第一章10―姫君の心
ルナが自分の状況に気づいたのは、11年前のことだった。
その日、目を覚ました彼女は、誰もいない部屋で一人きりだった。
「……パパ? ママ?」呼びかけても返事はない。
部屋の隅には古びた本が積み上げられていた。それを積んで窓を覗くと、見えたのは黒い空と、止むことのない激しい雨だけだった。
どれだけ高い場所にいるのかもわからない。ただ、地面は見えず、世界が雨に覆われているように感じられた。
最初は、少し長く眠りすぎただけだと思っていた。記憶は曖昧だったけど、両親と一緒にいたことは覚えている。だから落ち着いて、部屋を出て、両親を探し始めた。
でも、歩き回るうちにふと気づいた。
「あれ……パパとママの名前……なんだったっけ?」頭の中で必死に探しても、出てこない。
数時間前までは、確かに一緒にいたはずなのに――どうして名前を思い出せない?
ルナは、泣き出した。普通なら、両親がいなくなったことを理由に泣くはずだ。でも、彼女が泣いたのは、それだけではなかった。
自分が誰なのか、何者なのか――その答えがどこにもないことが怖くて泣いたのだ。
塔を探検するたび、絶望が深まっていく。誰もいない。ただ広がる石造りの空間。冷たい壁と、どこまでも続く階段。
彼女の泣き声を聞いてくれる人も、慰めてくれる人もいなかった。ルナは泣き続け、やがて息が詰まって吐き、それでもまた泣き続けた。
そして雨の音が、泣き声をかき消していった。泣き疲れた彼女は、冷たく硬い石の床の上で眠りについた。
――目を覚ましたとき、それはあった。
床の上に、銀色に光る小さなナイフが。
「……?」
目をこすりながら、ルナはそれを見つめた。
だれかが……ここに? ルナが眠っているとき?
その考えが浮かんだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。周囲を見回しても、誰の姿もない。
ナイフを置いたのは――誰? どうして?
彼女はじっとナイフを見つめた。小さな手のひらにも収まりそうな刃先。鏡のように磨かれていて、光が反射している。
怖い。でも――気になる。
手を伸ばしかけて、止めた。
こんなもの、触っちゃいけない。
でも、もし――もしこれを持っていれば、誰かに襲われても守れるんじゃないか?
怖さと疑念、そして小さな安心感が交錯する中、ルナは震える手でナイフを掴んだ。
冷たい金属の感触が掌に伝わる。それを胸に抱きしめ、塔を再び歩き始めた。
そのナイフは、彼女にとって唯一の「誰かの存在」の証だったから――
塔の外に出ようとしたとき、彼女は何もないはずの空間にぶつかり、地面に倒れ込んだ。
顔に傷ができ、白いドレスは泥で汚れた。
「……出られない?」
何度も試したが、見えない壁が行く手を阻む。
泣きたいのに涙も出ない。
自分はただの一人ぼっちではなく――閉じ込められている。
それでも彼女は諦めず、塔の周りを歩き回り、ついに地面に隠された扉を見つけた。小さな体でどうにかそれを開け、中へと降りていく。
雨が上から注ぎ続ける暗闇の中、足元の不安定さに怯えながらも、ルナは歩き続けた。
やがて、塔の最下層にたどり着いたとき――それはそこにいた。
半開きの巨大な扉。その向こうから、不気味な紫色の光が漏れている。
彼女は恐る恐るその中へ入った。
「……!」
目の前に広がる異形の存在――それは、人ではなかった。
巨大で、無数の肉の塊が絡み合ったような、醜悪な姿。歪な手足、歯のような突起が脈動している。
その存在が微かに動くたび、嫌な音が響く――ぐにゃり、ぐにゃりと。
ルナの足は凍りついた。「……悪夢……みたい……」
しかし、逃げることはできなかった。彼女はその場で震え、膀胱が溜めていた液体を放出し、足元の地面を汚した。
ナイフを握る手に力が入る。心臓の鼓動が耳に響き、冷たい汗が頬を伝う中、彼女はただその怪物を見つめ続けた――出口も、希望も見つけられないまま。
まるで悪夢のようだった。
でも、残念ながらルナにとって、現実だった。
彼女は、逃げた。暗闇の中を必死に走り、どこへ向かうともわからぬまま、ただ塔の中を彷徨った。そして――辿り着いたのは、静まり返った小さな部屋だった。
それから数日間、ルナはそこから一歩も動けなかった。
眠れば、あの夜の悪夢が蘇る。目を閉じるたびに、恐怖が鮮明に焼き付いた。身体は冷たく強張り、胸は痛みでいっぱいだった。何もかもが怖くて、食事さえ喉を通らなかった。
それでも――時間は止まってはくれない。
いくら涙を流しても、いくら震えても、朝は訪れる。陽が沈み、また昇る。その繰り返しの中で、やがてルナの視線は、部屋に並ぶ大きな本棚へと向いた。
数日ぶりに手を動かし、埃を被った本の一冊を引き抜く。
ゆっくりとページをめくる。最初はただ文字を眺めるだけだった。けれど、次第に物語の世界へと引き込まれていった。
最初に彼女の心を奪ったのは、ある一冊の本だった。
「ブレイブ・ルミネ……スセ…ンス……」
タイトルの意味はわからなかった。それでも、表紙に描かれた勇敢な騎士と巨大なドラゴンが、なぜか彼女の目を離させなかった。
ルナは夢中でページをめくり続けた。剣を手に戦う騎士、光を失いながらも彼を信じ続けた王女、そして運命に抗う物語――
現実の孤独も、寒さも、恐怖も、本を読んでいる間だけは忘れられた。時間が経つのも気づかず、彼女はひたすらに読み続けた。
――そして、物語は終わった。本を閉じると、世界に一人取り残されたような気がした。
だけど、すぐにルナは次の本を手に取った。今度は違う物語を。気づけば、彼女の世界は本だけになっていた。
季節が流れた。
ドレスの裾は膝を隠すほど伸び、髪は肩を超えて長くなっていた。それでも、変わらないものもあった。
本を読んでいる間だけは、孤独を忘れられたこと。そして――日に日に、胸の痛みが増していったこと。最初は何とも思わなかったナイフが、次第に魅力的に見え始めた。
ある日、ルナは手持ちの布と紐を使って、即席の鞘とベルトを作った。ナイフを太ももに括りつける。いつでも手の届く場所に。でも、視界には入らないように。
そんな日々の中で、彼女はついに塔の本をすべて読み終えた。しかし、数えきれないほどの本の中で、最初に読んだ本だけは特別だった。ルナはその物語を何度も読み返した。印象的な一節は、気づけば暗記していた。
「騎士は戦える。でも、姫の光があるからこそ、彼はどんな障害も乗り越えられるんだ」
最初に読んだ時は、その意味をよく理解できなかった。でも、それでも――ルナは王女のようになりたいと思った。
誠実で、公正で、純粋な心を持つこと。
それは、一人でもできる。
でも――誰かの光になることは、一人ではできない。
それこそが、ルナが一番望んだことだった。
だから、彼女は願い続けた。
いつか、騎士が自分を見つけ、助けに来てくれると。
けれど、彼女を見つけたのは騎士ではなかった。
彼は、高校生で――かつてはただの普通の人間だった。
けれど、なぜかルナは彼に懐かしさを覚えた。
彼と過ごした時間は短かった。けれど、その短い時間の中で、彼はルナに気づかせた。
ルナは、正直ではなかった。ツルギに対してではない。
――自分自身に対して。
今、気づいたです……ルナが恐れているのは、ゴーレムじゃないし、戦うことでもないし……一人ぼっちになることでもないです。ルナが本当に怖いのは……
この場所を出ることなの。
気づいた瞬間、胸の奥が沈んだ。それでも、ルナはツルギに地下室のことを伝えた。
黙っていればよかった。言い訳をして、見つけられなかったと誤魔化すことだってできた。でも、ツルギが回復すれば、塔を出てしまう。もう一度、ルナを一人にしてしまう。彼がそうすると、ルナには分かっていた。
ルナはただ、自分の都合でツルギを巻き込んでいた。でも、それだけじゃない。もっと一緒にいたかった。
彼女はかつて夢見ていたのだ。いつか騎士が現れ、塔から救い出してくれることを。
けれど、あまりにも長い時間が経ちすぎて、その想いは形を変え、混ざり合い、今や曖昧なものになっていた。
――だけどツルギは、ルナの想像を超えて遠くまで進んでしまった。
騎士のように、フレッシュゴーレム と戦い、そして……勝とうとしている。
その現実が、彼女を震えさせた。
彼は……成功してしまうかもしれない。
それが怖かった。
彼女はこれまでに三度、ゴーレムと対峙してきた。だが、脱出を試みたのは最初の二回だけだった。ツルギが来る前、最後に戦ったとき――ルナは気づいてしまったのだ。
自分が本当に恐れているものは、ゴーレムではなく、"塔から出ること" なのだと。
彼女はほとんどの人生をこの塔で過ごしてきた。それでも、外の世界のことを知らないわけではない。戦争が続いていることも、悪魔が存在することも、理解していた。
でも――ルナが最も怖かったのは、何よりも、自分の《運命》を知っているということ。
※※※※※※※
それでも……
ルナは唇を噛んだ。
ツルギがゆっくりと手を挙げ、指を握りしめる。その顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「……ヒグッ……後悔はしたくないです。」震える声でそう呟き、ルナは両手でツルギの手を掴んだ。
そして、まるでその温もりを確かめるように、そっと自分の右の頬へ押し当てる。
ツルギは微かに目を細める。傷だらけの手のひらに、小さな震えが伝わった。
「なら……何をすべきか、もう分かってるだろ?」ツルギはゆっくりと息を吐くように言った。
「この場所を出て後悔したら、どうするですか……?」
ルナの問いに、彼は少し考え――そして、肩をすくめた。「外の世界には問題が山積みだろうし……ここにいた方が良かったって思うこともあるかもしれないけどーー」彼は苦しげに身を起こしながら、言葉を続ける。
「でも、ここを出る最後のチャンスかもしれないことは、言えるよ。」
ルナは息を呑んだ。「ルナは、ずっとここで過ごしてきたから……本当に外に出たいのかどうかさえ、もう分からないです。」彼女はそう言いながらも、胸の奥で熱いものが渦巻いているのを感じていた。目を伏せ、手をぎゅっと握る。
すると、ツルギがふっと笑った。「見たいって言ってた場所を忘れたのか?」
ルナは小さく瞬きをした。
「"逆さの滝を見に行きたい"って言ってたろ? "永遠の祭壇に一緒に行く"約束だってしたじゃないか。」
その言葉が、ルナの胸の奥に深く刺さる。
彼女が言ったことを、ツルギは覚えていた。
それだけじゃない。ツルギは、ルナが"一緒に行きたい"と言ったことを、"約束"だと捉えていた。
……ツルギは、ルナと一緒にいたいと思ってくれている……?
胸の奥で、何かが弾けるような感覚がした。
"――騎士の言葉を胸に、アリア姫が自らの弱さを捨てて、本当の王女となったように。"
ルナも……そうなりたいです。涙を拭い、彼をじっと見つめた。
「決めたです、ツルギ!」ルナの声には、迷いがなかった。
「あの怪物を倒すのは、自分のためだけじゃなく、ツルギのためでもあるです!」
ツルギは驚いたように瞬きをし、それから苦笑した。「……もしサポートが必要なら……俺が何か考えるから……」
「違うよ、ツルギ――」
ルナは静かに首を振った。「柱の陰で少し休んで。もう十分無理してるです。」
ツルギは息を詰まらせた。否定しようとしたが、手足は重く、視界はかすんでいる。
(……チクショウ)
悔しさを噛み締めながらも、ルナを見上げた。
「……ルナちゃんの力を、信じてる。」
ルナは微笑んだ。
ツルギの背後にある水晶の光が、彼女の紫の瞳に反射する。その色は、どこまでも澄んでいて、そして、どこまでも儚かった。
彼をゆっくりと見つめたあと、ルナは静かに背を向ける。決意を固め、モンスターが潜む方向へと、一歩を踏み出した。
ツルギは、その小さな背中を見送る。
水晶の光に照らされた彼女の姿を見ながら、胸の奥で不吉な予感がよぎった。だが、それを振り払うように、目を閉じる。
(……信じなければならない。)
ルナは歩き続けた。
――塔の出口へと、運命へと、彼女自身が最も恐れていたものへと向かって。
だが、その心の奥底では、まだ知らなかった。
彼女の中に――
今まで知らなかった《炎》が、揺らめいていることを。
※※※※※※※
ツルギが地面に叩きつけられた衝撃が、クリスタルはまだ再構築の途中だった。再生を急ぐが、完了する前にルナが動けば、再び亀裂を広げられる。だから慎重に――慎重に動きを止め、彼女の行動を見極めている。
ルナは震える指を見つめた。武器はない。
持っているのは、たった二つのDランクのスキルだけ。しかも、そのうち一つしかこの怪物に対して有効ではない。
そんなことで、勝てるのか?
不安が胸を締め付ける。
ルナは……まだ怖いです。
この選択が正しいのかも、分からない。
目の前の未来が、あまりにも恐ろしい。
でも、それでも……
その言葉を思い出す。
"――騎士は戦える。でも、姫の光があるからこそ、彼はどんな障害でも超えられる。"
本の中で、アリア姫は勇気を振り絞り、王国のために戦った。
だったらルナも――
ぎゅっと拳を握る。王国も、富も、軍隊も持たないルナが、姫君のように持つことができるもの――それは、ただひとつ、
《心》
次に目を開けた時、何かが弾けた。
心の奥底で生まれた小さな炎が、ルナの全身を突き動かす。
迷いはない。考える暇もない。
ただ、走る。
クリスタルも脅威を察した。今までよりも細く、鋭い鎖が彼女を狙う。
ギィンッ!
避ける暇もなかった。鎖が腹部を貫通し、そのまま背中から飛び出して柱に突き刺さる。
「――ッ!」
衝撃に膝が崩れ、口から血がこぼれる。
それでも、ルナは両手で鎖を握った。
「――前に進まなきゃ!」
ルナは歯を食いしばり、体をひねる。そして、そのまま水晶を柱に叩きつけた。
ドガァンッ!!
炸裂する衝撃。
クリスタルの表面に新たな亀裂が走る。
鎖が霧となって消えると、ルナは自分の腹にそっと手を当てた。
すぐに傷がふさがっていくのを感じる。でも、そんなことはどうでもいい。
視線の先――
クリスタルの端に、不気味な突起が芽生えていた。
それは、まるで肉の形を再構築しようとしているかのようで――
再生する前に……終わらせなきゃ……!
ルナは歯を食いしばり、再び駆け出した。
クリスタルは次の攻撃に移る。
今度は鎖ではない。
無数の金属のスパイクが空気を切り裂きながら、彼女を貫かんと迫る。
シュバババッ!!
ルナは横に跳び、地面を転がる。
けれど――
避けたはずなのに――
鋭い痛みが身体を貫いた。
腕、肩、脇腹、太もも――無数のスパイクが突き刺さっている。
いくつかは浅く、いくつかは深く。
体の中を冷たい鉄が貫いている感触に、頭がぼんやりとする。
ポタ……ポタ……ポタ……
血が地面に滴り落ちる音が、やけに遠く聞こえた。
それでも、ルナは震える足で立ち上がる。
まだ……まだ動ける……!
体は血と傷で覆われてもう、動き続ける。
視線の先、クリスタルが静かに浮かんでいる。
紫の輝きが、彼女を嘲笑うかのように揺らめいていた。
もう……すぐそこです。
手足は震えている、呼吸も乱れている。
彼女の白く柔らかな肌には、今や無数の切り傷や擦り傷が刻まれていた。
……彼にがっかりされたくないです。
さらさらとした美しい髪も、血と汚れで汚れていた。
彼に……これ以上傷ついてほしくないです。
真白のドレスは、ほとんどが真紅に染まっていた。
ルナを……置いていかないでほしいです。
かつて薔薇色だった唇は青白く震えている。
ルナは決めた――
血に濡れた指が、強く握られる。
ただ一つの目標を胸に抱いて、進み続けた。
ルナはツルギの光になりたい!
ツルギと交わした約束を果たすために。
クリスタルが次の攻撃を準備する。
無数のスパイクが、彼女にとどめを刺すために形成される。
しかし、ルナはもう狙っていなかった。
クリスタルそのものではなく――
右手が、輝く。
まるで魂そのものが、形を成したように。
優しさと純粋さだけでなく、信念と勇気に満ちた、姫君の心の光。
「――ぁぁあああっ!!」
右手を突き出す。狙いはクリスタルではなく――
ツルギが打ち込んだ枠の中の骨。
「ファイア・ボルトーーォ!!」
ズガァァァァンッ!!!!
爆炎が炸裂した瞬間、骨が赤熱し、閃光とともに弾け飛んだ。超高温に達した骨がまるで弾丸のようにクリスタルの核を貫通し――
ゴォォォォォン!!
凄まじい爆発が塔全体を揺るがす、ルナの手に激痛が走る。
ジュッ……!
燃え上がる熱に、右手の皮膚が焼ける感覚。
衝撃波に弾き飛ばされ、ルナの身体が宙を舞う。
クリスタルの中心部で、亀裂がさらに広がっていく。
「……ッ!」
砕け散る音が、まるで世界が割れるかのように響いた。
ガシャァァァァンッ!!!!
閃光が消えた時――
――
―
クリスタルは、完全に崩壊していた。
ルナの体は、力尽き――
ドサッ……




