼女は静かに彼が続けるのを待つ。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?ここで何が起こってるのかさ。」ツルギは少しだけ身を乗り出した。「それにまず、どうやってキミここに来たのかとか、この塔は何なのかとか。」
ルナはノートを強く抱きしめた。その指先はわずかに震えているように見える。少女はツルギから視線をそらす。
彼女はその質問が来るだろうと予感していたが、準備ができているわけではなく、むしろその予感が緊張を増すばかりだった。
「ごめんなさい、ツルギ……信じられないかもしれないけど、ルナもこの場所についてあまり知らないです……」
ツルギが困惑した顔を浮かべると、ルナの不安もさらに強くなり、彼女はもう使っていないノートで顔を隠した。
「ルナちゃん……何してるんだ……?」ツルギの返事に、少女はさらに動揺する。でも、少年は続けた。「そんなに不安にならなくてもいいんだ。ただ、この場所についてもう少し知りたいだけだよ。俺のことも疑問に思ってるだろう?」
ツルギはまだルナに対して多少の疑念を抱いていたが、彼女が悪意を持って情報を隠しているとは思っていなかった。
ツルギはルナの様子を見て、小さく息をついた。これ以上問い詰めても逆効果かもしれない。彼女が少しでも話しやすくなるように、別の方向から切り込むことにした。
「じゃあさ、ルナちゃん。もし気が楽になるなら、俺のことを先に聞いてもいいぞ?」ツルギは軽い調子で肩をすくめてみせる。「ほら、ずっと気になってることがあるだろ?俺に何でも聞いてみなよ。その代わり、その後はちゃんとルナちゃんの番だからな。」
ルナはぴくりと反応し、ノートで隠していた顔をゆっくりと下ろした。彼の目をちらりと見て、少しだけ唇を噛む。
「……そ、そんなの……ルナは別に……」
「はい、嘘。顔に出てるぅ~」少年は軽い調子でからかった。
「うぅ……」ルナは深く息を吸い込んでから口を開いた。「……じゃあ……」
彼女は一瞬、言葉を探しているようだったが、次の瞬間──
「何がツルギをそんなボロボロにしたの!?」
唐突で、しかも妙に刺さるような鋭さのある声だった。ルナはまっすぐツルギを指差しながら、かなり無遠慮な口調で言い放つ。
「えっ……」
ツルギは思わずのけぞった。あまりにストレートな物言いに、一瞬答えるより先に苦笑が漏れる。
「ルナちゃん……そんな強気で来るとは思わなかったぞ。」
「だ、だって……気になってたんです……それに、なんか聞きづらくて……」
ルナは顔を赤くしながら、ノートを抱きかかえるようにして俯いた。先ほどまでの強気な態度はどこへやら。
「まあ、それなら答えないわけにはいかないな。」
しかし、冷静を装いながらも、ツルギは何から話せばよいのか分からなかった。そもそも何を話せばいいのか? また嘘を重ねるとなると、いずれすべてがバレ、怪しい人物だと暴かれてしまうだろう。
「変なモンスターに不意打ちを食らって、避難場所を探してたんだ。」
結局、彼は簡単な説明に終始した。
「野獣だったんですなの……ルナが見た傷とも合ってます……間に合って治療できてよかったです。」
『野獣』、か…… ここではモンスターをそう呼ぶんだな。それにしてもこの自動翻訳はどうなっているんだろうな…… 次にフランに会ったら、それが彼女の仕業なのかどうか確かめてみるか。
「ほら、ルナちゃん。俺はちゃんと答えたぞ?次は君の番だ。」
「ずるい!ツルギはすぐに答えたじゃないですか!しかも全然情報がないです!」ルナは頬を膨らませた。
「はは、悪い、悪い。でも本当に話すことがないんだよ。」ツルギは肩をすくめ、壁にもたれかかる姿勢を少しだけ緩める。
「正直なところ、気づいたらこの辺りにいたんだ。それであのモンスターに襲われて、逃げてきただけでさ。追加で言えることなんて……あぁ、前にも話しただろ?俺はすごく遠い場所から来たんだって。」
彼の言葉はあくまで慎重だった。ルナに嘘をつきたくない。けれど、フランのことや、自分が『異世界人』であることは言えなかった。いや、言いたくないというよりも、ルナを巻き込むのが怖かったのだ。自分ですら理解できていない状況に、彼女を引きずり込むわけにはいかない。
「でもキミは本当に何も知らないのか?少しでも情報があれば助かるんだけど。ここがどういう場所なのか、せめてこの塔についてだけでも……。」 ──彼女もまた、話せないことがあるのかもしれない。ツルギはそれを察しつつも、何も言わずに彼女の返事を待った。
ルナの指先は、抱えたノートの端をかすかにいじり始める。
彼女の状況もまた、ツルギのものと似ていた。話せないことがあるのは、彼女も同じだった。ただ、答えたくないのではなく、自分の立場から何をどう説明すればいいのか分からなかったのだ。
「ルナも……最初にどうやってここに来たのか分からないんです……数年前に目が覚めたら、ここにいたんです。それ以来、この塔に縛られてるです。」
ツルギは眉をひそめ、ルナの言葉を反芻した。「縛られてるって……?」その声には、ただの好奇心ではなく、明らかな困惑が滲んでいた。「俺は普通に入れたんだよな。」自分の胸に手を当て、塔の入り口からここに至るまでの記憶を辿る。特に障害があったわけでもなく、扉を開けて階段を上がっただけだ。「でもルナちゃんは……出られない?」
「うん、そうです……」
「どういうことだ?俺が入れたってことは、何か特別な鍵が必要とかそういうんじゃないんだろ?」
「それは……ちょっと複雑な話です……」
「ルナちゃん?」
呼びかけると、ルナはハッとして顔を上げた。彼の目がまっすぐに自分を見つめているのに気づき、少し頬を赤らめて視線を逸らす。
「ごめんなさい……ツルギ。ルナも自分で説明できないんです……」
「まあ、無理に話さなくていいさ。」
「えぇー?」
「ルナちゃんが言いたくないなら、それでいい。ただ……ちょっと気になるだけだよ。」
ツルギは気楽そうに言ったが、その目はルナの手元で握られているノートに一瞬だけ鋭く向けられていた。
「でもな、ルナちゃん。俺がここに来れたってことは、出口がないわけじゃないんだろ? それにさ……もし他に何かあったとしても、俺はキミを助けたいんだよ。ルナちゃんが俺を治してくれたみたいにさ。借りっぱなしは性に合わねぇんだ。」
その言葉を聞いたルナは、思わず小さく微笑む。それは彼女にとって完璧な言い訳だった。心の中で、(ツルギが助けるって言ってるなら、何か悪いことがあってもルナのせいじゃないよね?)少女はそう思った。
だが、それでもルナはツルギを欺いているような気持ちになりたくなかった。彼が誤解を抱かないように、何か提案をしようと考えた。「こうしよう、ツルギ。まずは塔の構造を案内してから、ルナがここに閉じ込められている理由を詳しく説明するよ。それでいいですか?」
「それでよいよ。案内してくれ。」ツルギはすぐに立ち上がった。学生用のジャケットに手を伸ばし、それを羽織ると急いでボタンを留めていく。ジャケットの内側が包帯越しの体にしっかりと馴染む感触があった。
※※※※※※※
ルナは塔の内部へとツルギを案内する。その構造は堂々としており、不思議なほど均整が取れていた。塔は5階建てで、それぞれの階には中央のホールを囲むように同じ間取りの部屋が5つずつ並んでいた。ホールは広く円形で、建物全体を貫く螺旋階段が各階を結んでいた。
階を進むにつれて、部屋の統一感が目立つ。殺風景な部屋には本棚が並び、本が詰まっている以外には際立った特徴がない。塔全体の単調さが妙に不安を感じさせた。さらに興味深いのは、この場所が囲いとして選ばれたこと自体が珍しいことだった。
「あの場所から水を取るです……」ルナは窓の外にある井戸を指差しながら、と説明した。「そんなに難しくないですが…使い方を教えましょうか?」
「説明だけで大丈夫だと思う。」
ツルギはその返答に驚いた。少女は塔の内部から出られないと思っていたからだ。しかし彼女は、塔の外に足を踏み入れることができる小さな領域があり、彼女を制限しているのは塔そのものではなく、塔を取り囲む目に見えない結界だと説明した。
ツルギは、ルナが指差した窓から身を乗り出し、下にある即席の庭園を目にした。それは塔の厳格な内装に対して、妙に穏やかな小さな緑地だった。
「俺、植物のことはあまり詳しくないけど、この庭はよく手入れされてて綺麗だね。」
ルナはほんのり頬を赤らめ、微笑んだ。「ありがとう、ツルギ……ルナはこの場所をできるだけ綺麗に保つようにしてるんです……本と同じで、これがルナを支えてくれる数少ないものの一つだから……」
※※※※※※※
二人はルナの部屋に戻り、ルナの部屋で簡単な朝食を取った。朝食は、ルナの『スキル』の一つ、『食物創造』で作ったパンだった。
ルナは、そのパンをいつも持ち歩いている左腿に括り付けたナイフで半分に切った。ツルギは、彼女が案内してくれたどの部屋にも他の生活道具が見当たらなかったため、ナイフについて聞こうかとも思ったが、結局黙ってパンを受け取った。
ツルギは地面に座り、パンをかじりながら、ルナが自分を閉じ込めている結界の仕組みを説明するのをじっと聞いていた。彼は食べ進めながら、できる限り注意を払った。
パンを飲み込んだ後、ツルギはゆっくりと話し始めた。「つまり、整理するとだな……塔の地下にある5つのクリスタルが見えない結界を作ってて、誰も出入りできないようにしてるんだな。しかも、それらを守ってる肉体ゴーレムは倒されるたびに強くなるってことか?」
ルナは真剣な顔でうなずいた。「そう……その通りです……ルナも何度か挑戦したけど、ゴーレムはクリスタルに辿り着く前に復活しちゃって……ゴーレムはもうルナよりずっと強くなってるから、諦めたんです……」
ツルギは顎をさすりながら、彼らの選択肢を慎重に考えた。「それで、そのゴーレムはクリスタルにつながっている鎖から力を得てるってことか?」
ルナは手書き図を広げた。ノートを抱えながら、指先でそこに描かれた図を静かになぞっていた。線のひとつひとつを確認するように丁寧な動きだったが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「鎖はエネルギーをクリスタルとゴーレムの間で行き来させていて、それが結界を保ってるんだと思うんです。」
「じゃあ、その鎖を切ったらどうだ?ゴーレムの力の源が断たれて、クリスタルを破壊できるようになるんじゃないか?」
「それは……できるかもです。でも鎖はすごく頑丈なんです。ルナには鎖やクリスタルを守る檻を傷つけられるような攻撃手段がないし……ゴーレムも絶対に邪魔してくるです。簡単じゃないと思います。」
「まあ……やりがいのあることは簡単じゃないもんだ。ゴーレムを出し抜いて鎖を壊すしかないな。」
「出し抜く問題じゃないですよ、ツルギ……鎖を切るスキルなんか持ってるんですか?」
「わからないけど……やってみないとわからないだろ?」
彼の軽口に、ルナの表情がふっと陰る。視線が足元へと落ちた。「ルナが全部話したのは、この場所で何が起こってるかちゃんと知ってほしかったからです。」彼女は静かに言葉を紡ぐ。「ルナが治療したからって、助ける義務なんて感じなくていいんです。」
「ツルギが結界の中に入れたってことは、たぶん出られるかもしれないんです。だから、こんなことに巻き込まれる必要はないですよ?」ルナはそう続けたが、ツルギは少し身を乗り出して彼女のノートを覗き込むと、無表情のまま伸びた。
「はい、はい、分かてるよ。」彼の何気ない反応にルナは僅かに眉をひそめた。
「それで……?」ルナは心配そうにツルギを見つめ、次の言葉を待つ。その小さな肩がわずかに強張っている。ツルギはその様子に気づくと、いたずらっぽく微笑んだ。
「俺が逃げるかもって心配しなくていいよ。ルナちゃんを助けたいんだし、もしこの場所を出たいなら、俺が手を貸してやるよ、お姫様。」
その言葉にルナの目が見開かれた。顔がみるみる赤くなった。慌てて両手で顔を隠そうとするものの、頬の赤みは指の隙間からもはっきり見えていた。
「ツ、ツルギ、今ルナのことをお、お姫様って呼んだ!?」
「変なふうに思わなくていいよ、ルナちゃん。ただの冗談さ……それより、お姫様って言う前の話に注目した方がいいよ。」
「ツルギ、やっぱりルナの騎士です!」彼女が嬉しそうに声を弾ませると、ツルギは少し照れくさそうに後頭部を掻いた。
「ええっと……計画の話をちゃんと終わらせないとな、ルナちゃん……」
「ツルギごめんねけど、そう呼んでくれたのが嬉しくて、ちょっと興奮しちゃったです。」
「いいんだよ、わかるよ。この場所から出るのをすごく楽しみにしてるんだろう。」
ルナは小さくうなずいたが、その目にはどこか複雑な感情が滲んでいた。
「実はね……ツルギがここにいるなら、もう数年くらいこの場所にいてもいいかな……って……」
その静かな声がツルギの胸に重く響いた。彼はすぐに反論することなく、じっと彼女の言葉を噛みしめた。
彼が彼女の提案について考えている時、過去のトカゲ鳥との遭遇が頭をよぎった。彼はその時死にかけた経験や、次の戦いでも生き延びられる保証がないことを思い出した。
「ツ……ルギ……?」
「ちょっと待って、ルナちゃん。」
「えっ!?う、うん……」少女は彼の前で正座し、辛抱強く彼の返答を待っていた。
ツルギは腕を組み、ルナも彼に合わせて首を傾けた。「ん……」
最終的にツルギは右手を握り、それを左手の上に重ねて、結論に達したことを示した。
「ルナちゃんに提案があるんだ!」
ルナの顔には、困惑したような表情が浮かんでいる。
「はい!?」
「ゴーレムと一度だけ戦ってみるんだ。」
「えっ?どうして?」
「せっかくだから一度は試してみたいんだ。けど、無駄死にはしたくないから、これは完璧な妥協案だろ?」ツルギは最後のパンを口に運び、立ち上がる前に言った。
「どういうこと?」
「簡単な話さ。もしゴーレムに勝てそうにないなら、退却してこの塔で平和に暮らせばいいんだ。」
「本当に?本当にここにルナと一緒にいるの?きっと退屈すると思うけど……」
「まあ、俺みたいなやつにとっては隠遁生活も悪くないんだよ……実家にいたら多分そんな未来になってただろうし。でも、こっちには可愛い子がいるから、むしろこっちの方がいいかもな。」
「ツルギを巻き込んでごめんなさい。最初はルナがゴーレムと戦うのに興奮して、塔を出ようって言ったのに、今はそんなに乗り気じゃないみたいで……変に思うよね……?」
「気にするなよ、気持ちはわかるから。」
「分かている……の?」
「そうだよ。だから謝る必要も心配する必要もない。準備に集中しよう、な?」
「は、はいっ!」
それは彼女が予想していた答えではなく、その意味がわからなかったわけでもない。誰にでも出せるような答えであり、本気でそう思っているわけではない可能性があったからだ。
しかし、
ルナにはそれが違うと感じられた。最後に人間と関わったのがいつだったかさえ覚えていないのに、なぜかツルギの誠実さを感じ取ることができた。
「ツルギ……」
彼女は微笑んだが、その微笑みは彼女の心を刺し、痛みを伴った。それでも顔を上げ、微笑みでそれを隠そうとした。
「よし、じゃあ準備だな。一度だけの挑戦だから、絶対に無駄にはできない。じゃあ、訓練を始める前に、お互いの戦闘能力についてもっと知っておいた方がいいと思うんだ。」
彼は目を細めて太陽の光を遮りのような動きながら、ステータス画面を開いた。
ルナは人差し指と中指を揃え、素早く下向きにスワイプしてステータスウィンドウを呼び出した後、つぶやいた。
「ツルギのやり方、ちょっと変です。」
「そ、そうだよ!もちろん知ってた!ルナちゃんを試してただけだ!」
「ツルギって面白いですなの!」
「もう本題に入ろう、いいか!?」
「わかりました、わかりましたー」
二人は情報を交換しながら、ルナがスキルを見せた。
‣ Dランク:『小治癒』『速度向上』『ファイア・ボルト』『ワインディング・ブレード』、 『簡易合成』
‣ Cランク:『浄化』『治癒』
‣ Bランク:『アストラル・アフィニティ』『アイデンティファイ』『栄養生成』
‣ Aランク:『アストラル・フレア』
ルナのスキルを確認し、ツルギは二つのことを思った。ひとつは、これほどのスキルを持っていても肉のゴーレムを倒せないなら、自分の可能性も大きく制限されるということ。そしてもう一つは、ルナがツルギのスキルが一つしかないことについて特に何も言わなかったことだった。
フランに孤独なスキルの状態がこの世界での自分の立場を危うくすると警告されて以来、ツルギはこの瞬間を密かに恐れていたが、ルナはそれを気にする様子もなく、もし気にしていたとしても、それを見事に隠していた。
ツルギはルナに自分のスキルについてコメントさせないため、頭に浮かんだ最初の質問を彼女に投げかけた。
「鎖を壊せるスキルがないって言ってたけど、ルナちゃんのAランクスキルは結構強いんじゃないか?」
「えっと……理論上は強いはずなんだけど……この状況では使い物にならないです。」
「使い物にならない? 本当か?」
「うん、このスキルは生き物にしか使えないんです。だからゴーレムには効かないです。」
「なるほど……」ツルギは腕を組み、静かに頷いた。
そのまましばらくの間、二人は沈黙し、お互いの目を見つめ合った。窓から差し込む月明かりが、ルナの横顔を柔らかく照らしていた。
ふいに、ルナは視線を外して近くの本の山を指先でつつき始める。まるで会話を続けるのが気恥ずかしいかのように、無造作に積まれた本の中から一冊を取り出した。
「ねぇ、ツルギ……塔を出た後に、行きたい場所ってあるですか?」
ルナの声にツルギが視線を落とすと、本の擦り切れた表紙に地図が彫られていた。使い古された古いアトラスのようだ。
ルナは楽しそうにページをめくり、指でなぞりながら、ある地点を示した。
「ルナが見たい場所はたくさんあるけど、一番行きたいのはブラットフーグの逆さ滝です!」
彼女の指が止まった先には、モンスターや動物の挿絵が緻密に描かれていた。
ツルギは感心したように目を細める。
「すごい……この本、めっちゃよくできてるな。」
「で、ツルギは!? ツルギはどうなんですか!?」
ルナが目を輝かせ、顔をぐいっと近づけてくる。
その無邪気な姿に、ツルギは思わず噴き出しそうになった。
まるで彼女の背後に、見えない尻尾が生えて、元気よく振られているかのようだった。
「クッ……」ツルギの肩が小さく揺れる。
ルナの純粋な興奮ぶりが妙に可愛らしくて、笑いをこらえるのに必死だった。
「もぅ……からかってるんでしょ。ふんっ!」
ルナは口を尖らせて、そっぽを向く。その頬はほんのり赤く染まっていた。
「そうじゃないよ、ルナちゃん。ただ、君の仕草に驚いただけだよ。」
「もう、言わなきゃよかったです! バカ! べーっ!」
ルナは本をぎゅっと抱きしめ、不機嫌そうにツルギから目を逸らした。
「おい、いつまで舌を出してるつもりだ? もしかして、本当に子供なのか?」
「からかわないでよ! バカ!」
「バカって言う方がバカだぞ、バカ!」
「バカ、バカ、バカ、バカ……バ……あいたっ、舌が痛い!」
ルナが慌てて舌を押さえ、涙目になる。
ツルギはそんな彼女の姿を見て、ついに堪えきれず吹き出した。
「くっ……アハハハッ!」
「もぉ~、笑わないでくださいっ!」ぷくっと頬を膨らませるルナ。
ツルギは肩を揺らしながら笑い、やがて息を整えた。
「でも、真面目な話、この辺りのことはあんまり知らないんだ……アンゲヒルドだよな?」
「あ、そうです……」
ルナも、ようやく表情を落ち着かせた。
さっきまでのふざけた空気は消え、彼女は地図に視線を落とす。
「ツルギはここ出身じゃないし、この辺のことを知らなくても仕方ないです。でも、よく考えると、外の人の割にはアンゲヒルド語をすごく上手に話せますね。」
「……あ、ああ、もちろん……ははは……」ツルギはぎこちなく頭を掻く。
ルナは首を傾げたが、あまり深く考えないことにしたのか、本を開いて地図を指差した。
「ここは『孤高の塔』と呼ばれている場所です。そして、グラスミア高原の中心にあるんです。」
「じゃあ、一番近い村とか分かるのか?」
「それが、この村です!」
ルナが『リヒトフェルト』と記された村の名を指した。
ツルギはふと、頭の中が煩雑な情報で溢れていることに気がついた。
地名や森の名、塔の呼び名――すべてが初めて聞くもので、彼にとってはあまりに未知の世界だった。
「リヒトフェルト、フヴィスラルヴァルトの森……」
ツルギは地図を覗き込みながら、その言葉を反芻したが、まるで頭に入ってこない。
塔の中で目覚めた瞬間から、驚きの連続だった。
見知らぬ世界に放り込まれ、奇妙な生き物に殺されかけた、目の前には今も尚、この奇妙な少女がいる。
ツルギはそっと息を吐いた。
ここに来てまだ一日も経っていないはずなのに、すでに何日分もの出来事を経験したかのような疲労が体を包んでいた。
「ルナちゃん、色々教えてくれてありがとう。でも……今日はもういいだろう。」
ツルギは地図を見つめながら、わずかに肩を落とす。
「明日から訓練を始めよう。」
「は、はい!」
ルナは明るく答えたが、ツルギはその元気さを少し羨ましく思った。
「それじゃ、ツルギはもう寝るですか?」
「まあな。頭がパンパンだ。」
ツルギはぼやきながら、床に地図を置いた。
「じゃあ、おやすみなさい、ツルギ!」
「おう、おやすみ。」
ルナは本を抱えたまま、ぴょんぴょんと軽やかな足取りで部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、ツルギはぼんやりと考え込む。
彼にとって、この塔の中は静かで不思議な空間だった。
けれど、その静けさは決して心を落ち着かせるものではない。
むしろ、先の見えない未来への不安がひしひしと胸に広がる。
……まずは、この世界に慣れることから始めるか。
そんな考えを振り払うように、ツルギは廊下を歩き出した。
部屋へ向かう途中、ルナが用意してくれた部屋の前を通りかかる。その時、塔の外に広がる夜空がちらりと目に入る。見慣れた星空ではなく、見知らぬ空に浮かぶ月――
それでも、どこか懐かしいような気がした。
ルナちゃんが教えてくれた地図や場所の名前。
全てをすぐに理解できるわけではないが、この世界で生きていく以上、避けては通れない道だろう。
そう自分に言い聞かせながら、ツルギは部屋の扉を静かに閉じた。
その夜、ツルギの頭には様々な思考が巡り続けたが、やがて疲れ果て、静かな眠りに落ちていった。
月明かりが塔の中を優しく照らし、彼とルナの夢をそっと包み込んでいた。