退学予定者・三
勉強を始めて数時間。時刻はおよそ夜の九時ごろ
エルネストはひたすら数学の問題を解き、その回答を見てハインリヒが的確に解説していく。
単純な計算ミスだけでなく、どういう勘違いをして間違えたのか。
またその数式がどういう局面で使うのか例え話を交えて学習させていく。
ハインリヒと言う男は教師が向いているようだった。
スヴェンの学力とセシリアの社交性の両方の長所を持っている。
「そろそろ休憩にするか……」
「意外に時間が経っていたな……俺が勉強関係でこんな感想を言うことになるとは」
教えた方が上手いせいかエルネストは時間が経つのを忘れていた。
元より学問とは無縁の男。
それが勉強で時間を忘れるとはなかなか感慨深い事であった。
「どうぞ……麦茶です」
「ありがとう、ロゼ」
食堂の奥から飲み物を持ってくるロゼ。
その顔は依然として暗い。
彼女は人に教えるのが不得手であり、結果的にそのせいでエルネスト、ハインリヒ両名に阻害される形となった。
仕方なく彼女は自分の勉強をしていたが、チラチラとエルネストを観察しており、まったく集中できていなかった。
「少し外の空気を吸ってきます」
フラフラと歩いていく様はどうにも危うい。
そんな彼女のフォローをエルネストは思いつけずにいた。
「随分と仲が良くなったじゃねえか……愛称呼びを許されているのは選抜戦関連で裏切る前のセシリア様だけだぜ」
「なんでなんだろうな……妙に懐かれている。モテ期か?」
「モテ期なんてないんだぜ。モテる努力をしない、あるいは努力を間違えた男に女は靡かねえよ」
どう見てもバカにしているとしか思えない嘲笑をハインリヒは浮かべるがエルネストは特に気にしない。
彼はどうも女にモテるらしいが、エルネストにとってそういった人間は別次元の異生物であり、自分と同じ人間とは思ってはいなかった。
「懐かれるには理由がある……そう言えば、俺の調べではエルネスト・シュタイナーはロスヴァイセ様の母親……ジークルーネ陛下の従者だったと言うが本当か?」
「女王になるまでは筆頭家臣だったぜ、偉いだろう」
どこか得意げなエルネストにやや呆れた視線を向けるハインリヒ。
とはいえその事実は嘘ではない。
王族としての義務を欠片も遂行する気のないジークルーネの父・ベオウルフ卿に失望した家臣は離散し、エルネストとアンヘルが奴隷市から買われた時にはまともな従者など残っていなかった。
不死王との戦い……大戦が始まった時には勤続十年を超えていた十代の二人が最古参だったというから家の没落は隠しようがない。
愚直なエルネストは剣を振るだけが能であり、実務は有能なアンヘルが担い、本来なら彼が筆頭家臣となるはずであったが、彼は家の内情をベルンハルトに売り払っており、つまりはスパイとして活動していたことが発覚したことでジークルーネに嫌われていた。
そのため消去法でエルネストが筆頭家臣となったのだ。
大きな落ち度がない……という非常に情けない理由なのだが、勿論エルネストはそこまでハインリヒに教えたりはしない。
「と言うことは、身内と思われているのかね……」
「それだけであそこまで懐くか?」
「ロスヴァイセ様の身内は現状、裏切者か薄情者のどちらかしかいねえからな……そんな時にまともな身内がやってきたとあって過度に反応しているのかもな」
ロゼの父親はクズ、母親は育児放棄、家臣のアンヘルは見限っていなくなるとロゼの周囲は惨々たる有様だった。
見かねたローベルトが自分の家に連れ帰ったが、そこでも安息の時間は非常に短いものだったのだ。
「バウムガルデン家に来て数年でローベルト様が鬼籍に入ったが、それ以降はいびられまくったらしい」
「仮にも王女だろうに……誰が虐めるんだよ」
「話はややこしいが、ランドルフ様の奥さんだな……いや後妻? 後後妻? いや後後後妻もかな?」
「意味が分からねえよ」
「ランドルフ様はジークルーネ陛下にフラれて以来、何を思ったのか結婚と離婚を繰り返してな……そのせいで家庭環境は滅茶苦茶、その余波をもろに受けることになったのさ、ロスヴァイセ様は」
ハインリヒは同情の色を浮かべて先を続ける。
だがその中にはっきりと愉悦が混じっていることをエルネストは見逃さなかった。
どこまでいっても彼にとってはロゼの不幸は他人事だったのだ。
とまれ、何度も結婚をしたということは簡単に離婚できたということ。
ランドルフが選んだ妻は貴族階級だがいずれも家柄が低く、つまりは上級貴族当主である彼が気まぐれに追い出せる程度の女ばかりだった。
妻となった女として、これはたまらない。
歳を取ってから追い出されたら? 子供ができて追い出されたら? 養育費を払うかどうかもランドルフの胸先三寸。「俺の子供じゃない、妻は不倫していた」と言われれば身分の低い女は煮え湯を飲まされるままとなるしかないのだ。
いつ下されるか分からない理不尽な宣告。当然のごとく妻たちは不安に駆られ心を狂わせていく。
そんな目の前に自分に抵抗できない幼女が一人。
折しも王室廃止が上流階級の中でまことしやかに噂されていた頃。
―――ロスヴァイセと言う幼女は平民だ、誰も報復に来ることはない。
こうして妻たちはうっぷん晴らしにロスヴァイセを虐めることにした。
それにアンヘル、メイド長、他使用人一同も同調する。
ランドルフ自身はそれを見て見ぬ振りした。
彼は己の行為をまったく改める様子はなかったが、自分の妻たちに対する所業を悔いていたし、罪悪も感じていた。
だから妻たちの怒りが自分ではなくロスヴァイセに向かったことに内心安堵していたのだ。
「とことん不幸だな、ロゼは……擁護派はゼロか」
「さすがに周りが敵だらけじゃ生きていけねえよ……一応はセシリア様が擁護派だな。本人曰く、助けたというよりも年端もいかない幼女を虐める「妻」の所業にドン引きして制止したというのが近いところらしいが」
エルネストがセシリアの方を見る。
あちらの方も勉強合間の休憩に入ったようだ。
お茶とお菓子を楽しみながら、彼女は隣のスヴェンとじゃれていた。
スヴェンが横を向いたのを見計らって彼のお菓子をつまみ食いしようとしている。
あるいはスヴェンが首からかけた真鍮の懐中時計にいたずら。
スヴェン自身もそれを迎撃しているが、表情から見て嫌がっている様子はない。
まるで好奇心旺盛な子猫をあやしているようだった。
「随分と仲がいいな」
「物心つく前から一緒の幼馴染だからな。セシリア様の母親はバウムガルデンの分家の令嬢で同家の元メイド長。そして元ランドルフ様の何番目かの奥さん、セシリア様はランドルフ様にとっては連れ子、スヴェン様にとっては義妹と言う訳だ」
「元……?」
「もうとっくに離婚している……ちなみにランドルフ様はもう結婚する気はないようだぜ。さすがに懲りたのだろう。まったく父親の英雄ローベルト様は一人の女を生涯愛し続けたというのに、その子供はどうして色狂いになってしまうのかな」
「……」
エルネストは沈黙を続ける。
英雄ローベルトは三十半ばで若い妻を娶ったが、その妻は大戦の数年前に紫髪の若い男と共に家を出てしまった。
貴族同士の結婚は政略結婚だ。
本来なら外交問題だが、心が折れたローベルトは処分どころか追っ手を差し向けることすらしなかった。
公式上は別居したという扱いである。
「ま、女をとっかえひっかえしたランドルフ様に対する嫉妬しているってのが本音ではあるがな」
真面目な話をまぜっかえすようにハインリヒは下卑た笑みを浮かべる。
「お前も愉しんだらどうだ。いずれは死ぬ命だ……好き放題した方が得だと思わねえか?」
「俺は慎ましく生きるのが信条でな」
やや気圧されたエルネストが逃げに入る。
女性経験のないエルネストにしてみれば結婚自体がもはや異次元の領域であった。
「まあ、雑談はこれくらいにするか」
休憩は終わり、勉強を再開……と思いきやハインリヒはエルネストの耳元に口を近づける。
それとなく彼はスヴェンの様子を伺っていた。
話を聞かれたくない、との意図を察してエルネストが目を細める。
「祝賀会では七剣聖のお偉いさんが集まる。数か月後の遠征で壊滅する王党派にとってはここでテロを起こすのが最後の逆転のチャンスだ」
「そこまで分かっているということは……」
「おうよ……おびき寄せて王党派には数か月早くご臨終してもらうのがこちらの狙いよ。その件で詳しい話をしたいから、明日の夜8時ごろに二階の第二魔学教室に来て欲しい。あそこはBクラスの一部生徒がバーをやっているからな」
「どこまでも乱れているなこの学院は……」
「ほとんど小さな街だからな……人もモノも経験も金次第で手に入る」
ハインリヒの申し出にエルネストは受けるつもりだった。
人間同士の争いに興味はなかったが、降りかかる火の粉を払うのに躊躇はしない。
ましてやベルンハルトが運営する組織ならば、いかなる損害を無視しても潰すのが将来的には得だとエルネストは考えていた。
なお、この件にロゼを巻き込まないことは彼にとっては既定路線であった。
母親同様、謀略戦に彼女は不向き……少なくとも現状では向かない。
簡単に動揺するメンタルでは、暴風雨のような騙し合いの中で生き残れはしない。
一応は、彼女を案じての判断である。
だから外に出て大分時間をかけて戻ってきた彼女に、拒絶を示すのは特に他意の無いこと。
ハインリヒとの会話を途中から聞き耳を立てていたことに気づいていたにも拘わらず、エルネストは彼女の葛藤に気づくことはなかった。
「話は聞かせてもらいました……明日の会合、私も参加しますけどいいですよね?」
突如として食堂に乗り込んできたロゼのハインリヒは虚を突かれたが、気づいていたエルネストは余裕の態度で応対する。
「明日の会合は大人だけのもの……悪いが今回は遠慮してくれ」
ロゼの表情が凍り付く。
手の中のハンカチを引き散りかねないほどの力で握っている。
「いやお前、ロスヴァイセ様の現状を知っているんだろう。と言うか俺の話を聞いていたか?」
ハインリヒの絞り出すような声の意味もまた、エルネストは理解できなかった。




