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第一章11―境目の向こうへ

 血の味が口内に広がる。


 戦いの余韻が肌に焼きついている。だが、昂ぶっていたはずの感覚が急速に冷めていくのを、ツルギははっきりと感じていた。


 肉体は限界を超え、精神は擦り切れ、魂さえも削られるほどの激闘だった。スキルの差を埋めるためにスキル・ポイントまで半分使い切ったことで、彼の身体は満身創痍となり、血中のアドレナリンも急激に低下していく。


 景色が歪み、視界が暗転する。


 ――そして、目を開けると、そこにいたのは。




「こんにちは、ダーリン♡」


 艶やかな声が闇を撫でた。ツルギの全身が反射的にこわばる――


 くそっ……。今はこいつの相手をする気力なんてないってのに……。


「……フランか」


 低く唸るような声で応じると、どこからか響く軽やかな拍手が耳を打った。


 パチ、パチ、パチ――


 嘲笑を滲ませた音に、ツルギの眉がわずかに動く。


「まあまあ、そんなに警戒しなくてもよろしくてよ?今日はあなたを祝福しに来たのですもの」


「何の話だ?」


「『ブラッドスペル・ブレード』――見事に使いこなしていたわね?」


 ふわりとした仕草で紅蓮の髪を払いながら、フランは満足げに微笑んだ。


「わたくしの血も、ちゃんと起動させたし。それだけでも、お祝いに値すると思わない?」


「褒めるためだけに呼び出したとは思えないな」


「相変わらず疑い深いのね、ダーリン」


 フランはくすくすと笑いながら、手をひらりと翻した。闇のような布が舞い、そこから現れたのは――


 ツルギとルナを模した人形。




 フランは「ルナちゃん♪」と、まるで彼をからかうような口調で言いながら、わざと甘ったるく呼び、人形を指先で弄ぶ。そして、何気ない仕草でツルギに向かって放り投げた。


 反射的に手が伸び、ツルギはそれを掴む。


「ふふっ、《ルナちゃん》を上手く使ったわね?」」


 ツルギの指がわずかに強張る。


「もしあの子がいなかったら……あなた、少なくとも三回は死んでいたはずよ?」


 フランはツルギを象った人形を手に取ると、まずはその腕をぐいっと伸ばし、ふにふにと揉む。


「まあ、あの子は無垢ですもの。そういうことには鈍いタイプでしょう? あなたに利用されていることにも、きっと気づいていないわ」


 ツルギは人形を握りしめる。「……お前、本当に嫌な奴だな」


「ふふっ♪」


 フランは微笑んだが、その瞳には冷ややかな光が宿っていた。


「でも、あなたも分かっていたはずよね?」


「……何が?」


「あの子が、本当はあの場所を出たくなかったことくらいは」


「……」


「それでも、あなたは自分の意志を押しつけたのよ。彼女に決断を――強制したの」


 ツルギは人形を見つめ、無言のまま指を強く握り込んだ。


「……違う」


「本当に?」


「違う!」ツルギは呟き、顔を上げた。


「ルナちゃんは……自分で決めたんだよ」


「ええ、もちろん。彼女はそう思っているでしょうね?」


 フランは人形をくるりと回り、指を鳴らす。


 パチン――


 ルナの人形が、ぼそりと崩れ、闇へと溶けた。


 フランは彼の目を覗き込むように身を寄せ、ツルギの人形の頭をくるくると回す。


「でもねダーリン、あなたが一人では何もできなかったこともねぇ。」


「あの下等な存在がいなければ、あなたはあの戦いを生き延びることさえできなかった。そして、わたくしの血がなければ、あなたは戦うことすらできなかった」


「……」


「そうは言ってもわ、安心しないでください。二人を研いでいるのよ、ダーリン♡」


 短く息を吐きながら、ツルギは微かに頭を振る。


 フランの皮肉やからかいにはもううんざりしていたが、こいつにしか答えられない疑問があるのも事実だった。ツルギは不快感を押し殺し、できるだけ真剣な声で問いかける。


「で、もう一つ聞きたいんだけど……」


 ツルギは内心、戸惑っていた。ルナのことも、戦いのことも、考えるべきことが山ほどある。だが、彼の脳裏にはもう一つ、ずっと気になっていた疑問があった。


 何か……おかしい。いや、異世界なんだからおかしいのは当然か? だが、それにしたって――


「……この世界の言葉、俺、普通に聞き取れてるけど……これ、お前の仕業か?」


 フランの唇が、一瞬だけ弧を描いた。


「ふふ……ダーリン、あなたは異世界召喚のアニメを見たことがある?」


「……はーー!?」


「召喚された主人公が言語を理解できないせいで、一話まるまる異文化交流に苦労する展開なんて、テンポが悪すぎてダメですわ!」


「……」


「そんなの、ただの視聴者お断りなストレス展開でしょう? わたくしは、もうちょっと合理的なものが好きですの♡」


「……お前に聞くんじゃなかった。」


「ええ、そうねぇ~♪」


 フランが楽しげに笑うと、ルナの人形の残骸が地面に広がり、その黒い破片がゆらりと宙に浮かび上がる。


「でもねダーリン、あまりわたくしを独占しすぎると、あなたのプリンセスが寂しがるかもしれませんわね。」


 残骸が収束し、螺旋を描くようにして歪みの中心へと集まり、闇の裂け目――ポータルへと変わった。


「まあ、あの子が泣き崩れてしまったら困りますもの。早めに返してあげますわ♡」


 フランがわざとらしく肩をすくめ、ポータルが完全に形成される。


 ツルギは唇を噛みしめ、ポータルへと足を踏み入れる。




「でもね~」




「もし彼女が酷く傷ついていたら?」


 フランの声が背中を刺す。ツルギの足が一瞬、闇の縁で止まる。




「「それどころか、もっと悪いことになっていたら?」


 ツルギの人形の片腕を掴み、手を振って別れを告げるように。


「わたくしの提案、受け入れることをお忘れなく♡」


 闇の裂け目が呑み込む直前、彼女の声だけが残った。


「ばいばい、ダーリン♡」


 フランはツルギの人形を踏みつぶし、妖しく微笑んだ。


 ツルギは振り返らず、闇の中へと消えていった。




※※※※※※※


 


 ツルギは驚きとともに目を覚ました。鉄の匂いが鼻をつく。


 


 意識がぼんやりと戻ると、視界は薄暗く、手のひらがかろうじて見えるほどの闇だった。


 ――あの女、フラン……


 ツルギの脳裏に、彼女の言葉が蘇る。「あの子が、本当はあの場所を出たくなかったことくらいは」


 違う。ルナは自分で決めた。そう思っていた。


 でも、もし、俺の言葉が無意識のうちに、あいつを追い詰めていたとしたら?


 それは本当に彼女の意志だったのか?


 俺は本当に……あいつを助けたんだろうか? それとも、ただ俺の都合を押しつけただけなのか?


 膨れ上がる疑問とともに、ツルギはゆっくりと呼吸を整えた。


その時、不意にふわりとしたシルエットが頭上に浮かんだ。


「ツルギ、やっと覚ました!」


 ツルギはそっと瞬きをし、意識を現実に戻す。


 視線を動かすと、彼女の顔がすぐそばにあった。


 頭の後ろに感じるものは、驚くほど心地よく、柔らかく滑らかだった。


 その声を聞いた瞬間、全てを理解する。


「うん……でも、なんで膝枕してくれるの?」


「……あっ、嫌だったですか?」


 ルナが少し不安そうに問いかける。「この汚い石の床で休むよりはいいと思ったですけど……」


 そう言って、彼女は立ち上がる仕草を見せた。


「いや! そうじゃない!! 絶対に!」ツルギは反射的に声を張り上げてしまった。


 自分でも驚くほど、即答していた。


「……?」


 ルナがぱちくりと瞬きをする、そしてツルギは思わず口をつぐんだ。


「えっと……」


「…………」


 気まずい沈黙。


「……あぁ、ごめん、声を荒げるつもりはなかったんだ。」


 ツルギは咳払いをしながら、誤魔化すように顔をそむけた。


 ルナはじっと彼の顔を見つめると、少し考え込むような仕草をする。


「ツルギ、なんか変わってますねぇ~」


 そう言いながら、彼女はツルギの額をそっと触る。


「もしかして熱でもあるんですか? ……それとも頭を強く打ったですか?」


「おい、俺の正気を疑うな!」


 ツルギは思わず目をそらした。


 ルナはクスクスと笑った。


「でも、ツルギが起きてくれてよかったです。すごく心配したですよ?」


 ツルギは少し目を伏せた。


「……悪かったな。無茶させた。」


「え?」


「キミに……最後の一撃を任せたのは……」


「ツルギ?」


 ルナは小さく首を傾げる。


 ツルギは短く息を吐き、頭を振った。今、悩んでも仕方ない。


「まあ、ルナちゃんは元気そうだな。うまくいったんだろう?」


「は、はい……なんとか……えへへ」


 ルナは少し照れくさそうに笑う。


「ツルギのおかげです。最後、ルナ……ちょっとだけ、頑張れたです。」


「……俺の……おかげ?」


 ツルギは一瞬きょとんとし、それから小さく肩をすくめた。


「いやいや、俺なんもしてねぇだろ。柱の陰で気絶してただけなのに、そんな大げさに言うなよ」


 ――その瞬間、ルナの瞳の奥に、揺らめく感情が宿る。


「バカですよ、ツルギは……」小さな声で、ぽつりと呟いた。


「え?」


「ツルギ、おおバカです!」


 ルナは勢いよく言い直し、彼の胸を軽く叩いた。


「……え、なんか俺、怒られてる?」


「怒ってないです! ……ちょっとだけ、呆れてるです。」


 ルナは膨れっ面になりながら、ふっと視線をそらした。


「「ツルギが……あんなにボロボロになりながら戦ったのに、ルナのために……」


「え……」


「それを、"俺は何もしてない" だなんて……そんなの、バカすぎるです!」


 ツルギは言葉を失った。


「ルナが戦ってた時のことを……ツルギがそう言ってくれたから、やっと立ち向かえたんだ」


 ツルギの目がわずかに見開く。


 あの言葉を……?


 "自分に嘘をつくのは、もうやめろ。後悔しない道を選べ。"


 ――あの時の、ほんの少しの勇気が、こいつをここまで動かしたのか――


「……そっか。よくやったな。」


「えへへ……」


 ルナは嬉しそうに笑い、ツルギの乱れた前髪に触れる。


 ツルギは目を細め、その手の温もりを感じながら黙っていた。


 ……そうだ。少なくとも、ルナちゃんは笑っている。


 こいつの言葉なんて関係ない。


 ルナがそっと耳元で呟く。「……ありがとう」


 ツルギは少し顔を背け、ふっと息を吐いた。


「……んー、まぁ、ルナちゃんがこれだけ尽くしてくれるなら、また戦ってもいいかもなぁ?」


「えっ……?」


「いや、だってさ、戦った後に膝枕付きで甘やかしてくれるんだろ?」


「な、なんですか、それぇ!? そ、そんなつもりじゃ……っ!」


 ルナの顔が一瞬で真っ赤になり、慌てふためく。


「も、もう知らない! ツルギなんか、もう起こしてあげませんからねっ!」


「おっとっと!?」


 ぷいっとそっぽを向くと同時に、彼女は容赦なくツルギの頭を膝から落とした。


「いってぇ……! だからさ、冗談だってば!」


「もう知らないー!!」


 ツルギは苦笑しながら頭をさすり、ゆっくりと立ち上がった。


 まだ少し足元がふらつく。


 体のあちこちが鈍く痛むが、それでも悪くない。


 ルナはまだ頬を膨らませたまま、ちらちらとこちらを伺っていた。


 さっきまでのやりとりが嘘のように、ツルギはふっと息をつく。


「……」


 ツルギは何も言わず、手を差し出した。


 ルナは一瞬だけその手を見つめ――そして、掴んだ、立ち上がった。


 冷え切った地下室の暗闇の中で、彼らの純粋な温もりがその空間を包んでいた。




※※※※※※※




 ツルギとルナは互いに支え合いながら、狭い壁を頼りに、表面へと続く階段を上り始めた。


 洞窟のような地下室から続く石の階段。湿った石の匂いが鼻を突き、彼らの足音がかすかに響く。戦いの疲労と汚れはまだ彼らの体に残っていた。


 やがてツルギは日の光の中でルナの姿を目にした。


 ルナのドレスはぼろぼろで、もともと白かった生地はほとんど血に染まり、赤黒く変色していた。


「ル、ルナちゃん! その服――」思わず声が裏返る。


「ああ、それなら心配いらないです。『簡易合成』を使って元通りにできますから、ツルギの服と同じようにね」


 ……ルナちゃんが直してくれてたんか……


「……いや、服のことじゃなくて。本当に大丈夫か? 結構血を失ってたし、回復スキルじゃ血液は補えないって言ってたじゃないか。ほんまに平気?」


 ツルギの問いに、ルナの笑顔が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。


「……大丈夫です。」


 彼女はそう言った。だが、その声はわずかに震えていた。


 ――なんや、この違和感。


 いつもなら、ルナちゃんはもっとふざけて誤魔化すはずなのに。今の彼女の声は、冷たく、どこか突き放すようだった。


「……?」


 ツルギが声をかけようとした、その瞬間――


 ルナはふっと俯き、まるで逃げるように階段を駆け上がった。


 ツルギは彼女の背中を見つめ、眉をひそめる。


 逃げた……?


 彼は小さく息を吐き、ただその背中を見送る。




 ルナは塔の扉の前でぴたりと足を止めた。


 指先がかすかに震える。


 ここを出ることは、塔という牢獄から解放されること。


 ――でも、同時に逃げられなくなることでもある。


 運命を――この先にある何かを、受け入れなければならない。


 喉が詰まり、胸が押しつぶされるような感覚に襲われる。


「ルナちゃん?」


「は、はい!」


「……どうかした?」彼は少しだけ声を落とし、慎重に言葉を選ぶように問いかける。


(もしツルギがこの迷いに気づいたら――?)


「……あ、えっと――」


 ルナはぎこちなく笑い、慌てて話題を変えた。


「ルナはただ、体を洗いたいです……『浄化』なら汚れは落とせますけど、ルナの血までは……」


 ツルギは少し驚いたように目を瞬かせるが、すぐに納得したように頷く。


「そうか……」


「ツルギが先にどうぞ。その間に服を直し、洗っておきますから」


「えっ……」ツルギの顔がほんのり赤くなる。


「いや、服を直すのはともかく……その、洗うのまで世話されるのは……」


「何言ってるんですか?」ルナはすかさず言葉を遮る。「もう直してあげたんですから、洗うのなんて大した手間じゃないですよ?」


「そ、そりゃそうかもしれんけど……」


「では決まりですね!」 ルナは普段と変わらぬ明るさを装った。


 ツルギは小さく息を吐く。本当に、変わらないようにしているんだな……


「……じゃあ、水を汲んでくる。」


 そう言って、彼は塔の裏手へと歩いていく。




 ルナは扉にそっと手を添えた。長く過ごしたこの場所。


 ――出口はすぐそこなのに、心だけが、まだ閉じ込められたままのようだった。


 深呼吸をして一度目を閉じ、気持ちを落ち着ける。そして、扉を開け、中へと足を踏み入れた。




 塔の一階は、冷たい空気が漂う、無機質な空間。


 何もない。誰もいない。


 ルナがここに来るときはいつも、誰かがドアを開けてくれるかもしれないという儚い希望を抱いていた。けれど、奇跡が起こったことは一度もなかった。


 階段を上る。


 二階は、彼女が初めて心を奪われた本――『ブレイブ・ルミネッセンス』を見つけた場所。


 騎士と王女、そしてドラゴンの物語。


 この本を開くたび、現実の虚しさから逃れようとした。ページは擦り切れ、角が折れ、けれど、それでも彼女の心は救われた。


 階段を上る。


 三階は、本を整理し、タイトルを暗記し、時間を埋めるための「忙しさ」を作り出した場所。


 しかし、日々はぼやけ、やがて時間の感覚を失っていった。


 階段を上る。


 四階では、窓際に座り、同じ景色を見つめながら、祈っていた。


 神さまに。


 そして、誰とも知れぬ「何か」に。


 終わりのない悪循環を断ち切ってくれる何者かに。


 階段を上る。


 そして五階、


 ルナの部屋。


 この塔の中で、唯一“家”と呼べる場所だった。


 けれど、孤独の重さは、ここでも変わらなかった。


 ルナはドアにそっと手を置く。


「……」


 躊躇いの末、ゆっくりと開く。


 目に飛び込んでくるのは、見慣れた光景。


 何も変わらない部屋。


 しかし、この部屋が、今度こそ「過去」になるのだと、彼女は確信していた。


 ルナは本棚に近づき、指先で背表紙をなぞる。持っていく本を選びながら、彼女は静かに決意を固めていた。


 ルナは部屋を出ると、ツルギが置いていった制服を見つけた。扉の前に、丁寧に畳まれている。その横には、彼が汲んできた三つ水の入った桶。


 彼女は静かに屈み、指先を水に浸す。


「浄化‼」


 水の表面が淡く光り、汚れが消えていく。


 次に、ツルギの服を桶の中で優しく洗い、汚れを落とす。


 服を持ち上げ、水が滴るのを見つめながら、小さく息を吐く。


「簡易合成‼」


 傷んだ部分がゆっくりと修復され、元の形に戻る。


 最後に、手のひらに小さな炎を灯した。


「ファイア・ボルト」


 指先に赤い光が揺れる。しかし、ルナはそれを放たず、ただ静かに熱を生み出す。やがて服の水分が蒸発し、乾いていくのを感じながら、彼女は小さく微笑んだ。


 ルナは服を畳み直し、ツルギの部屋の前にそっと置いた。


 ドアを軽くノックする。


 しばらくの沈黙の後、彼の声が中から聞こえてきた。


「サンキューな――」


 ルナは部屋に戻ると、草をまとめ、指先で編み込んでいく。『簡易合成』を使い、丈夫な素材へと変えていく。


 二つのバッグを作るために。一つはツルギ用。もう一つは自分用。


 


 彼女がバッグ作りに取り組んでいる間に時間が経った、ツルギが静かに戻ってきた。彼は何も言わず、本棚から一冊の本を手に取り、座る。


 ……この沈黙は、心地いいものなのか、それとも耐えがたいものなのか。




 分からない。


 それでも、彼の存在が近くにあることに、彼女は少しだけ安堵していた。


 数十分後、ようやく作業が終わる。長い間座っていたせいで、足が固まっていた。


 ルナは隣の部屋へ行き、ドアを静かに閉めた。部屋の中には、彼女が持ち込んだ二つのバケツが置かれていた。一つは自分の体を清めるために、もう一つは汚れた服を洗うために。彼女は木製の洗面器に水を張りながら、静かに息をついた。


 ルナは服を脱ぎ、冷たい水の中にそっと足を踏み入れた。小さい方のバケツを持ち上げ、躊躇いながら頭から水をかぶる。傷口に水が触れた瞬間、鋭い痛みが走った。


「っ……」


 顔をしかめながら、最も深い切り傷に手を当てる。水は一瞬赤く染まり、やがて透明に戻った。戦いの名残が流されていく。彼女は丁寧に体を拭いながら、腕や足を確かめた。まだ痛みは残っている――けれど、もうどこにも傷跡はなかった。


 ルナはドロワーズ、ブラとドレスを水に浸し、浄化のスキルをかける。汚れが消え、布が純白へと戻っていく。さらに『簡易合成』で破れた箇所を修繕し、元通りの姿に戻した。だが、手に取ったそれは、以前と同じものではないように感じられた。


 着替えを終え、窓辺に立つ。遠く地平線を見つめると、空は深い青に染まり、沈みゆく太陽が柔らかな橙色の光を投げかけていた。その美しさは、どこか不安を掻き立てる。


 彼女はそっと手を伸ばした。けれど、今までと違う理由で――


 手の届かないはずだった無限が、今は目の前にある。




※※※※※※※




 塔を離れた彼女は、ツルギと並んで歩いていた。二人の歩調は遅かった。ひんやりとした風に湿った土の匂いが混じり、静けさが二人を包み込んでいた。だが、一歩ごとにルナの胸は重くなっていった。




目には見えない壁が、そこにあった。




 長年彼女を閉じ込めていた障壁。それはもう消えたはずなのに、まだそこに立ち塞がっているように感じた。無意識に立ち止まる。


「……ん?」


 ツルギが振り返ると、ルナは硬直したまま前を見つめていた。まるで目の前に何かがあるかのように。




 ――そして、力が抜けた。彼女は膝をつき、地面に倒れ込む。ドレスの裾に土がついた。幼い頃、初めて障壁に触れたあの日と同じだった。


 指先で大地を握りしめる。脳裏に浮かんだのは、アリア姫の姿。彼女が幼い頃から憧れ続けた物語のヒロイン。


 アリア姫は強く、美しく、気高かった。ルナとは違う。


「……ルナは……」掠れた声が漏れる。震える手を伸ばしたが、空中で止まった。


 本当に外へ出られるのか?自分は変わったのか?


「覚悟はできたと思ってた……全部が終わって……フラシュゴーレムと戦った後で……でも、まだ……」


「ルナは、アリア姫みたいに強くも勇敢でもないです……こんな簡単な一歩すら踏み出せない……」


 ルナはまだ地面に座っているので、優しい表情でツルギが彼女を見ました。「アリア姫って、ルナちゃんの好きな本のキャラだよな?」ルナは小さく頷く。


「その本は読んでないけど……最初から強かったのか?迷いとか、不安とか、一度もなかったのか?」


「無理だと思う時があった。でも、それでも……アリア姫が前に進むことを選んだ。」


「それなら、ルナちゃんも同じじゃないか?」


 ツルギは少し笑いながら、手を差し出した。


「俺には、ルナちゃんが十分すぎるほど強く見えるけど。」


 ルナはツルギの手を見つめた。胸の奥に長く沈んでいた何かが、波のように揺らぎ、ほどけていく。




それは鎖だった。




 かつて彼女を縛りつけていた鎖。逃げることも許さず、運命へと繋ぎ止めていた鎖。この塔に閉じ込められた日から、ずっと。


 光が差し込んだ。


 冷たい鉄ではなく、確かな温もりを感じた。指の隙間から流れ込む温かさが、残された鎖を断ち切っていく。


 彼はそばにいた。"お前はもう、独りじゃない"そう言われた気がした。


 深く息を吸い、ルナはゆっくりと立ち上がる。足元には、見えない檻の残骸が散らばっていた。


 彼女はナイフを取り出し、かつて障壁があった場所に突き立てた。


「それ、置いていくのか?」ツルギが尋ねる。


 ルナは頷いた。「もういらないから。」


 このナイフは、ずっと彼女のそばにあった。手に取ることはなくとも、その存在を知っていた。最後の手段。最期の選択。"ここにある" という事実だけが、ただ静かに寄り添っていた。


 これは、いつかの"出口"だった。逃げ道ではなく、閉ざされた運命に刻まれた、たったひとつの"終わり"。


 ――でも、もう違う。今のルナには、他の道がある。


 彼女は違う未来を選んだ。


 空を見上げると、黄昏の光が広がっていた。塔はもう、影を落とさない。光だけが、ルナを照らしている。


 ツルギはそんな彼女の横顔を見て、目を見開いた。


 ルナの瞳には、ようやく微笑みが映っていた。




 ――かつて運命に囚われた少女が、今、騎士の手を取る。彼女はよく分かっていた。ツルギは本物の騎士ではない。けれど、それと同じように、ルナも本物の姫ではなかった。


 ――それでも、構わない。


 むしろ、彼が"本物の騎士"でなくてよかったとさえ思う。名誉のためでも、誰かに讃えられるためでもなく、ただ彼として彼女を救い出した。


ツルギだからこそいい。


 彼が"ルナの騎士"だからこそ――それが、何よりも誇らしかった。彼女は勝手に、そう決めた。


 ちょうどツルギが、彼女の瞳に落ちた闇を拭い去ることを"勝手に"決めたように。けれど、それはもう"わがまま"ではなかった。初めて、ルナは"願い"を持つことができた。


 幼い頃に夢見た姫のように――誰に許されるでもなく、誰かに強いられるでもなく、"自分の想い"を選ぶことができた。それは、何よりも幸福なことだった。


 未来に何が待っているかはわからない。だが、ルナの胸には確かな光が灯っていた。


 ツルギを導く光として。


そして、彼女のために剣を振るう、たった一人の騎士として。二人は並んで歩き出した、




境目の向こうへ――

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