追憶・一
それは25年前の事。
大戦と呼ばれる、この島から人が消え去ろうとした瞬間。
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「何とか凌ぎましたね……」
眼鏡をかけた二十歳ぐらいの青年が老人に話しかける。
その顔には疲労の色が濃いが、表情自体は朗らかで愉しげだった。
少なくとも、空元気を演出する程度には余裕が残っているようだ。
男の名前はベルンハルト
王国において五本の指に入る将であるローベルト、その副官であった。
ベルンハルトのにこやかな笑顔に対し、ローベルトの顔は暗澹たるものだった。
そこら中に不死者と呼ばれていた獣共の肉片が飛び散り、それの何倍もの戦死者が敷き詰められている状況ではむしろそれが当たり前であった。
ベルンハルトの方が、むしろ狂人と呼べる。
「王家からの伝令では、敵の「残党」が来るとのことだったが……」
「王家の言うことなんて当てになりませんよ……勝利と言いながら首都にまで敵が攻め込んでくる、武芸祭を開くと言いながら自分たちは郊外へと避難……嵌められましたね」
本日は武芸祭……。
不死王の復活、だが南部の中心・グレイプニルでの決戦で彼の王は討伐され、その残党の不死者が首都に向かっている。
雑魚狩りのために市民から有志を募る……というのが王家の指針。
だが結果はこの有様、真実は大分違うようだった。
突如として空から現れた不死者の群れに祭りは地獄と化し、集まった戦人は必死の防衛戦を行うこととなった。
敵は飛翔していたが少数だったこと、黒霧を生み出すような上位個体が比較的少なかったのが幸いだった。
不死者にとっては今回の襲撃は先遣部隊でしかないのだろう。
「皆は無事だろうか……」
「ジークルーネでしたら、ひっくり返って潰れたカエルのようになっています……兵士たちが大笑いでしたよ」
「エルネストとアンヘルは……」
「こっちは中笑いぐらいでしょうか」
意地の悪い笑みを浮かべてベルンハルトは腹を抱えた。
底意地の悪い態度だったが、よくよく見ると腕が震えている。
今になって恐怖がぶり返してきたのだ。
どんなくだらないことでもいいから、笑っていなければ心が壊れる……そういう精神状態であるのだ。
副官がひとしきり笑い、ようやく落ち着いたところでローベルトは切り出した。
その顔は先ほどよりもさらに暗いものとなっている。
「息子は……わしの息子のランドルフはどうなった?」
「逃げました……あいつはダメですな」
ベルンハルトにはまるで表情がなかった。
失望という状態は既に過ぎている。
それは完全に見限ったという意味であった。
「恐怖で逃げるはまだ言い訳が利く……私も初陣は味方を見捨てて8メートルほど後退しましたし、ただあらかじめ荷物をまとめていたのはいただけない……知っていたんですか、グレイプニルでの決戦が惨敗に終わり、それを知った王族が我らを盾にして郊外に逃げようとしていたことを」
知っていたのならば例え貴方でも許さない。
その冷厳たる視線を、ローベルトは直視するのに多大な労力を必要とした。
「知らなかった、だが嫌な予感はしていた……いつもならば祭りのたびに賄賂をせびりに来る王家の徴税官が来ない、王族が市井の女を攫ったとの報告もなく、何よりも家柄が大きいものほど連絡がつかなくなっていたからのう、昨夜のうちに敗北の知らせが届いたのだろうな……命の選抜は常に上から、やりきれん」
不死者は女神の加護の強い王族を優先して狙うが、無防備な市民を狙わないという訳でもない。
単純に一緒に逃げるよりも、市民に何も知らせずに囮にした方が自分たちに来る不死者の数が少なくなるとの理由で情報を封鎖したのだ。
そして生存に必要な情報は国王から王家へ、その次に貴族へと伝えられる。
ジークルーネはしょせん没落した一家と、身内とは見られておらず、ローベルトが知らなかったのは単純に王家に嫌われていたから。
そしてローベルトの息子は父親ほど嫌われてはおらず、どこかで教えてもらったようだ。
一応は父親の荷物もまとめており、父親と一緒に逃げるつもりだったのだが、襲撃があまりに早かったため、連絡がつかなかったのが実情。
「ともあれ、あんな腐った王家など後で始末するとして今後のことを考えましょう……座して死を待つのは性に合いません……討伐軍を編成し、今度こそ不死王を滅ぼすのです、司令官は貴方、副官は私として……」
「それは良いが、表向きとしての神輿は必要じゃぞ……わしがトップに立てば、他の九剣聖の反発が予想される」
王家とそれを支える九剣聖と呼ばれる九つの名門貴族。
王家はそれなりに一枚岩だが、九剣聖同士はそれほど仲が良いわけではない。
過去には領地を巡って争いが起こったことも多々あり、九剣聖が一・バウムガルデン家の当主であるローベルトが上に立てば、その権威を盾に自家の利益を得ようとしていると勘ぐる者も出てくる。
ローベルトとて清廉潔白な人生を送ってきた訳ではない。
家を守るためとはいえ、人道に外れた行為に走ったこともある。
殺したいほど憎いと復讐に燃える人間も決して少数ではないのだ。
「ジークルーネにしましょう……今のところ、王家の中で信用を失ってないのは彼女だけです、彼女に私兵団を組織させてそれを中核に軍を運営すれば他の九剣聖も表だった反対はしにくいはず……エルネストやアンヘルのような身内は当然として、傭兵や冒険者などの平民上りがいいですね」
次々とプランを組み立てていく、ベルンハルト……その明晰さは歴戦の勇士であるローベルトも舌を巻く。
「息子を入れてはくれんか……」
「あの卑怯者を……正気ですか?」
心底、不愉快そうに顔を歪めるベルンハルト。
彼は目の前の老将を尊敬していたが、それが偽りであるかのようだった。
「わしも50を超え、長くない……このまま息子を安全な場所に置いておきたい気持ちもあるが……後が怖くてのう」
この戦いは人間の存亡をかけた熾烈なものとなるだろう。
仮に勝利したとして、それに参加しなかった者の戦後は非常に冷たいものとなる。
王家の連中は恐らく戦う気概などない。
戦後、彼らに対する怒りが爆発すれば、あるいは多くの血が流れるかもしれない。
参加し、「戦友」となれば、ランドルフはその粛清のターゲットから外れる。
「……御意にございます」
不本意極まりない、慇懃無礼な態度だったが、ベルンハルトは兎にも角にも了承した。
敬愛する老人に頭を下げられては、彼も無下にすることはできなかったのだ。